7月16日『弔いの本』
図書館の中は、紙と木と、かすかな汗の匂いがした。
用件を伝えると、三階を案内された。葬送文化の棚は宗教史の隣らしい。長い間この仕事をやってきて、ここに足を運ぶのは初めてだ。棺屋は本を読まない。墓石屋と違って看板も出さない。死人が出れば向こうから来る商売だ。――これまでは。
先週、討伐隊員がひとり、赤壁の向こうで死んだそうだ。遺体は戻らない。
昨日、店に来たのは遺族ではなかった。死んだ冒険者の友人だという男。若い。カウンターの縁を握りしめたまま、こう言った。
――あいつを送ってやりたい。金は出す。
家族は。
――いない、たぶん。
信仰は。
――知らない。そういう話はしなかった。
名前は。
――酒場じゃ、みんなあだ名で呼んでた。届け出にも、適当なあだ名だけ。
私は引き受けることにした。
手元にあるのは、友人がかき集めた断片。遺体無し、宗派不明、出身不明、本名すら不確。三十年で初めて、手順書に載せようもない仕事が回ってきた。
三階の奥で、司書が棚の前に立った。銀色がかった髪。迷いのない手つきで三冊を抜く。
「宗派によって、弔いの形式が異なります」
◇
聖秘術教会。『万物は神のもとに還る。肉体の有無は問わない』。
魂が還るなら器は空でいい――よくできた理屈だ。しかし、司祭が七日間の祈りを捧げる必要があり、遺族か縁者の届け出が前提。そこらの友人では、資格が足りていない。
霊月信仰。『月光の届く場所に、名を刻め』。
錫板に名を彫り、屋外の祭壇に一年間置く。文字が風雨で消えた日が旅立ち。嫌いではない考え方だ――が一年間見届ける人間がいる。身寄りのない者に、それはいない。
遺教徒の匠神信仰。『最後に触れた道具を棺に納めよ』。
実にこの街らしい、道具が棺の中で人生を代弁する。三つの中で最も手堅く思えたが、彼の持ち物は全て赤壁の向こうだ。
三冊を閉じた。
どれも正しいのだろう。葬儀師としてはどの教義でも構わない。問題はいつもひとつ、遺された者が「ちゃんと送れた」と思えるかどうか、だ。
どれも送る側に「知っていること」を求める。名前を届け出る人、一年間を見届ける人、そして最後の道具の在り処。知っている人間がいなければ、どの作法も始まらない。
司書は手を止め、「お待ちください」と奥の書庫に向かった。
ついていく。廊下の壁に細いひび割れが走っていた。
書庫から出してきた一冊は、表紙が褐色に焼けていた。百年以上前の鉱山崩落事故の記録。三十人が坑道で閉じ込められ、遺体は回収できなかった。当時は宗派を持たない者も多かったそうだ。
記録にこうある。
『小さな棺に故人の名を記した紙を一枚ずつ納め、土に還した』
前例のない形式だ。崩落現場の監督と遺族が話し合い、「せめて名前だけは」と決めた。紙と名前だけで成り立つ、最も小さな弔い。
――記録を読む手がわずかに震えた。
司書が本の下にそっと手を添えた。私の手にではなく――本のほうに。
本を閉じ、少しだけ黙った。
「実は――」
◇
十年前、まだ別の街にいた頃の話。
店の前を通る女性がいた。赤毛が遠くからでも目を引く、若い冒険者。近隣の森で発生した腐海の討伐に参加しているという話だった。
毎朝、職人通りを通って街道に向かい、夕方、同じ道を戻ってくる。ただの通りすがりだ。あの子の人生の、ほんの端を横切っただけ。
その日、あの子のほうが先に足を止めた。棺が並ぶ店先。普通は目を逸らす場所だが、あの子は棺の表面を見ていた。木目というより、仕上げのほうを。平らに削った面を、撫でるように目で追っていた。
ある日、「いつか、この仕事辞めるんです」と漏らした。
手がいつも温かく、笑うと目が細くなる子だった。装備の補修用にと革の端切れをあげると、丁寧に頭を下げて帰る。
名前は聞かなかった。聞こうと思ったその日の朝、あの子は街道の向こうに出かけて、それっきり。朝も夕方も、店の前を誰も通らない。
元々身寄りのない子だったらしい。「行方不明」の届け出一枚で終わり。それだけだった。
誰も棺を頼みに来ない。だから私が作った。依頼書のない棺。ただ――中に何を入れればいいかわからない。空のまま土に埋めるしかなかった。
本棚の間を誰かが歩く足音が聞こえる。窓の外に遠く響く鍛冶通りの槌音。あの日もこんなふうに、街は普通に動いていた。
◇
「――それで、この記録を見て、あの時、名前を書けばよかったと思ったんです。けれど――」
声が止まった。喉の奥に言葉がつかえている。
「私も、あの子の本当の名前、知らないんですよ」
私が持っているのは、あの赤い髪と、笑い方と、夢と、温かい手の感触だけ。昨日来た依頼者のほうが、まだ知っていることが多いだろう。通りすがりの私は、あだ名すら知らないのだから。
司書は黙っていた。それから記録をもう一度静かに開いた。名簿のページ。名前が並ぶ中を指で辿り、ひとつの名前の前で止まった。
「この方は――通り名だけが記されていますね」
鉱山には流れ者が混じるものだ。記録を書いた人間は、現場で呼ばれていた名で書くしかなかった。
「……便箋を一枚、いただけますか」
◇
ペンが動く。名前を一つ書くより、ずっと時間がかかった気がする。
封をして、胸元にしまう。依頼の分はあの友人に書いてもらおう。あだ名でも、酒場での呼び名でも、覚えていることならなんでもでいい。
「十年、遅れましたね」
席を立つ。今日はまだ、仕事が残っている。
帰り道。風がすこし冷たくなっていた。胸元の封筒だけが、まだ温かい。




