7月15日『調律』
水曜の午後は光が長い。閲覧室の石床を横切る四角い日溜まりが、一時間かけてゆっくりと東へ移動していく。
静かな日だ。朝からの来館者は三人。返却が一件。
扉が開いて、小さな影が入ってきた。
革の道具入れを肩から提げた男が、入口で立ち止まる。私より頭ひとつ低い。白髪交じりの茶色い毛並みと、丸い耳。その耳がくるりと一回転して、館内の空気を聴いた。
カウンターの前に来ると、機械油がわずかに匂った。道具入れから音叉を一本取り出し、カウンターの角で軽く弾く。澄んだ音がひとつ、天井に触れて消えた。
「やあ、司書さん。今日もいい部屋だね」
調律師のフィンクさんだ。工房街で教会の楽器や自動機械の音を整える仕事をしている。年に数回、古い装置の図面を調べに来る。
「今日はちょっと、面白い困りごとがあってね」
困りごと、と言うわりに目が輝いている。
◇
工房街の教会には、二つの楽器がある。
真鍮製のパイプオルガンと、百年前に奉納されたという機械式の自動演奏箱。フィンクさんは二十年近く、この二つの調律を請け負ってきたベテランだった。
「オルガンの低音が、こう――合ってるのに、合ってないんだ」
パイプの音程は正確、演奏箱の歯車にも異常はない。けれど二十年聴いてきた耳には、何かが違って聞こえる。
「この子たちは自分じゃ何も言えないからね。代わりに聴いてやるのが、わたしの仕事だ」
フィンクさんが音叉を二本、カウンターに並べた。高い音と低い音。
高い方を鳴らして、カウンターの木に当てる。――木が震えた。その振動がカウンターの表面を伝い、返却待ちの本の表紙が小さく息をするように揺れる。私の指先にまで、確かな震えが届いた。
「この音叉とこの机は仲がいい。机が応えて鳴る」
低い方を同じように当てると、木は黙ったままだった。指先にも何も来ない。
「こっちは合わない。鳴らない。――じゃあ、何が鳴る鳴らないを決めてるのか。音叉の方じゃなくて、受け取る側の……えーと、厚みというか、硬さ? いや――」
言葉が詰まって、指が空を掻いた。
「厚さや硬さが、音叉の振動数と合っているから、でしょうか」
丸い耳がぴんと立つ。
「そう! それですよ。――ああ、司書さんは言葉にするのが上手だ」
話しながら、高い方の音叉を道具入れに戻した。
「では、仕組みの違うオルガンと演奏箱が同時に変わったということは、つまり――」
「そう。楽器じゃない。二つを包んでる部屋の方だ」
◇
三階の建築記録棚へ案内する。通路の途中で、フィンクさんが不意に足を止めた。
「……司書さん。歩いてて気づいたんだけど、足音の返りが変わったね。ここから先、壁が硬い」
片足で床を軽く踏み、耳を動かす。二歩先でもう一度。私には違いが分からない。
「――ほら。ここの砂岩、ところどころ小さなひびが走ってるね。古い建物だから仕方ないけれど」
フィンクさんの手が、壁に触れたまま止まった。
「……待てよ。そうか。教会の壁も、同じことが起きたんだ。そういえば先月、壁の補修があった」
教会の図面を広げると、乾いた紙と古い墨の匂いが立った。音叉の柄を定規がわりに南壁の寸法を辿る。
「修繕後の記録でしたら、こちらの建築棚ではなく、工事台帳に綴じられていることがあります。修繕は建物の記録ではなく、工事の記録ですから」
別の棚。ギルドの工事台帳を引き出す。フィンクさんの指が走った。
「――あった。これか。南壁の補修材、花崗岩。壁厚が指四本分増えてるね」
私はその下の一行に、一瞬だけ指を置いた。『原因所見――経年劣化。基礎部に微細な振動痕あり』。
「数字は分かった。でもね――数字は音じゃない」
音叉を取り出し、三階の石壁にそっと当てて弾く。目を閉じる。
耳がかすかに震えている。
「……砂岩は音を吸う。柔らかくて、すぐ消える」
次に柱。同じ動作。――耳の動きが変わった。さっきより細かく、長い。何かを追うような動き。
「こっちは花崗岩だから弾き返す。音が石の中を走って、戻ってくる。低い音ほど壁の中に入り込むから、低音域だけが影響を受けるんだ」
目を開けた。耳がぴんと立っている。
「これだ。オルガンも演奏箱も、低音だけが微妙におかしくなった。壁が硬くなって、音の返り方が変わったんだ。楽器は壊れてない。そして、部屋が悪いわけでもない」
小さく手を打つ。
◇
「楽器は一つじゃ鳴らないんです。弾くものと、響くものと、それを包む場所。三つ揃って初めて音になる。一つが変われば、残りの二つをそっちに合わせてやる」
フィンクさんが笑う。
「まあ、調律師としては、商売の言い訳みたいなもんです」
音叉の柄を、指先でゆっくり撫でた。
「しかし、修繕前のあの響きは、もう誰にも聴けない。図面は残っていても、あの部屋がどう響いてたかは――もうどこにも書けない」
「覚えていらっしゃるんですか」
笑った。口元の皺が深くなる。丸い耳だけが、わずかに伏せていた。
「はは。耳がいいのだけが取り柄でね。でもわたしが死んだら、あの音も一緒に消える。そういうもんです」
帰り支度をしながら、カウンターの上で音叉を軽く弾いた。
「いい部屋だねえ、ここは。音が素直に消える。耳が休まる」
◇
カウンターを拭いていて、本の影に音叉が一本残っていた。あの低い方だ。
拾い上げるとほんのり温かく、指先にかすかな油の匂いが移った。忘れ物の引き出しにしまう。
引き出しを閉めて、ふとカウンターの上を見ると、彼が広げていた工事台帳の複写依頼票が残っていた。日付欄。修繕工事の着工日――六月十八日。
六月の中頃。
手が止まった。なぜだか分からない。なぜこの時期に割れたのか。考えようとして、形にならなかった。
いや。……きっと、考えすぎだ。古い建物の壁は、いつか割れる。それだけのことだろう。
図書館が静かに暮れていく。夕日が閲覧室の石壁を赤く染めていた。
その赤さに、一瞬だけ、別のものが重なった気がした。




