7月14日『指輪と銃』
火曜日の午後。図書館は静かだった。
カウンターの奥では、ザルツさんが修復作業をしている。修復刀が古い糊を削るかすかな音だけが、閲覧室の空気を細く震わせている。
開かれたページの一節が目に入った。「――しがみついても沈まぬと信じた者は、自ら泳ぐことをやめてしまう」。古い処世訓の類だろうか。
扉が開いた。
測量杖の石突きが床を叩く。いつもより硬く、急いでいる足音――ダリアさんだ。
「報告会の続きでね」
挨拶を省いて本題に入る。いつも通り簡潔で、いつも通り正確だった。
ウーツさんの技を紅獣に実地使用した。ゲル体は朽ち、反射防御は硬化ごと風化して崩れた。想定通りに結晶核が露呈。有効性がわかった。
ここまでは良い報告。ダリアさんの声が一段落ちた。
「しかし、赤壁付近の確認数が六体に増えていた。八日で二体増。増殖が止まらないんだ」
光刃の使い手はウーツさんだけ。一体を倒す間に他の個体が動き、その間他の隊員は後方で待機するしかない。有効な武器があっても、振るえるのが一人では追いつかない。
「――あの剣で戦えるのは一人だけだからね」
剣を握るのは一人だけ。
――私はそれを、知っている。
その言葉が、記憶の底を揺らした。
◇
「……あんた、まだ抱えてるのかい? それ」
入口でザラが振り返り、私の背嚢を顎で示している。
「ええ。まだ抱えています」
護衛依頼を受けた集落で譲り受けた、古い綴じ本のことだ。読めない文字で書かれた、古い書物が十冊ばかし。
「依頼は終わったんだ。あとは帰るだけ。……荷物は軽いほうがいいだろ」
「読めるところに届けたいので」
ウーツさんが横から口を挟んだ。
「無駄だ、ザラ殿。昔からそうだ。一度決めたら頑として聞かないんだ。……知っているだろう」
「うるさいな。あんたに言われなくてもわかってるよ」
私は二人の背中を見ながら坑道に入った。この廃鉱を抜ければ、峡谷を挟んだ向こう側に半日早く出られる。通り抜けるだけの道。……その予定だった。
横坑を抜けた先には大広間が開けていた。天井が高く、松明の光が上まで届かない。鍾乳石に似た結晶が、淡く発光して天井を照らしている。……冷たい空気に、瘴気が薄く混じって匂った。
三人は同時に足を止めた。空気の流れが変わっている。瘴気の濃淡を肌で読む――冒険者として身につけた感覚だ。
松明を一本投げつけると、光が届いた範囲に、動くものが見えた。
一体ではない。
壁と岩の隙間に、赤黒い甲殻がそこかしこに蠢いている。大型が二体。中型が数体。小型に至っては――数えるのをやめた。これは――巣だ。
三人が背中合わせに構える。言葉はなく、視線だけで間合いを決める。三人で三方を塞ぐ。
群れが動きだした。
◇
ウーツさんの右手が動く。二本の指を立て、指先から光を纏った半透明の刃が伸びた。剣の型。突進してきた中型の甲殻を切り落とす。
と、すぐさま右から大型が迫り、前脚が振り上がった。防御の型。今度は開いた掌から白金色の盾が広がり、大型の一撃を受け止めた。
間髪入れず指を組み替える。盾は幅広い斧のように姿を変え、大型の甲殻を真っ二つに叩き割った。
振り向きざま、今度は人差し指だけを立てる。鞭のようにしなる光の刃は、背後に迫っていた小型三体をまとめて薙ぎ払った。
指の形が変わるたび、白金色の光がまったく異なる武器に変わる。剣。盾。斧。鞭。一人の剣士に、四つの武器。――これが光刃使い。
その間、ザラがもう一方の戦線を受け持っていた。
短銃を引き抜く動作は目で追えない。雷が四肢を走り、体毛の先端が青白く帯電する。
一歩で姿が掻き消え、稲妻の軌跡だけを残す。黄白の閃光。至近からの銃撃で放電が殻の内側を走り、巨大な甲殻が崩れ落ちる。
次も。その次も。仕留め損ねれば蹴りで裏返し、その腹に銃把を叩き込んだ。
だが、倒しても、倒しても、岩の隙間から這い出してくる。一体崩せば、その奥から二体が湧く。――このまま戦い続けても、先に尽きるのはこちらだ。
私は這い寄る小型を叩き伏せながら、広間全体を見まわした。松明の位置。天井の亀裂。空気の流れ――右奥の横坑だ。かすかに外の気が混じっている。
だがその入口には、巨大な影が陣取っていた。他の大型個体より更にひとまわり大きい。巣の主だろうか。横坑を守るように動かない。あの殻の厚さ……私の掌打では届かないかもしれない。
「右奥」
声だけで伝えた。ウーツさんが一瞬だけ視線を動かした。
「――退路、か」
「塞がれています」
ウーツさんが剣で二体を斬り払いながら、私の方を見た。何かを量っている目だった。
「……私が道を作る。走れ」
指の形が変わった。人差し指と、親指を立てる。今までに見たことのない形だった。
二つの指輪が軋む音を立て、白金色の光が指先に集まっていく。刃ではない。矢のような形に凝縮されていく。全てが一点に集まっていくように。そして――。
射出。
光弾が広間を貫いた。巨大な主の甲殻を突き抜け、通過した箇所が灰になって崩れていく。最奥の岩壁に白い焼痕を残して消えた。群れに動揺が走り、動きが止まった。
ウーツさんの手が落ちた。指から力が抜けて残光が消える。金環と黒環の光が完全に失せていた。空になった指輪。……全てを込めて撃ち尽くした代償だろうか。
群れがざわざわと動き出していた。
「走れ!」
ザラがウーツさんの腕を掴んだ。崩れた大型の残骸を飛び越え、横坑に飛び込む。背後で甲殻が蠢く音。だが狭い坑道では数の利が消える。私たちは走り続けた。
◇
峡谷の風が肌を打つ。三人の荒い息が、岩壁に響いていた。
「……あの数。さすがに正面突破は無理があったな」
ウーツさんが壁にもたれた。右手を見ている。沈黙した指輪。
ザラが息を整えながら、来た道を振り返った。虹色の髪から帯電が収まり、肩に落ちる。
「珍しいね。弱音かい? あんたらしくないじゃないか」
「弱音ではない。三人では抱えられる数に限界があった。それだけの話だ」
ザラの耳がぴくりと動いた。そして何か言いかけて、やめた。代わりに私の方を見た。
「――本は無事かい?」
背嚢を確かめる。綴じ本は無事だ。
「ええ」
「そりゃよかった」
「ああ。なによりだ」
緊張の糸がほぐれ、三人が一緒になって笑った。疲れた、短い笑いだった。
――私はそのとき、二つのものを見ていた。壁にもたれたウーツさんの右手、二つの指輪。そしてザラの腰のホルスター、使い込まれた短銃の銃把。
指輪と銃。
◇
ダリアさんが三階への階段を見上げていた。
「ヒントになる文献があるかもしれない」
返答が少し遅れたのが、自分でもわかった。ダリアさんが振り返った。
「あなた。今、何か思い出してたかい?」
「……いえ。古い記憶です」
杖の音が階段を上っていく。
わたしはカウンターに立ったまま、考えていた。
光刃の使い手はたった一人。あの頃と同じだ。では――剣でなければ?
生き残るのは最も強い者ではなく、変化に適応した者だという。
あの時の最後の一撃。指輪は力を弾丸の形に凝縮していた。あれを実弾に封じ込められたなら――あの二つの力が短銃の中で交わるなら。
棚から一冊の本を抜いた。『装具弾の理論――弾薬に関する実験記録』。
◇
閉館間際に、ダリアさんが三階から渋い顔で戻ってきた。手ぶらだった。
私は本をカウンターに置いた。
「光刃のあの力を、実弾に封じられないものかと考えていました」
ダリアさんの目が本の題名に落ちた。
「確かに。……銃で撃てる弾にできれば、隊の全員が使えるね」
短い沈黙があった。
「能力の封入弾薬は理論段階で止まっていると聞く」
「理論があるなら、止まった先があるかもしれません」
ダリアさんは本を受け取ると、測量杖を強く握り直した。
「……ああ、そうかもしれないね」
杖の音が遠ざかっていく。
剣は、一人にしか握れない。だが弾なら、渡せる。
しがみつくのをやめて、泳ぎ方を変える時だ。




