7月13日『はじまりの絵』
七月の光は、児童閲覧室の窓をくぐると少しだけ丸くなる。
硝子越しの午後が机の木目に溶けている。椅子は小さく、同じぐらい机も小さい。けれどそこに座る子供たちの声は、図書館のどの部屋よりも遠くまで届く。
夏期読書講座の二週目。先週の第一回で、アンネリーゼは『三時の約束』を読んだ。読み終えると子供たちは口々に感想を言い合い、隣の子の肩を叩き、笑い、反論しあった。
そして今日。教室の前に立つアンネリーゼの右中指には、いつものインク染みがある。洗っても落ちないのか、それとも落とさないのか。私にはわからない。
「今日は、自分が好きなものを隣の人に教えてください」
一拍。
「言葉でも、絵でも、何でもいいですよ」
子供たちが顔を見合わせる。ある子は嬉しそうに、ある子は困ったように。
「――それから、もうひとつ」
アンネリーゼが人差し指を立てた。
「この教室では、『もう一回』が何度でも使えます」
誰かが「何度でも?」と訊き返すとアンネリーゼが頷いた。
◇
最初に動いたのはヴェラだった。
十歳。虫が好きで、早口で、隣の子が引くほど熱心にハナカマキリの擬態を語る。花弁に似た脚、風に揺れるふりをして獲物を待つ体。「色は一度しか変えられないんだよ」。隣の男の子が椅子ごと少し後退したが、ヴェラは全く気にしない。
虫が怖い子の前で元気に虫を語れるこの子は、この教室で一番勇敢な生徒なのかもしれない。
次に動いたのはニコだった。九歳、錠前師の子供。声が大きく、考えるより先に手が動く。画用紙いっぱいにパンを描いて、描き終える前にもう次のことが口に出ている。
「名前をつけたい」
ポケットから小さな粒を取り出した。親指の爪ほどの、銀色の雫。鍛造のときに飛び散った鉄の滴が冷えて固まったもので、工房街の子供たちは「鉄の涙」と呼ぶ。表面に浮いた虹を面白がって、珍しい形を集めてまわる。
「涙だからナミダ――でも鉄は泣かないから涙じゃなくって。……でも涙の形だから涙で――」
ぐるぐる回る。教室が笑いに包まれ、ニコ自身も笑っている。自分の言葉に絡まって、それを面白がれる子。教室のいちばん明るい場所には、たいていニコの声があった。
始まりの本は、隣の人と話したくなる本。先週、アンネリーゼはそう言った。けれどこの教室ではもう、話すだけでは足りなくなっている。ヴェラは虫を語り、ニコは名前で遊んだ。
しかし、その間、隅のトーマは鉛筆を握ったまま動かなかった。
八歳。肩が小さく丸まっている。周りの声が重なるほど、この子の沈黙は深くなるようだった。
◇
私はカウンターの内側から、その手を見ていた。
ヴェラが虫の話のあとに、ポケットから何かを取り出した。小さな編みぐるみだ。蝶々の形。毛糸の色が左右で違う。
「毛糸がなくなっちゃった」照れたように笑う。
左右の色が違う蝶々。翅の大きさも不揃いだけれど、この子だけの痕跡がある。
アンネリーゼが目を細めた。けれどトーマの手は、まだ動かない。
と、そのとき、風が来た。
開け放した窓から午後の風が一気に吹き込んで、机の上の紙をさらっていった。画用紙が宙を舞う。ニコが「ナミダーっ」と鉄の粒を両手で庇った。子供たちが笑いながら紙を追い、小さな手が宙を掻く。
アンネリーゼは止めなかった。腕を組んで、少しだけ首を傾げて、舞い上がる紙を見ていた。
その中に、トーマの紙もあった。何も描かれていない白い紙が風に持ち上げられ、ひらり、窓際の床に落ちた。ヴェラが追いかけ、しゃがみ込み、両手で拾う。トーマのもとへ戻って、丁寧に差し出した。
「はい!」
ヴェラの指先には、編みぐるみを作るときにできた糸の跡がある。
二人の手が触れた。トーマが握る鉛筆の力が、少しだけ抜けた。
鉛筆を、持ち直して、静かに描き始めた。丸。四角い窓。三角の屋根。
丸い窓。横に長い線――カウンターだ。その後ろに本棚。入口の近くにも、人の影がいくつか。
ヴェラが覗き込んだ。
「――あっ、図書館」
トーマが小さく頷く。
アンネリーゼが静かに訊いた。「好きなものは、図書館?」
トーマが首を振った。もう一度、絵を指さす。窓の中の、小さな人の形。カウンターの向こうに人影。入口に立つ誰か。
「ここに来ると、みんないるから」
◇
講座が終わり、子供たちが帰り支度を始めた。ヴェラが帰り際、トーマの絵を覗き込む。
「わたしの蝶々もともだちに入れて」
ポケットの編みぐるみを出して、ひらひらさせた。左右の色が違う蝶々。
トーマが笑った。声は出なかったけれど、肩の丸みがほんの少しほどけた。
「うん」
ニコが紙を拾い集めながら、トーマの絵の前で足を止めた。
「ぼくのも描いて。ほらこれっ」
ニコが鉄の涙を掌で転がしてみせる。トーマが目を丸くして、それから小さく頷いた。
◇
子供たちが帰ったあと、アンネリーゼがカウンターに来た。
「入り口は、一つじゃない。――人それぞれなんですよね」
私は何も言わなかった。ただ、その言葉を受け取った。
閉館の準備をしながら、トーマが残していった絵をカウンターの端に立てかけた。
絵の中の人物に名前は書かれていない。けれど、それぞれが誰の絵かはすぐにわかった。
七月の光が傾いて、絵の上の窓の形が少しだけ長く伸びていた。




