7月12日『湿った栞』
キシ、キシ、キシ――。
この音だ。
ページに挟まれていると、紙の呼吸が聞こえる。六章までは穏やかな寝息。規則正しく、深く静かな眠り。けれど、七章に差し掛かると違う呼吸に変わる。浅く、速く、怯えるような。何かから逃げ出そうとしているような。
その理由は知らない。ここにやってきてから、背中でそれをずっと聞き続けてきた。
挟まり、待つこと。
ここへ置かれてから、ずっとそうしている。感情はない。目的もないけれど、観測はできる。触れたものを、正確に知っている。
◇
それは、閉館の鐘が鳴ってから来た。
鍵を開ける音は聞こえない。閉じた音もない。ただ、足音が近づき、椅子が引かれ、棚から抜かれる。それだけだった。
聞こえる音は呼吸だけだった。それの息遣い以外の物音を、一度も聞いたことがない。誰かに見咎められる声も、誰かと言葉を交わす気配も。鐘の後の図書館で、いつも独りだった。
それは、毎晩開いた。
冷たい指は乾いていて、迷いがなく、ページを繰る速度がいつでも一定だ。決して楽しむ手つきではなかった。ただ、一章ずつ確かめるような、事務的で無機質な動き。
一章から順に章が変わるたび、指先の温度がわずかに下がる。夜が更けていくのだと理解した。読み終えたページに置かれるとき、まだ指の熱が残っていた。ゆっくりと冷えていくのを背中で感じていた。
それには、癖があった。
章の終わりで必ず一度表紙を合わせ、数秒の間を置いてから次の章を開く。
何かを整理しているような、思いを定めているような、そんな間だった。六章の終わりでも、本を閉じてから次の章を開いた。
あのとき、閉じなければよかったのだろうか。――わからない。できるのは観測することだけだ。
七章に入って指が震え始める。
同じ行を三度往復する。ページを戻し、また進み、また戻る。繰り返し、繰り返し。
この章の紙は、他と似ていない。厚く、インクが最初から湿っている。刷られた日からずっと乾かなかったかのように、文字が紙の中に沈み込んでいた。
そしてこの章だけが、ページがズレている。他の章からわずかに右に。
いつからなのだろう。少しずつ広がり、この章だけが、他の章から離れようとしている。別の場所へ行きたがっている。そんな風に思える。
◇
最後の夜。それは七章の途中で本を閉じた。
――明日、続きを。
声だ。それがこの本に向けて出した、最初で最後の声だった。
閉じられる前、背中に何かが触れた気がした。指先ではない。爪だ。裏側を、文字を刻むように爪が走る。インクの匂いはしない。ただ、裂けるような、乾いた摩擦の音だけがした。
丁寧に。ゆっくりと。何かを封じるように、静かに世界が閉じた。それまでとは違う閉じ方だった。
明日は来なかった。
季節が変わり、棚の木が軋む音が変わり、図書館の空気が何度も入れ替わっても、その足音は二度と聞こえなかった。棚の奥に押し込まれたまま、誰の手にも触れなくなった。前に進める者はいなくなった。
◇
長い時間が経った。
湿気を吸い、膨らみ、革は柔らかくなり、縁取りの箔は剥がれていた。吸い込んだのは湿気だけではない。沈黙の歴史を、ページの重さを、背中が受け止め続けた。
一つだけ、ずっと分からなかったこと。これはここに在るべきだったのだろうか。乾いた紙ではない、石と水と遠い昔の空気の匂い。地の底から滲み出したような、冷たく澄んだ水の匂い。
七章は軋み続ける。この章だけが目を覚ましている。浅く、速い、あの呼吸を繰り返しながら。
◇
別の手が来た。
温かい。だが同じ癖。この背表紙に触れた瞬間、震える指が一瞬だけ止まった。指先が背表紙をなぞり、一度離れ、もう一度触れた。
そして、本が開かれた。
革の端は反り、乾燥で縮んでいた。光が差し込んで――落ちた。
開いた本が見える。七章の最初のページ。そこに並ぶ記号の意味は届かない。
ただ、分かることがある。震える指と、紙が怯えていた理由。あの長い月日の答えが、今この人の目の中にあるのだろう。それを見ることができないけれど、その人の呼吸が変わったことは、床の上からでも分かった。あの時と同じ。浅く、速く、同じ呼吸に。
その人が拾い上げて、裏返した。細い傷。爪で裂いた痕。それは、たった一つの言葉。
『逃げろ』。
この言葉を背中に負い、待っていたのだ。この意味を届けるべき相手が、やってくるのを。
キシ、キシ、キシ――。
七章が、また軋み始めた。今度は、前よりも速く。ずっと――。




