7月11日『水の印』
土曜日の朝。
窓から差す日差しが閲覧机の木目を白く照らして、読書室全体がすこし広くなったように見える。
奥の席で、マリアさんとミーアが今日のパズルを広げていた。海の絵。ミーアが縁取りのピースを並べている横で、マリアさんが青いピースをひとつ取り上げ、盤面の中ほどに置いた。
「この青、ここね」
ミーアが覗き込んで、小さく手を叩く。合っている。
入口の光が陰った。
大きい。鴨居に頭が届きそうな男の人が、身をかがめて入ってきた。節くれだった指がカウンターの木に触れる。指の関節はどれもごつごつと曲がっていて、六十年ぶんの仕事が刻まれている、と思った。
「井戸の蓋石の図版を探しているんだが」
低い声だった。無駄なことは言わない人だろうと、声の短さでわかった。石工のグスタフさん。北通りの古井戸の蓋石が傷んで、修復に必要な寸法を確認しに来たのだという。
「割れたんじゃない。欠けたんだ。最近、角に何かをぶつけたらしくてな」
――北通りの古井戸。三人の子供たちが水路の地勢図を広げていたことを思い出す。あの時、「次は北通りの古井戸だね」と輪になって騒いでいた。……訊かないでおこう。
「蓋石自体は簡単に直せる。問題は、表層が剥がれた下から、別の刻みが出てきたことでな」
鞄から紙を出した。拓本だ。広げてみると、繰り返しのある非対称の形が墨で写し取られている。文字のような、抽象的な絵画のような。
「擦り削りだ。刃の幅が狭くて、道具が違う。今の石工はやらないやり方でな。……もしかしたら、組合ができる前のものかもしれん」
言いながら、彼の顔は興味でふくらんでいた。わからない事を、面白がっている目だ。
「壊してしまうのは簡単だ。……が、何かわからんものを壊すのは気が進まんでな」
「まず何か、調べてみませんか。寸法の確認ついでに」
頷いてもらえた。棚に向かう。
◇
一階の実用書棚。
石工組合の図録集に、蓋石の図版はすぐに見つかった。寸法と石材の仕様。彼の本来の用事はこれで済む。図版の井戸の石組みには、刻みらしいものはどこにも描かれていない。壁面にはなめらかな線だけだ。
「ふむ。百年前にはまだ表層の下だったということだな」
「もう少し古い記録を見てみましょうか」
二階の地誌棚。
二百年前の都市整備記録に、水路設計に伴う井戸の実測図がある。北通りの井戸の拡大図を開くと、石組みの壁面に小さな印のようなものが見えた。凡例にも注記にも説明はない。描き込んだ当時の技師が、見えたものをそのまま写したという風だった。
グスタフさんが拓本を横に置き、大きな体で図面の上に覆いかぶさった。
「……これだ。同じ形だ。この時代、二百年前には、まだ絵に残してた」
「補修のたびに新しい仕事が上に重ねられて、前の仕事が見えにくくなったのかもしれませんね」
「ああ。消したんじゃない。描かなくなったってわけだな」
腕を組んでうなずいた。
「古いものが少しずつ奥に引っ込む。……石工の因果だな」
苦い顔ではなかった。職人として、そういうものだと受け止めている声だった。
「この井戸がいつからあるのか。もう少し調べてみましょう」
◇
三階の郷土史棚は通路が狭い。グスタフさんの肩が棚板をかすめた。
建市記録の写し。約四百年も前。地図上に北通りはまだないが、現在の井戸の位置に小さな印がある。本文に一行――「湧水を中心に市場を設けた」。
彼の足が止まった。
「泉? ……井戸じゃない」
「この街ができる前から、そこに水が湧いていたようですね」
「それに印を刻んだ。四百年以上も昔に」
顔を見合わせた。蓋石一枚から始まった話が、ここまで来てしまった。グスタフさんが小さく笑った。
「俺は蓋石を直しに来ただけなんだがな」
建市記録を棚に戻しかけて、その隣の背表紙に目が止まる。一冊だけ混じっている、綴じの甘い古い冊子。三百年ほど前の聞き書きのようだ。その中に、短い挿話を見つけた。――『水を呼ぶ印』。
――むかし、泉の枯れた村で、長老が石に印を刻んだ。すると水が戻り、再び村に人が戻った。以来、その場所には同じ印を刻み、水への感謝をあらわした。――著者の注記。『類話多し。諸説あり』。
拓本を冊子の横に置いた。
「……近いが、この話には肝心の印の形が描いていない。これだけじゃわからんなあ」
「……棚は全部回りましたね」
「ああ。ここまでだ」
ここまで来たか、という顔だった。
◇
一階に降りた。
グスタフさんが机に拓本を広げたまま腕を組んでいる。私はカウンターの内側に戻った。静かな午後だ。棚を全部巡り終えた後の、心地よい疲れがある。
マリアさんとミーアが帰り支度をしていた。絵は完成したらしく、もう箱に戻されていた。
カウンターの前を通りかかったとき、マリアさんの歩みがゆるんだ。机の上の拓本に目を落とし、通り過ぎかけて――止まった。
「あら」
グスタフさんと私が、同時に顔を上げた。
「これは、井戸の印ね」
「……知っているのか」
「大昔はあちこちの井戸にあったのよ。水の精霊の印だって、おばあちゃんがよく言ってたわ。水が来てくれた場所に刻むのよ。でもね、ひとつじゃないのよ。もうひとつ、井戸の底にもあるんですって」
「おばあちゃん、早く」
「はいはい」
◇
グスタフさんの目が変わっていた。
「俺が拓ったのが、片方だけだったとはな」
「マリアさんのおばあさまとなると、百二十年か百三十年前。そのまた祖母なら二百年。口伝えの鎖が、そこまで届いていますね」
「石は千年残る。紙なら数百年。だが声は——」
「渡す相手がいれば、どこまでも届きます」
グスタフさんが立ち上がり、大きな体を伸ばす。
「棚を全部回ってわからなかったものが、たった一言で片付いた。——いや、片付いてはいないな。もう半分は届かん」
窓の外で、鍛冶工房の音が聞こえはじめた。
「……図書館ってのは、面白い場所だな」
「ときどき、本に書いていないことも通りかかります」
少しの間があった。
「刻みは残す。上に被せるだけだ。——この拓本、写しを取っておいてくれるか」
「ええ。今見えている方だけでも、残しておきましょう」
図録を返却し、グスタフさんは帰っていった。大きな背中が七月の光の中に出ていく。カウンターの上には、拓本が置かれたままだった。あの子たちの悪戯が見つけた、四百年前の印。
ふと、今朝のことを思い出した。マリアさんが迷わず置いた一枚の青。
あれは水面だったのだろうか。それとも、水の底だったのだろうか。




