7月10日『隣の手』
カウンターに工具箱が置かれた。昨日と同じ音。昨日と同じ鱗の手。
「また来たわよ」
ナディが昨日より大きな道具袋を肩に担いでいる。
「硝子は昨日直したんだけど、隣の窓の鎧戸がまずいのよ。途中で止まって動かない。あれ、八月に嵐が来たら、直したばかりの硝子ごとやられるわ」
鎧戸の動きが渋くなっていたのは以前から知っていた。完全には壊れていなかったので、つい後回しにしていたのだ。ナディに言われるまで。
「――硝子ってね、割れる前には必ず兆しがあるの。周りの何かが先に壊れだす。師匠がよく言ってたのよ、『割れる前に直せ』って。……いや、『割れる前に割れ』だったかしら。何? 何の話と混ざってる?」
ナディの師匠引用は、いつも着地点を見失う。ただ、そのずれ方には不思議と核心が残っている。同じ師匠の言葉を、ザルツさんとは違う精度で持ち歩いている。
◇
二階の東側。鎧戸の前で、ナディが金属のレールに鱗の手を当てた。指先が振動を読む。
「三箇所か。サッシにヒビが一本。……レールの歪みと、滑車のずれ。――ヒビはあたしの領分だけど、レールは力仕事になるし、滑車の歯車は……専門外だなぁ」
そのとき、階段が重く軋んだ。
「おう、何やってんだ、こんなところで」
夜番頭だった。金曜日のこの時間は、三階の鋳造技術書棚に向かう途中だ。大柄な男。鋳造工場の番頭を四十年以上務めているという。
「鎧戸の修理です。レールが歪んでいるそうで」
「見せてみろ」
説明を待たず、レールに手をかけた。表面をなぞり、すぐに顔をしかめる。
「無理に押すと裂けちまうからな」
「さすがに詳しいわね」とナディ。
「朝飯前よ」
両手で掴み、膂力でレールを引き戻す。額の隆起がうっすらと汗ばんだ。力を込めている証。
「……真っ直ぐ。お見事」ナディが指先で確かめる。
だが手を止めなかった。懐から槌を取り出して、レールの端を丹念に叩き始める。
「そこ、歪んでないわよ? あたしの読みでも問題はなかったけど」
「『まだ』なだけよ。留め具がわずかに甘くなっててな。次に力がかかったら、ここから曲がりはじめる。……見えちまったもんはごまかせねえからな」
「……わかったわ。あんたの領分はあんたに任せる」
◇
問題は滑車だった。噛み合わせがずれている。二人とも精密機構は領分の外だ。
「困ったわね」「困ったな」
同時に言って、二人が顔を見合わせた。
かちん、かちん。金属の足音が近づいてくる。
貝殻さんだ。いつもの時間、画集のある棚に向かう途中で立ち止まった。大きな目が、露わになった滑車の歯車を捉えている。
「――ねえ、これさ。あんた、何かわかる?」
ナディがなぜそう切り出したのか。あとで聞いても「なんとなく」としか答えなかった。
貝殻さんが滑車に近づく。スーツの指先が歯車に触れた。一枚目。二枚目。三枚目。四枚目で、止まった。素早く外し、回し、嵌め直す。
窓際に貝殻を並べるときとは別の手にみえた。ゆっくりで儀式めいたあの指とは違う、速くて、正確で、無駄がない動き。
「おい――お前、わかんのか?」
夜番頭が目を丸くしている。貝殻さんは答えずに、スーツの腰元から小さな油差しを取り出した。軸に一滴、油を落とすと、すうっと軸の表面を這い、溝に沿って薄く広がっていく。息をするように、油が動いた。
歯車を回すと、噛み合った。静かに滑らかに。
「……いい仕事だ」
夜番頭がぼそりとつぶやいた。小声。しかも背を向けたまま。聞こえたかどうかはわからない。
「あんた。不器用にもほどがあるわよ」
「うるさい。俺は仕事で返すんだ」
ナディがふと手を止めた。指先がレールの端に触れ、目を閉じて――開いた。
「……今、もう一回読んでみたけど、留め具の裏に小さな亀裂が入ってる。……直さなかったら、次の嵐で折れてたかも」
「だから言ったろう?」
「……馬鹿正直って、たまに本物の正しさよね」
「馬鹿は余計だ」
◇
ナディがサッシのヒビを埋め、夜番頭がレールの端をもう一度叩く。貝殻さんが滑車の回転を見守り、私がロープを巻き上げる。誰が頼んだわけでもなかった。金曜日に居合わせただけの四人が、それぞれの持ち場で同じものを直している。
鎧戸が――動いた。レールの上を滑らかに走り、窓を覆い、そしてまた開いた。重い、でも滑らかな音が天井に響く。
雨上がりの光が射し込んだ。硝子を通って、床に光の四角が落ちる。修理した箇所だけ屈折が違う。微かな虹。
四人で、その光を見た。
「これで嵐が来ても、硝子を守れるわね」
夜番頭が腕を回す。
「レール一本で大げさだな」
貝殻さんは、もう画集の棚に向かっている。いつもと同じ足取りで。
「師匠なら何て言うかな」
ナディが師匠引用を始めかけて――止まった。少し黙る。
「……いいわ。これはあたしの言葉にする」
工具袋を担ぎ直す。
「硝子を守るのは、隣にいるみんなの手よ」
帰り際、階段の途中で振り返った。
「弟によろしく言っといて。すれ違うのよね、いつも」
夏の光が図書館を満たしている。鎧戸が守る窓の、硝子越しに。




