表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
100/119

7月9日『百日目の図書館』

挿絵(By みてみん)

 通りに出ると、空気が変わっていた。


 雨季の湿り気がまだ肌に残っているのに、壁越しの鍛冶工房の熱がもう石畳に届いている。足の裏でわかる。季節が境を越えた朝。


 工房が午後からだったので、今日は朝一番に来れた。


           ◇


 扉を押す。光が床を低く走る。以前はもっと斜めだった気がする。今はほぼ真上から差して、影が短い。


 カウンターにはいつもの司書さんがいる。本の背表紙を布で拭きながら。


 利用証を取り出す。胸ポケットから。四月は鞄の底だったけれど、今は迷わない。


「おはようございます」


「今日は早いですね」


「三階の技術書棚。閲覧をお願いします」


「ええ。どうぞ」


「ありがとうございます」


 司書さんが本を棚に戻す手を、目が追った。背表紙の付け根に親指を添えて、指の腹で確かめている。


 銀線の端を留めるときの、あの手つきと同じだ。繊細なものの輪郭を、力ではなく温度で読む指。わたしはあの手元をずっと見てきたのに、今日はじめてそのことに気がついた。


           ◇


 三階に向かう足が、階段を上がりかけて止まった。


 ルッツとエミール。鍛冶祭の合奏で隣にいた二人が、一階の閲覧席に並んでいた。


 ルッツが鉛筆を握る指先が、白くなるほど力が入っている。わたしの手まで疼く気がした。――もう少し手首の先を緩めたほうが、線は揺れないのに。


 エミールは、その隣で技術書の図版を画帳に写している。機械の断面図。太い指が、丁寧に。


 ルッツが手を止めて、エミールの画帳を覗き込んだ。


「……お前、それ逆さまだぞ」


「え?」


「隅に四七って書いてある。ほら。逆だと何書いてっか分からん」


「……読めるの? 数字」


「数字は覚えた。仕事で使うからなあ。四七度と七四度じゃ大違いだ」


「ふうん。確かに……そういうものなのかな」


「お前は、何か覚えたことあるか?」


「僕は円の書き方を覚えたんだ。大きな機械を描くときには必ず使うから」


 少し間があく。


「設計図、上手くなったよな」


「ルッツの方こそ。その字、前より枠に収まってるよ」


「……まだ三割ちょっとだ」


「読めてるなら十分じゃない?」


「……読めないところは飛ばしてるだけだよ」


 そこで二人とも黙ってしまった。


 褒めるのが下手なのだと思う。受け取るのは、もっと。


           ◇


 三階で技術書を確認した帰り。二階の窓際のほうで声がした。


 名前は知らないが、片方は見たことがある。調香師の女性。もう片方は――鱗のある手で、窓硝子の継ぎ目をなぞっている。金色の瞳が昼の光で輝く。


「この窓、接いでるんだね。匂いが違う」


「わかるの?」


「古い硝子は鉄錆びの匂い。新しいのは砂の匂い。ここが、境目!」


 鱗の女性が目をまるくする。自分の指が探り当てたのと同じ場所だったらしい。


「よく分かるね。……あんた、鼻で硝子を読んでんの?」


「硝子じゃなくて、硝子の歳を読んでるって感じかな」


「九十年前の硝子だよ、これ。接いで、直して、また九十年」


「じゃあ、九十年分の風を覚えてるんだね。きっと」


「硝子が風を?」


「瓶も同じ。硝子は匂いを少しだけ閉じ込める。この窓にも今朝の空気が、ほんの少しだけど、もう溶けてる」


「……あんた面白いこと言うね。うちの師匠が聞いたら気に入りそうだよ。『割れた硝子には割れる前の光が溶けている』とか言う人だったからね」


「いい師匠だね。気が合うかも?」


「……ちょっと違う言葉だったかもしれないけど。意味は、たぶん合ってる……と思う」


 傷の場所を指で探す人と、匂いの境目を鼻で読む人。道が違って辿り着いたのは、同じ一本の線だった。


           ◇


 一階に降りる。窓際にティナだ。教育ギルドの制服。髪を耳にかける仕草。


 カウンターの引き出しに手を伸ばしかけて――止めた。指が、何かに触れたくて触れられないかたちをしている。その手のかたちを、前にも見た。中に何があるのか、わたしは知らない。


 ティナはカウンターから離れて、中庭のほうへ歩いていった。


 背中が以前より少しまっすぐに見えるのは――たぶん、気のせいではない。


           ◇


 中庭に出ると、石畳の隅に植木鉢を見つけた。以前はカウンターの窓際にあったあの鉢だ。


 わたしが利用証を作ったのと、たぶん同じ頃に蒔かれた種。知らない人の種と、わたしの百日が、同じ速さで育っている。


 ティナがその植木鉢を見下ろしていた。わたしもしゃがみ込んだ。


 よく見ると蕾がついている。固くて小さな、まだ色のない蕾。何の花になるのだろう。中にはもう色がついているのだろうか。


 目が合って、ティナが小さく笑った。


「……まだかな」


 何がまだなのかは聞かなかった。わたしにだって、まだのものがたくさんあるから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ