7月9日『百日目の図書館』
通りに出ると、空気が変わっていた。
雨季の湿り気がまだ肌に残っているのに、壁越しの鍛冶工房の熱がもう石畳に届いている。足の裏でわかる。季節が境を越えた朝。
工房が午後からだったので、今日は朝一番に来れた。
◇
扉を押す。光が床を低く走る。以前はもっと斜めだった気がする。今はほぼ真上から差して、影が短い。
カウンターにはいつもの司書さんがいる。本の背表紙を布で拭きながら。
利用証を取り出す。胸ポケットから。四月は鞄の底だったけれど、今は迷わない。
「おはようございます」
「今日は早いですね」
「三階の技術書棚。閲覧をお願いします」
「ええ。どうぞ」
「ありがとうございます」
司書さんが本を棚に戻す手を、目が追った。背表紙の付け根に親指を添えて、指の腹で確かめている。
銀線の端を留めるときの、あの手つきと同じだ。繊細なものの輪郭を、力ではなく温度で読む指。わたしはあの手元をずっと見てきたのに、今日はじめてそのことに気がついた。
◇
三階に向かう足が、階段を上がりかけて止まった。
ルッツとエミール。鍛冶祭の合奏で隣にいた二人が、一階の閲覧席に並んでいた。
ルッツが鉛筆を握る指先が、白くなるほど力が入っている。わたしの手まで疼く気がした。――もう少し手首の先を緩めたほうが、線は揺れないのに。
エミールは、その隣で技術書の図版を画帳に写している。機械の断面図。太い指が、丁寧に。
ルッツが手を止めて、エミールの画帳を覗き込んだ。
「……お前、それ逆さまだぞ」
「え?」
「隅に四七って書いてある。ほら。逆だと何書いてっか分からん」
「……読めるの? 数字」
「数字は覚えた。仕事で使うからなあ。四七度と七四度じゃ大違いだ」
「ふうん。確かに……そういうものなのかな」
「お前は、何か覚えたことあるか?」
「僕は円の書き方を覚えたんだ。大きな機械を描くときには必ず使うから」
少し間があく。
「設計図、上手くなったよな」
「ルッツの方こそ。その字、前より枠に収まってるよ」
「……まだ三割ちょっとだ」
「読めてるなら十分じゃない?」
「……読めないところは飛ばしてるだけだよ」
そこで二人とも黙ってしまった。
褒めるのが下手なのだと思う。受け取るのは、もっと。
◇
三階で技術書を確認した帰り。二階の窓際のほうで声がした。
名前は知らないが、片方は見たことがある。調香師の女性。もう片方は――鱗のある手で、窓硝子の継ぎ目をなぞっている。金色の瞳が昼の光で輝く。
「この窓、接いでるんだね。匂いが違う」
「わかるの?」
「古い硝子は鉄錆びの匂い。新しいのは砂の匂い。ここが、境目!」
鱗の女性が目をまるくする。自分の指が探り当てたのと同じ場所だったらしい。
「よく分かるね。……あんた、鼻で硝子を読んでんの?」
「硝子じゃなくて、硝子の歳を読んでるって感じかな」
「九十年前の硝子だよ、これ。接いで、直して、また九十年」
「じゃあ、九十年分の風を覚えてるんだね。きっと」
「硝子が風を?」
「瓶も同じ。硝子は匂いを少しだけ閉じ込める。この窓にも今朝の空気が、ほんの少しだけど、もう溶けてる」
「……あんた面白いこと言うね。うちの師匠が聞いたら気に入りそうだよ。『割れた硝子には割れる前の光が溶けている』とか言う人だったからね」
「いい師匠だね。気が合うかも?」
「……ちょっと違う言葉だったかもしれないけど。意味は、たぶん合ってる……と思う」
傷の場所を指で探す人と、匂いの境目を鼻で読む人。道が違って辿り着いたのは、同じ一本の線だった。
◇
一階に降りる。窓際にティナだ。教育ギルドの制服。髪を耳にかける仕草。
カウンターの引き出しに手を伸ばしかけて――止めた。指が、何かに触れたくて触れられないかたちをしている。その手のかたちを、前にも見た。中に何があるのか、わたしは知らない。
ティナはカウンターから離れて、中庭のほうへ歩いていった。
背中が以前より少しまっすぐに見えるのは――たぶん、気のせいではない。
◇
中庭に出ると、石畳の隅に植木鉢を見つけた。以前はカウンターの窓際にあったあの鉢だ。
わたしが利用証を作ったのと、たぶん同じ頃に蒔かれた種。知らない人の種と、わたしの百日が、同じ速さで育っている。
ティナがその植木鉢を見下ろしていた。わたしもしゃがみ込んだ。
よく見ると蕾がついている。固くて小さな、まだ色のない蕾。何の花になるのだろう。中にはもう色がついているのだろうか。
目が合って、ティナが小さく笑った。
「……まだかな」
何がまだなのかは聞かなかった。わたしにだって、まだのものがたくさんあるから。




