7月8日『消えゆく道標』
参考資料室の空気は少しだけ重かった。紙が柔らかい。湿り気を含んだ日の紙は素直で、ページめくりが軽くなるのだ。
朝一番でカウンターの前に立った。
「この図録集の、三つ前の版はありますかな?」
司書が少し間を置いた。
「三つ前ですか。……書庫のほうを確認します。少しお時間をいただきます」
「構いません。版が古いほど、ありがたい」
「珍しいご依頼ですね」
正確になるたびに薄れてゆく影がある、とは言わなかった。新しい光の下では見えない文字がある。古い版の薄暗がりにこそ、まだその影が残っているのだ。
◇
礼を言って資料室に入り机に向かう。
吸盤のある指先でページを丹念になぞる。インクの組成が舌先のように伝わってくる。……二十年ほど前の組成。知りたいのは中身ではなく、その来歴の方だった。
わたしが調べているのは、各地の文献に載っている遺跡の石刻だ。同じ記録集でも、古い版と新しい版では記述が違う。かつては「解読不能の古代文字」と記されていた刻印――。
――このことを誰にも、同郷の者にも話していない。先日ここを訪ねたあの友人にすらも黙っていることだ。
ページをめくる手が、不意に大きく動いた。考えたくないことがあるとき、指が勝手に広がってしまう。この癖を、わたしは自覚しつつも操縦はできないでいる。
同じ資料室の中に老婦人がいた。白髪をひとつに束ね、手帳と虫眼鏡を広げている。文献に顔を寄せ、長いこと見入ってから、何かを手帳に写し込む。迷いがなく、引くべき線を、その手はあらかじめ知っているように見える。
たまたま同室しただけの存在。わたしは気にしなかった――同じ棚に手を伸ばすまでは。
◇
『フリア近郊遺跡図録集』。わたしの吸盤と、老婦人の節くれだった指が同時に背表紙に触れた。
「失礼、お先にどうぞ。ご老人」
「いえ、あなたが先に」
わたしは大げさに身を引いて見せたが、静かに譲られた。
結局、隣同士に座ることに。同じ本を、交互に見ながら。
「この遺跡に、行かれたことはございます?」
五ページほどめくったあと、アガーテと名乗った老婦人が尋ねた。
「いえ文献でしか。あなたは?」
「立ち入りが禁じられる前に、一度だけ」
手帳を開いて見せてくれた。丁寧なスケッチの横に、文字のような、紋様のような形が並んでいる。筆圧の強弱まで忠実に写し取られている。
「これは私たちの教会の聖典にある文字なのです。『聖刻印』と呼ばれているもの。……意味はございません。教会でもまだ解読されていない、最も古い聖典です」
――秘教徒か。首筋の鰓がわずかに動いた。
「ほう。読めない文字を、なぜ写していらっしゃるので?」
老婦人の目が和らいだ。生徒に問われたときの教師の顔だ、と思った。
「職を辞してから、この文字を調べ始めたのですが――」
指先がスケッチの上をなぞった。角の部分で止まる。
「ここ。この角度が、どの文字にも繰り返されているのです。この形には規則性がある。……教えることを辞めて、初めて読めないものに目を向けるようになった。不思議なものです」
わたしは手帳と図版を見比べてみた。
同じ角度で繰り返し用いられる小さな意匠。形には秩序があるように見える。それが何を意味するかはわからないが、遺跡の石碑に刻まれていた碑文にも、確かに似た形が散見される。
「この図録のインクは古い。……おそらく数百年前の印刷ですな。しかし、なぜ聖秘術教会の聖典が、古代の遺跡と共通する点を持つのか。そこが一番の謎ですな」
◇
「こちらが少し新しい版です」
次の版を並べる。同じ刻印が載っているが注記が違う。「装飾的な紋様」と書き添えられ、文字の写しが簡略化されてしまっている。それ自体に意味がないとでも言うように。……そうすれば、読もうとする者がいなくなる。最も静かな消し方と言える。
さらに新しい版を開く。模写が消えていて、「壁面に紋様あり」という一行だけ。郷土資料室の棚にあった最新版には、その一行すらなくなってしまっていた。
四つの版を机に並べる。アガーテの手帳を五つ目として、その横に加える。しばらく、どちらも何も言わなかった。
「この遺跡だけではありませんよ」手を膝に置いた。大きく動かさないように。
「他の都市にも、似たような事例はたくさんあります」
「……あなたはなぜこれを調べているのです? 教会の方では、ございませんよね?」
アガーテが静かに聞いた。
「好奇心ですよ」
机の上の四冊を指し、大げさに手を広げてみせた。
「好奇心の結果が――これです」
アガーテはしばらく黙って、それから小さく笑った。
「私も好奇心です。うちの主人にも、取り合ってもらえませんでしたけどね」
目を机の上に落として続ける。
「……文字は残っています。この手帳の中にも、あの石壁にも。記録から消え、研究を禁じられても、刻まれたものは消えません」
――その先にあるもの。わたしもまた、それを知らないままでいる。
◇
アガーテは虫眼鏡を手帳に挟み、鞄にしまった。立ち上がりかけて、机の上の四冊を見た。それからわたしに向き直った。
「この文字を消した人たちは、まだ消し続けていると思いますか?」
ひと呼吸おいた後、皮肉を込めて答えた。
「消すものがなくなれば、いずれは止まるでしょう」
「……私の手帳の中までは消せませんよ?」
アガーテは静かに笑った。
「四十年教えてきて、やっと学び始めたのです。――ここで辞めるわけにはいきませんから」
先に出ていった。
帰り際、カウンターの前で足を止めた。
「司書殿。この図書館の棚は、思ったより深いようですな」
「深い、とおっしゃいますと」
「まるで違う理由で同じ棚に手を伸ばした二人が、同じ文字に辿り着いた。偶然ではありません。棚がそういう風に選んだのです」
司書は少しだけ首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
扉を押すと、昼前の蒸した空気が吸盤に張り付いた。
刻んだ者の名も、消した者の理由も。まだ何ひとつ見えない。
その問いの先は、まだノートの余白のように白いままだ。




