表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
98/118

7月7日『枝に結ぶ』

挿絵(By みてみん)

 十三回目の火曜日。


 数えている自分がおかしいとは思う。帳簿係ゆえの性分。通し番号を振りたがる。四月の初めにこの図書館へ通い始めてから、数にすればただそれだけのこと。


 入口の柱の横に、あまり見慣れない木の枝が立っているのが見えた。


 疣取木(イボタノキ)の枝。蝋を引いたような厚い葉。そこに紙片がいくつか紐で結ばれて、風を待っている。農村のほうでは、夏の星が寄り添う七月の晩にこうして言葉を結ぶと聞く。ここ十数年で、この街にも広まったらしい風習だ。


 私の種族にとっての「ここ十数年」はまばたきひとつ分に過ぎないが、今年の春だけは――まばたきではなかった。


 紙片を読む。子供たちの拙い字。


 『そらをとびたい』

 『犬がほしい』

 『おかあさんがげんきになりますように』


 三つ目にだけ、少し立ち止まった。枝に結ぶしかない、せつな願いがある。


          ◇


 いつもの席。窓際、書架の角。


 椅子の肘掛けの木が、片側だけ色が深い。父が何百年も腕を置いた跡だ。私の腕は、まだ父の影の上に乗っているだけだ。


 本を開く。『金属結晶加工法――師伝の記録』。


 読んでいるというより、開いているだけだ。帳簿係とはそういう生き物。主役はいつも数字であり、私はそれを正しく並べる、ただの係に過ぎない。自ら生み出す職人とは違う。


 人生は一冊の書物に似ている、と誰かが書いていた。だがこの本に限ってはそうとも言えない。二百年以上生きて、未だ十九ページのままなのは、書物としても人生としても相当な怠慢だ。


 ――いや、わかっている。読み終えたら約束が終わってしまう。だから父は読まなかったし、私も読めないのだ。会ったことのない友人のために。


 私はどうやら父の臆病を相続したらしい。


          ◇


 修復師のザルツさんが隣の作業台で道具を広げている。


 常連同士。普段は挨拶を交わすくらいで、会話らしい会話もない。


 今日は向こうから声をかけてきた。


「短冊、書きましたか?」


「いえ」


「俺もですよ」


 間。普段話さない相手との会話というのは、こういう不便な空白がつきまとう。


「……何かご用でしたか?」


「いや。あの司書さんに頼まれてね。『常連の方にもお願いしています』って。――断れる顔してないでしょう? あれ」


 カウンターで司書が微笑んでいる。隅に短冊と筆ペンが端に置いてある。――あの微笑みは帳簿の監査よりも、ずいぶんと性質(タチ)が悪いとみえる。


「貴方は、何を書きましたか?」


 ザルツが鱗の手で短冊を見せる。


 『本が長生きしますように』。


「早いですね」


「願い事なんて、考えるもんじゃないんですよ。手が先に動いてる」


「修復師の手は便利ですね。帳簿係の私の手は数字しか覚えません」


 ザルツさんが少し笑った。初めて見た笑顔だった。


          ◇


 私の番。筆ペンを持つ。何を書けばいいのだろう。


 『計算が合いますように』――もう百年以上は合わせてきた。今さらだ。


 父なら何と書いただろう。


 父はこういう行事には一切参加しない人だった。願い事というものをしない人だった。


 ――願うぐらいなら礼をしろ。


 何に礼を言うのかは教えてくれなかった。不器用な人だった。父の言葉もあの栞も、見えているのに意味だけが遠い。


 筆が止まったまま。ザルツさんが覗き込んだ。


「書くことがない時は、誰かの代わりに書くんですよ。もう自分じゃ書けない、誰かの代わりに。……届かなくてもいい、まだ繋がっている、と。それを伝えるために」


「……」


「——婆さんの受け売りですけどね」


 ザルツさんの故郷では、満月の晩に死んだ者のことを語る風習があるらしい。教典もなければ寺院もない。軒先で月を見上げながら、祖母が孫に昔話をする。古い古い民間信仰の一つ。


「婆さんは、月が出た晩には何にでも話しかけてた。動物にも、植物にも。道具や家具にも、そして、死んだ爺さんやひい爺さんにも。……まったく同じ調子でね」


「区別なく、ですか?」


「ええ。生きてるものも死んだものも、全部そこにいるって顔をしてね」


 ――半年以上前に死んだ父。会ったこともない、父の友人。名前だけ知っていて、私が生まれるずっと前に生涯を終えた人。忘れてはいけないページだけが、それを証明している。


          ◇


 父の分。それなら確かに私にも書けるかもしれない。だが、父なら何を願っただろうか。


 友人と工房を開くこと?――いや、それはもう遠い昔に閉じた扉だ。


 息子が幸せであること?――あの不器用な人が、そんな素直なことを願うだろうか。


 筆が動いた。考えるより先に。


 『また来週も、この席に座れますように』。


 書いてから気づく。これは父の願いではない。間違いなく、私の願いだ。父の代わりに書いたはずの、私だけの一行だった。


 百年後も火曜日は訪れる。だが、同じ日は一度きりしかやってこない。二百年生きてきて、そういう当たり前のことを短冊に教わっている。


 枝に結ぶ。ザルツさんの「本が長生きしますように」の隣。風が通って、二枚の紙が揺れてぶつかる。蝋質の葉が夕光を弾いて、少しだけ明るい。


 ザルツさんが短冊を二度読んだ。


「――大きい願いですね」


「小さいでしょう」


「大きいですよ。毎週同じ場所に帰ってくるっていうのは、不器用な人にしか書けない大きな願いだ」


          ◇


 帰り際。カウンターで会釈をすると、司書が少しだけ首を傾げた。


「来週もまた、お待ちしていますね」


 外に出る。夕暮れの風が疣取木を揺らしていた。


 「また来週」と心の中で言う。父に。次の火曜日に。


 私を待ち続けるページの先に、「ありがとう」を言えるその日に向かって。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ