7月7日『枝に結ぶ』
十三回目の火曜日。
数えている自分がおかしいとは思う。帳簿係ゆえの性分。通し番号を振りたがる。四月の初めにこの図書館へ通い始めてから、数にすればただそれだけのこと。
入口の柱の横に、あまり見慣れない木の枝が立っているのが見えた。
疣取木の枝。蝋を引いたような厚い葉。そこに紙片がいくつか紐で結ばれて、風を待っている。農村のほうでは、夏の星が寄り添う七月の晩にこうして言葉を結ぶと聞く。ここ十数年で、この街にも広まったらしい風習だ。
私の種族にとっての「ここ十数年」はまばたきひとつ分に過ぎないが、今年の春だけは――まばたきではなかった。
紙片を読む。子供たちの拙い字。
『そらをとびたい』
『犬がほしい』
『おかあさんがげんきになりますように』
三つ目にだけ、少し立ち止まった。枝に結ぶしかない、せつな願いがある。
◇
いつもの席。窓際、書架の角。
椅子の肘掛けの木が、片側だけ色が深い。父が何百年も腕を置いた跡だ。私の腕は、まだ父の影の上に乗っているだけだ。
本を開く。『金属結晶加工法――師伝の記録』。
読んでいるというより、開いているだけだ。帳簿係とはそういう生き物。主役はいつも数字であり、私はそれを正しく並べる、ただの係に過ぎない。自ら生み出す職人とは違う。
人生は一冊の書物に似ている、と誰かが書いていた。だがこの本に限ってはそうとも言えない。二百年以上生きて、未だ十九ページのままなのは、書物としても人生としても相当な怠慢だ。
――いや、わかっている。読み終えたら約束が終わってしまう。だから父は読まなかったし、私も読めないのだ。会ったことのない友人のために。
私はどうやら父の臆病を相続したらしい。
◇
修復師のザルツさんが隣の作業台で道具を広げている。
常連同士。普段は挨拶を交わすくらいで、会話らしい会話もない。
今日は向こうから声をかけてきた。
「短冊、書きましたか?」
「いえ」
「俺もですよ」
間。普段話さない相手との会話というのは、こういう不便な空白がつきまとう。
「……何かご用でしたか?」
「いや。あの司書さんに頼まれてね。『常連の方にもお願いしています』って。――断れる顔してないでしょう? あれ」
カウンターで司書が微笑んでいる。隅に短冊と筆ペンが端に置いてある。――あの微笑みは帳簿の監査よりも、ずいぶんと性質が悪いとみえる。
「貴方は、何を書きましたか?」
ザルツが鱗の手で短冊を見せる。
『本が長生きしますように』。
「早いですね」
「願い事なんて、考えるもんじゃないんですよ。手が先に動いてる」
「修復師の手は便利ですね。帳簿係の私の手は数字しか覚えません」
ザルツさんが少し笑った。初めて見た笑顔だった。
◇
私の番。筆ペンを持つ。何を書けばいいのだろう。
『計算が合いますように』――もう百年以上は合わせてきた。今さらだ。
父なら何と書いただろう。
父はこういう行事には一切参加しない人だった。願い事というものをしない人だった。
――願うぐらいなら礼をしろ。
何に礼を言うのかは教えてくれなかった。不器用な人だった。父の言葉もあの栞も、見えているのに意味だけが遠い。
筆が止まったまま。ザルツさんが覗き込んだ。
「書くことがない時は、誰かの代わりに書くんですよ。もう自分じゃ書けない、誰かの代わりに。……届かなくてもいい、まだ繋がっている、と。それを伝えるために」
「……」
「——婆さんの受け売りですけどね」
ザルツさんの故郷では、満月の晩に死んだ者のことを語る風習があるらしい。教典もなければ寺院もない。軒先で月を見上げながら、祖母が孫に昔話をする。古い古い民間信仰の一つ。
「婆さんは、月が出た晩には何にでも話しかけてた。動物にも、植物にも。道具や家具にも、そして、死んだ爺さんやひい爺さんにも。……まったく同じ調子でね」
「区別なく、ですか?」
「ええ。生きてるものも死んだものも、全部そこにいるって顔をしてね」
――半年以上前に死んだ父。会ったこともない、父の友人。名前だけ知っていて、私が生まれるずっと前に生涯を終えた人。忘れてはいけないページだけが、それを証明している。
◇
父の分。それなら確かに私にも書けるかもしれない。だが、父なら何を願っただろうか。
友人と工房を開くこと?――いや、それはもう遠い昔に閉じた扉だ。
息子が幸せであること?――あの不器用な人が、そんな素直なことを願うだろうか。
筆が動いた。考えるより先に。
『また来週も、この席に座れますように』。
書いてから気づく。これは父の願いではない。間違いなく、私の願いだ。父の代わりに書いたはずの、私だけの一行だった。
百年後も火曜日は訪れる。だが、同じ日は一度きりしかやってこない。二百年生きてきて、そういう当たり前のことを短冊に教わっている。
枝に結ぶ。ザルツさんの「本が長生きしますように」の隣。風が通って、二枚の紙が揺れてぶつかる。蝋質の葉が夕光を弾いて、少しだけ明るい。
ザルツさんが短冊を二度読んだ。
「――大きい願いですね」
「小さいでしょう」
「大きいですよ。毎週同じ場所に帰ってくるっていうのは、不器用な人にしか書けない大きな願いだ」
◇
帰り際。カウンターで会釈をすると、司書が少しだけ首を傾げた。
「来週もまた、お待ちしていますね」
外に出る。夕暮れの風が疣取木を揺らしていた。
「また来週」と心の中で言う。父に。次の火曜日に。
私を待ち続けるページの先に、「ありがとう」を言えるその日に向かって。




