7月6日『七つ目の杯』
七月の朝は、光ばかりが先に届く。窓を開けても風がない。
「参考資料室、使わせてもらうよ。……あと三人来る」
開館の鍵を回した直後に、ザラが来た。いつもの軽い足取りではない。虹色の髪が汗で首に張り付き、目の光彩がいつもより暗い。
後ろにフェイ、ダリア、そしてダリアの弟子のユーリが続く。フェイの灰色の体毛がわずかに逆立っていた。ダリアは革手袋の上から右手の紫斑を押さえている。ユーリは大きな手に帳面を抱え、入口で丁寧に一礼してから入館した。
三階。参考資料室。鉱山の古い地質図と坑道構造図面を四人が囲んだ。
水差しとグラスを四つ。少し迷ってから、自分の分を加えた。五つ。
◇
鉄嶺の坑道で腐海の討伐が始まったのは五月のことだ。
ダリアやマティアスが定期的に来館するようになり、状況は断片的に聞いていた。瘴気に侵された坑道を少しずつ取り戻し、六月中旬には第三層から深部に至る入口――隊員たちが『赤壁』と呼ぶ、瘴気の結晶に半ば侵食された岩盤――に到達したという。
その工程は比較的順調だった。グラードが中間報告書を出したのが先週のこと。しかし、今のザラの目にあるのは行き詰まりの色だった。
ユーリが帳面を開く。
「一日からの負傷者は合計十四名。六月の月間総数をわずか五日で超過したかたちです」
重い数字だけが並ぶ。
「赤壁の手前に、確認できただけで十数体。各坑道ルートの合流地点を塞いでる。掃討しても数日で元に戻り、どの入口からも第三層に到達できないままだ」
ダリアが手袋を外し、指で地図を読む。いつものように。そして、『赤壁』のラインより先の白い空間でぴたりと止まった。
「第四坑道からの迂回路が崩落し、前衛二名が負傷しました。……啓開に一週間はかかる見込みです」
フェイが補足すると、ザラが腕を組んだ。
「撃って、蹴りつけて、雷を流したが、全て弾かれた。……同じ手は二度と通じない。厄介な相手だ」
ザラが突破できなかった。その一言の重さを、私は知っている。
「あいつら、普通の晶獣じゃない。あたしらを追い出しにきてんだ。決して素早いわけじゃないが、全てに対応して防備を固める。こちらを時間切れに追い込む」
ダリアが首を振る。
「地図の空白地帯が広がるばかりだよ。通信の中継器も濃い瘴気で腐食が進み、維持が困難になってきている」
沈黙。地質図の上に、窓からの光が四角く落ちている。紙の上だけが平穏だった。
◇
議論が同じ場所を巡りはじめたとき、階下で扉が開く音がした。
重い足音。今月から統括官となったグラードだ。角がいつもより低いが、その後ろにもうひとつの影があった。軽く、正確で、一歩ごとの間隔が寸分も狂わない。
――こういう歩き方をする人を、私は一人知っていた。
「すまん、遅くなった」
グラードの背後から、灰色のフードを被った人影が現れた。中肉中背。フードの縁から三角の耳が覗いている。騎士風のいで立ちなのに、腰に剣の鞘がない。……この特徴。胸の奥で、何かが鳴った。
ザラの耳が警戒するように立ちあがり、全身の毛が膨らんだ。
「――おい、嘘だろ」
灰色のフードがゆっくりと外された。緑の瞳。鋭い犬歯。定規で伸ばしたような背筋。右手に二つの指輪――人差し指の銀環と薬指の黒環。
「ウーツと申します。このたびは王宮よりの派遣命令にてまいりました。お見知りおきの程、よろしくお願いいたします」
静かな声だった。控えめなのに室内の隅まで届く。言葉の一つ一つが、磨かれた石のように丁寧に並んで聞こえる。
グラードが補足する。従来と異なる戦力が必要と判断し、王宮を通じて増援を要請したと。
その特徴的な立ち振る舞い。――都市プラエスの西を征く者。大陸でもっとも名高い光刃使いの集団。
ウーツさんの瞳がザラに向いた。
「久しいな、『ザラ殿』」
――さっきまでの、磨かれた丁寧語がどこかへ消えていた。
「……その呼び方、やめな」
「敬称をつけている。文句はなかろう」
「文句しか出ないよ」
フェイが困惑の表情を浮かべ、ユーリのペンが止まった。ダリアだけが静かに観察している。
ウーツさんの視線が室内を巡り――私を見つけた。
緑の瞳がわずかに揺れる。ほんの刹那。すぐにいつもの無表情に戻った。いつもの、と私が言えるのは、彼の過去を知っているからだ。
「……司書殿」
声が変わった。端正な丁寧語でも、ザラへのぞんざいな口調でもない。短く、静かで、どこか柔らかい。
「お久しぶりです、ウーツさん」
「……お変わりないようで」
それだけだ。再会の挨拶は、それだけで足りた。
ザラが私とウーツさんを交互に見る。「あんた、驚かないのか」と目線で訴えかける。驚いている。ただ、それを顔に出す習慣を、もう長いこと持っていない。
私はグラードとウーツさんの分のグラスを取り出して並べた。七つのグラスがテーブルに揃った。
◇
グラードが角を傾ける。「空いている席を使いたまえ」
しかし、ウーツさんは長机の端に立ったまま座らない。そういう人だったことを、私は思い出していた。
ウーツさんがユーリの帳面に素早く目を通し、静かに帳面を閉じた。その仕草にザラが気づいた。その目に戸惑いがないことに。
「あんた――知ってるんだろ?」
「ああ。これは紅獣と、我々が呼んでいるものだ。同じものを見た事がある」
一拍。
そして、ザラ以外に向けた丁寧な言葉遣いで続ける。
「一年ほど前、東方のタジザー峡谷で初めて確認されました。高濃度の瘴気溜まりに鉄鉱脈が接した場所に発生するらしく、我々の調査隊が初めて接触――私も交戦しましたよ」
フェイが息を飲んだ。
「この報告書と同じです。斬撃には硬化、打撃には分裂、能力には属性変換で対応してくる。峡谷では三体確認され、その次の北の湿原では十を越えた。ここが三度目の例になります」
三例目。しかも数がどんどん増えている。
「ならば、聞くが――他の二箇所はどうなった。倒せたのか?」とグラード。
「峡谷では倒しました」
「方法は?」
「それを説明するために来た次第であります」
ザラの歯が軋む音が聞こえた。
「もったいぶるんじゃないよ」
「順序がある、と申しているだけです。『ザラ殿』」
「だから、その呼び方をやめろ」
「では何と呼べばよいのかな? 愛称でも使いますか」
ザラの尻尾が三倍に膨らんだ。フェイが椅子ごと後ろに下がった。ダリアだけが微かに口元を押さえていて、笑いを堪えているのだと気づくまで、少しかかった。
「――ウーツさん」
私が口を挟んだ。二人が同時にこちらを向く。
「倒した方法について、今この場で話せる範囲はありますか」
ウーツさんの目がわずかに和んだ。
「……はい。では概要からお話しましょう」
ザラに向けるときとは違う声。この人が力を抜ける相手は、昔から少なかったものだ。
◇
「紅獣の防御は、攻撃に対する条件反射です。ヤツらに意思のようなものは無く、硬化も分裂も絶縁も、すべて『加えられた力への応答』として起きている、と推察されています。つまり、力を加えなければ応答もない」
「破壊しないってことかい?」
ザラの声に皮肉がない。本気で聞いている。
「ええ。……破壊しなければよいのです」
全員の動きが止まった。
「ただしそれは、外殻の話です。――あのゲル状の体。我々の研究者の手により、二つの能力の干渉に極めて弱いことが分かりました。ひとつは経年による組織の劣化で、もうひとつは特定周波の振動。どちらもゲルの結合を内側から崩し、中にある核を露出させます。核さえ砕けば、ゲル体の部分は蒸発して消える」
ザラが腕を組み直す。
「で? 北の湿原の方はどうなった?」
「すべて倒せはしました。――が、三日後にはまた同じ数が湧いていた」
室内の空気が変わった。
「紅獣の発生源は、最奥にある魔晶。それを断たない限り、各個体をどれだけ倒しても同じことの繰り返しになる。湿原では未だ最奥には到達できず、現在も攻略中です」
つまり倒し方はわかっている。だが、それだけでは終わらない。
「十数体を相手にしながら、最奥を目指す。単独の力では極めて困難な任務になります」
「……殊勝なことだね」とザラ。
「ああ。だからこそお前の、そしてこの街の協力が必要不可欠なんだ」
◇
会議は正午前に散会した。ウーツさんは最後に残っていた。
カウンターの前に立って、しばらく館内を見回していた。書架。窓。石畳の床。
「……良い場所ですね」
「ええ」
「ザラがこの場所を好む理由がわかりますよ」
灰色のフードを被り直して出ていった。正確で、一歩ごとの間隔が狂わない。――あの頃と変わらない足音が遠ざかる。
テーブルの上のグラスを片付けた。予定にない七つ目の杯も。




