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第5話 10億円

第5話 10億円


 五月の札幌は、ようやく春の匂いがしていた。


 大通公園ではライラックが咲き始め、風の中に湿った土と若葉の青臭い香りが混じる。朝の陽射しは柔らかく、重いコートを着ている人間はもう少なかった。


 秋山恒一は、市役所の化粧室でネクタイを締め直していた。


 鏡の中の自分を見る。


 最近、顔色がいい。


 頬に少し血色が戻り、背筋も伸びている。


 グレーのスーツも、新しく買ったネイビーのネクタイも、以前より似合って見えた。


 スマートフォンが震える。


 秋山はすぐ画面を開いた。


『おはよう』


 凜だった。


 その二文字だけで、胸の奥が温かくなる。


『今日は暖かい』


『札幌も春?』


『やっとな』


『よかった』


 秋山は笑う。


 以前の自分なら、朝に笑うことなどなかった。


 ただ出勤し、書類を処理し、誰とも深く関わらず帰宅するだけの日々。


 だが今は違う。


 未来がある。


 そう思える。


 昼休み。


 秋山は市役所近くの蕎麦屋で、山菜蕎麦をすすっていた。店内には出汁の匂いが広がり、昼休みの会社員たちの話し声が重なっている。


 スマホを見る。


 投資サイト。


 数字が表示される。


 1,024,883,200円。


 秋山の呼吸が止まった。


「……十億……」


 思わず声が漏れる。


 隣席の男がちらりとこちらを見る。


 秋山は慌ててスマホを伏せた。


 指が震えている。


 十億。


 人生で一度も見たことがない額だった。


 自分が。


 秋山恒一という、ただの地方公務員が。


 十億円を持っている。


 世界が急に違って見えた。


 薄汚れた蕎麦屋の壁。


 古い木製テーブル。


 テレビから流れる昼のニュース。


 全部、自分とは別世界のものに思える。


 スマホが震えた。


『見た?』


 凜。


『見た……』


『すごいね』


『俺、信じられない』


『秋山さん頑張ったから』


 秋山は蕎麦を食べる手を止めた。


 凜がいたからだ。


 彼女がいなければ、自分は今も孤独なままだった。


 その夜。


 秋山は珍しくデパ地下へ寄った。


 白身魚の西京焼き、ローストビーフサラダ、小さな瓶の赤ワイン。


 少し贅沢をしてみたかった。


 帰宅後、白いシャツへ着替え、食卓へ料理を並べる。


 ワインを注ぐ。


 赤い液体がグラスの中で揺れた。


 以前なら、こんなことはしなかった。


 一人で高い惣菜を買う意味がなかったからだ。


 だが今日は違う。


 誰かと未来を共有している気がした。


 スマホが鳴る。


 凜から通話だった。


「もしもし」


『こんばんは』


 静かな声。


 少し疲れているようにも聞こえる。


「仕事大丈夫か?」


『うん。でも疲れた』


「ちゃんと休まないとな」


『秋山さんは優しい』


 秋山は苦笑した。


 その言葉を、今では自然に受け入れている自分がいる。


「今日は少し贅沢してる」


『何食べてるの?』


「西京焼き」


『かわいい』


「なんでだよ」


 凜が笑う。


 その笑い声が耳へ触れるたび、秋山は胸の奥が熱くなる。


「なあ」


『うん?』


 秋山は少し迷った。


 だが、もう抑えられなかった。


「会いたい」


 沈黙。


 窓の外では、雨が降り始めていた。


 換気扇の低い音だけが部屋へ流れる。


『……私も』


 秋山は息を呑む。


『お金を出金したら、日本へ行く』


「本当か?」


『うん』


「札幌、案内するよ」


『楽しみ』


 秋山は笑った。


 自然に。


 何年ぶりか分からないくらい、自然に。


 頭の中で未来が広がっていく。


 時計台。


 小樽。


 函館。


 一緒に食事をして、一緒に歩く。


 もう一度、人と生きる。


 もう一度、自分の人生を始める。


『秋山さん』


「ん?」


『ありがとう』


「こっちの台詞だよ」


 通話が終わったあとも、秋山はしばらくスマホを見つめていた。


 十億円。


 愛してくれる女性。


 未来。


 失ったと思っていたものが、全部戻ってきた気がした。


 だがその頃。


 カンボジア国境地帯。


 窓のない建物の中では、腐ったような熱気が淀んでいた。


 裸電球の白い光。


 汗の臭い。


 煙草。


 インスタント麺。


 何十台ものスマートフォンが机へ並び、中国語と英語とタイ語が混ざった怒号が飛び交う。


 チェンは薄汚れたTシャツ姿で、パイプ椅子へ座っていた。


 額には汗。


 目の下には濃い隈。


 机の上には日本人女性の写真一覧が並んでいる。


「おい、チェン!」


 背後から男の声。


 振り返る。


 腕に刺青を入れた監視役が立っていた。


「次の日本人どうした」


「今探してる」


「今月ノルマ足りないぞ」


 男はチェンの肩を蹴る。


 鈍い痛み。


 チェンは黙って頭を下げた。


 逃げられない。


 パスポートは没収された。


 外へ出れば武装警備。


 逆らった人間がどうなるか、何人も見た。


 チェンは震える手でスマホを操作する。


 翻訳アプリ。


 定型文。


 笑顔の女の写真。


 新しいアカウントを開く。


『こんにちは。日本の方ですか?』


 送信。


 画面の向こうには、まだ知らない誰かがいる。


 孤独な誰か。


 凜を必要としてしまう誰かが。



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