第6話 保証金
第6話 保証金
六月の札幌は、曇り空が多かった。
湿った風が街を流れ、地下鉄の階段には雨の匂いがこもる。大通公園の芝生は鮮やかな緑になっていたが、秋山恒一には景色を楽しむ余裕などなかった。
昼休み。
市役所の休憩室で、秋山はスマートフォンを握り締めていた。
投資サイトの画面には、相変わらず巨大な数字が表示されている。
10億8420万円。
だが今日は、その数字の下に赤い表示が出ていた。
《出金エラー》
秋山は何度も画面を更新した。
だが結果は変わらない。
「なんだこれ……」
指先が汗ばんでいる。
すぐにサポートチャットを開いた。
『現在、国際金融監査中のため出金停止となっております』
『解除には利益確定税および国際保証金のお支払いが必要です』
秋山の喉が乾いた。
『いくら必要なんですか?』
返信まで数秒。
その時間が異様に長く感じる。
『3000万円です』
秋山は息を止めた。
「……三千万?」
休憩室の蛍光灯が白く滲む。
耳鳴り。
周囲では同僚たちが笑いながら弁当を食べていた。カレーの匂い。電子レンジの音。誰かがテレビのニュースに文句を言っている。
その全部が遠い。
秋山だけが、別の場所へ落ちていくようだった。
スマホが震える。
凜からだった。
『大丈夫?』
秋山はすぐ電話をかけた。
「凜、どういうことだ」
『ごめんなさい……』
声が震えている。
「三千万って何だよ」
『私も急に言われた』
「そんな金額……」
沈黙。
遠くで雑音がする。風の音のようにも聞こえた。
『でも、ここを超えれば終わるの』
「終わる?」
『全部出金できる』
秋山は額を押さえた。
汗が滲んでいる。
「三千万なんて簡単に言うなよ……」
『お願い……』
凜の声が涙混じりになる。
『ここまで来たの』
「……」
『私もお金出してる』
「凜も?」
『うん。でも足りない』
秋山は目を閉じた。
十億円。
その数字が頭に浮かぶ。
三千万払えば、十億が手に入る。
それだけだ。
それだけの話だ。
『秋山さん』
「……ん?」
『私、あなたと会いたい』
胸が痛む。
『お願い』
秋山は何も言えなかった。
夜。
帰宅した秋山は、スーツのまま床へ座り込んでいた。
部屋は蒸し暑い。
窓を少し開けると、雨上がりの湿った空気が入ってくる。
テーブルの上にはコンビニの冷やし中華が置かれていたが、まったく手をつけていない。麺は乾き始め、胡麻だれの匂いだけが漂っている。
スマホを見る。
投資サイト。
十億円。
その数字だけが現実だった。
「三千万……」
呟く。
貯金はほとんど投資へ回した。
マンション売却金も使った。
残っているのは、退職金積立と借入余力だけ。
だが。
ここで止まれば、全部失う。
それだけは理解できた。
翌日。
秋山は銀行へいた。
グレーのスーツは少し皺になり、目の下には濃い隈が浮いている。
「フリーローンをご希望ですか?」
窓口の男性行員が慎重に尋ねる。
「はい」
「用途は?」
秋山は少し迷った。
「投資です」
行員の表情がわずかに変わる。
「差し支えなければ、どのような投資でしょうか」
「暗号資産です」
「海外サイトですか?」
「……そうです」
沈黙。
行員は一度視線を落とし、慎重に言った。
「最近、SNSを利用した投資詐欺が増えております」
秋山の眉が動く。
「またそれか」
「お客様を疑っているわけではありません。ただ――」
「大丈夫だって言ってるだろ」
声が強くなる。
周囲の客がこちらを見る。
行員は落ち着いた声で続けた。
「もし可能なら、ご家族へご相談を」
秋山は苛立ちながら書類へサインした。
誰も分かっていない。
自分は成功目前なのだ。
あと少しで人生を取り戻せる。
帰宅途中。
秋山は地下鉄ホームでスマホを握り締めた。
そして、何年も連絡していなかった娘の連絡先を開く。
指が止まる。
だが。
電話を押した。
数回のコール。
「……もしもし」
若い女の声。
娘だった。
「由佳か」
『……お父さん?』
その声には驚きと警戒が混じっていた。
「久しぶりだな」
『どうしたの』
秋山は喉を鳴らす。
「少し相談があって」
『何』
「金を貸してほしい」
沈黙。
地下鉄がホームへ滑り込む轟音が響いた。
『……は?』
「必ず返す」
『何に使うの』
「投資だ」
『また変な話じゃないでしょうね』
「変じゃない!」
秋山は思わず声を荒げた。
周囲の視線が刺さる。
「もうすぐ大金が入るんだ」
『お父さん』
娘の声が低くなる。
『それ、騙されてる』
秋山の胸が熱くなる。
「違う」
『絶対そうだよ』
「お前に何が分かる!」
『SNSで知り合った女なんでしょ!?』
秋山は息を呑んだ。
『そんなの全部詐欺だよ!』
「彼女は違う!」
『会ったこともないのに!?』
「凜は俺を支えてくれた!」
ホームの空気が冷たい。
電車のドアが開き、人が流れる。
だが秋山は動けない。
『お父さん、おかしいよ』
「……」
『目を覚まして』
秋山は電話を切った。
手が震えていた。
怒りなのか。
恐怖なのか。
自分でも分からない。
スマホが震える。
凜だった。
『大丈夫?』
秋山は長く息を吐いた。
娘より先に、凜へ返信している自分に気づく。
『大丈夫じゃない』
『どうしたの』
『誰も理解してくれない』
すぐ返信が来た。
『私は味方』
その一文を見た瞬間。
秋山は泣きそうになった。
地下鉄ホームの風が、濡れた頬を冷たく撫でていった。




