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第4話 VIP

第4話 VIP


 四月の札幌は、中途半端な季節だった。


 歩道脇にはまだ薄汚れた雪が残り、その横で福寿草が小さく咲いている。昼間は雪解け水の匂いが漂うのに、夜になると空気は急に冷え込み、吐く息が白くなった。


 秋山恒一は、帰宅途中の地下鉄車内でスマートフォンを見つめていた。


 車窓へ映る自分の顔は少し赤い。


 酒ではない。


 興奮だった。


 投資サイトの数字が、また増えている。


 12,480,000円。


 最初は五万円だった。


 それが今では、一千万を超えている。


 現実感がなかった。


 だが、口座へ実際に出金された金を見ている以上、疑いようもない。


 向かいの席では高校生たちが笑いながら動画を見ている。隣の老人は眠り、車内アナウンスが低く響く。


 そのどれとも違う世界に、自分だけが足を踏み入れた気がしていた。


 スマホが震える。


 凜からだった。


『今日も増えたね』


 秋山の口元が自然に緩む。


『自分でも信じられない』


『秋山さんだから』


『いや、凜のおかげだ』


 少し間が空く。


 そして。


『嬉しい』


 たった三文字なのに、秋山の胸は熱くなった。


 マンションへ帰ると、部屋は少し冷えていた。ネクタイを外し、ベージュのカーディガンを羽織る。台所で湯を沸かし、スーパーで買った肉じゃがを温めた。


 醤油と玉ねぎの甘い匂いが部屋へ広がる。


 テレビではプロ野球中継が流れていたが、秋山はほとんど見ていなかった。


 スマホしか見ていない。


『今、サポート担当を紹介する』


『サポート?』


『VIP投資家になるから』


 数秒後、別アカウントからメッセージが届いた。


『初めまして。資産管理担当の佐々木と申します』


 丁寧な日本語だった。


『秋山様は現在、VIPランクへの昇格条件を満たしております』


 秋山は思わず姿勢を正した。


 “VIP”。


 その言葉が妙に甘く響く。


『VIPになると何が違うんですか?』


『優先利益枠の開放、高利率運用、特別案件への参加資格が付与されます』


 さらに別の担当者からも連絡が来る。


『専属アナリストの三浦です』


『今後の市場予測を共有いたします』


 画面の中で、何人もの人間が自分を特別扱いしていた。


 市役所では、誰も秋山を特別視しない。


 ただの五十五歳の地方公務員。


 書類を処理し、住民に頭を下げ、静かに老いていく男。


 だが今は違う。


 この世界では、自分は価値ある人間だった。


『秋山様の資産形成スピードは極めて優秀です』


『選ばれた投資家です』


 その言葉を読むたび、胸が高鳴る。


 凜から通話が来たのは、その夜だった。


 珍しかった。


 イヤホンを耳へ差し込む。


「もしもし」


『こんばんは』


 少し掠れた声。


 静かな日本語。


 それだけで秋山の心臓は速くなる。


「声、初めてだな」


『緊張してる?』


「少し」


 凜が小さく笑う。


 その笑い声は不思議と生活感があった。遠くで食器の触れる音がする。


『今、ご飯食べてた』


「何食べてるんだ?」


『お粥。疲れたから簡単なもの』


「ちゃんと食べないと駄目だぞ」


『ふふ、お父さんみたい』


 秋山は照れ臭く笑った。


 窓の外では雨が降っている。部屋には肉じゃがの匂いが残り、暖房の風がカーテンを微かに揺らしていた。


『秋山さん』


「ん?」


『あなたなら成功できる』


 秋山は黙る。


『私、最初から分かってた』


「そんな大した人間じゃないよ」


『違う』


 凜の声は静かだった。


『真面目に生きてきた人は、最後に報われる』


 その言葉が胸へ刺さる。


 誰かに、自分の人生を肯定されたかった。


 ずっと。


『私たち、一緒に生きていける』


 秋山は息を止めた。


 窓ガラスへ映る自分の顔が、少し若返ったように見える。


 その夜、秋山は眠れなかった。


 スマホの光を見つめながら、未来を想像していた。


 凜と会う。


 香港へ行く。


 もう一度、人と暮らす。


 もう一度、自分の人生を始める。


 翌週。


 秋山は不動産会社へいた。


 グレーのスーツにネイビーのネクタイ。応接室にはコーヒーの香りが漂い、壁には札幌市内の中古マンション情報が並んでいる。


「本当に売却されるんですね?」


 若い営業マンが確認する。


「ええ」


「お住まいは?」


「別に借ります」


 営業マンは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


 秋山は胸の奥に熱を感じていた。


 これは投資だ。


 未来のための。


 数日後、銀行。


 女性行員が通帳を見ながら眉を曇らせた。


「かなり大きな送金になりますが……投資先は確認されていますか?」


「されています」


「最近、SNS型の投資詐欺が増えておりまして」


 秋山の表情が固くなる。


「大丈夫です」


「海外サイトですと危険な場合も――」


「違う!」


 思わず声が大きくなった。


 周囲の客が振り返る。


 秋山は自分でも驚いた。


「彼女を侮辱するな!」


 銀行内が静まり返る。


 女性行員は息を呑んだ。


「……申し訳ありません」


 秋山は荒い息を整えながら、震える拳を握った。


 凜は違う。


 他の人間とは違う。


 自分を必要としてくれた。


 自分を見てくれた。


 その事実だけが、秋山には現実だった。


 銀行を出ると、札幌の空には細い雨が降っていた。


 スーツの肩が濡れる。


 スマホが震えた。


『大丈夫?』


 凜だった。


 秋山は立ち止まる。


『どうして分かった?』


『なんとなく』


 秋山は笑った。


 世界中で、たった一人。


 自分を理解してくれる人間がいる。


 そう信じていた。


 だからもう、現実世界の声は届かない。


 同僚も。


 銀行員も。


 家族も。


 皆、自分を邪魔する側の人間に見え始めていた。



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