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第3話 ボーナスタイム

第3話 ボーナスタイム


 三月の終わり。札幌の雪は少しずつ黒く溶け始めていた。


 歩道脇に積まれていた雪山は低くなり、アスファルトの隙間から濁った水が流れている。春が近づいているはずなのに、風はまだ冷たい。


 秋山恒一は、市役所庁舎の喫煙所跡地を横切りながらスマートフォンを見ていた。


 画面の中で数字が動いている。


 742,000円。


 先月、五万円から始めた資産が、信じられない速度で増えていた。


「すごいな……」


 思わず呟く。


 胸の奥が熱い。


 五十五年生きてきて、こんな感覚は初めてだった。


 若い頃、結婚した時とも違う。


 娘が生まれた時とも違う。


 もっと危うく、もっと甘い興奮。


 昼休みの食堂で、高橋真衣が向かいへ座った。


「秋山さん、最近スマホばっかり見てますね」


「そうか?」


「うん。なんか楽しそう」


 高橋はクリーム色のカーディガンを羽織り、トレーに載せた生姜焼き定食へ七味を振った。まだ二十代後半の彼女は、市役所の中では珍しく愛想がよかった。


「別に大したことじゃないよ」


「彼女とか?」


 秋山は味噌汁を吹きそうになった。


「ば、馬鹿言え」


「えー、怪しいなぁ」


 高橋は笑う。


 秋山は目を逸らしながら唐揚げを口へ入れた。衣が少し冷めて硬かったが、不思議と今日は何を食べても美味く感じた。


 夜。


 秋山は帰宅すると、ネイビーのスウェットへ着替え、スーパーで買った鯖の塩焼き弁当を電子レンジへ入れた。部屋には魚の脂と醤油の匂いが広がる。


 窓の外では雨混じりの雪が降っていた。


 スマートフォンが震える。


『お疲れさま』


 リンだった。


 秋山の口元が自然に緩む。


『今帰ったところ』


『今日は寒かった?』


『まだ寒いな』


『香港は暖かいよ』


 リンから写真が送られてくる。


 白いワンピース姿のリンが、高層ビルの夜景を背にワイングラスを持っていた。肩にかかる黒髪が艶やかで、細い指先には銀色のリングが光っている。


 秋山はしばらく見つめた。


 美しい。


 そして、その写真を自分だけに送ってくれていることが、たまらなく嬉しかった。


『綺麗だな』


『景色?』


『両方』


 送信したあと、秋山は顔が熱くなるのを感じた。


 だがリンは笑う絵文字を返してきた。


『秋山さん面白い』


 秋山は缶ビールを開けた。


 プシュッという音が静かな部屋へ響く。


『投資サイト見た?』


『見た。かなり増えてる』


『今すごいチャンス』


『チャンス?』


『うん。“ボーナスタイム”』


 リンからグラフ画像が送られてくる。


 赤い線が急激に上昇していた。


『今だけ市場が開いてる』


『市場が開く?』


『大口投資家が動く時期。普通は入れない』


『そうなのか』


『これは人生を変えるチャンス』


 秋山は画面を見つめた。


 人生を変える。


 その言葉が頭に残る。


 自分の人生は、もう変わらないと思っていた。


 定年まで働き、少ない退職金で老後を過ごし、静かに老いていく。それだけだと。


 だが最近、未来を想像することが増えていた。


 香港へ行ってみたい。


 リンと実際に会ってみたい。


 もう一度、人と笑い合う生活をしたい。


『もっと入れれば増える?』


 送信してから、心臓が少し速くなる。


『もちろん』


『でも無理しない』


『秋山さんの未来を壊したくない』


 その言葉に、秋山は胸を掴まれた気がした。


 彼女は自分を心配してくれている。


 本当に。


『少し考えてみる』


『うん。でも今だけ』


 翌日。


 秋山は昼休みに銀行へ向かった。


 空は灰色だった。歩道には溶けた雪が残り、革靴の裏が濡れる。銀行の自動ドアが開くと、暖房の温気と消毒液の匂いが混ざった空気が流れてきた。


 番号札を取る。


 待合椅子に座る。


 秋山は膝の上で手を組みながら、何度もスマホを見た。


『大丈夫?』


 リンからメッセージ。


『うん』


『緊張してる?』


『少し』


『大丈夫。私は秋山さんを信じてる』


 その言葉で、不思議と落ち着いた。


「秋山様」


 呼ばれ、窓口へ向かう。


「本日はどうされました?」


 女性行員が微笑む。


「定期預金を解約したくて」


「かしこまりました」


 通帳を差し出す。


 女性行員は少し驚いた顔をした。


「かなり大きな金額ですが、ご利用予定は……?」


 秋山は一瞬詰まった。


「ちょっと……投資を」


「最近、投資詐欺なども増えておりますので、お気をつけください」


 秋山は苦笑した。


「大丈夫です」


「よろしければ、ご家族ともご相談を」


「問題ありません」


 少し強い口調になった。


 女性行員はそれ以上何も言わなかった。


 銀行を出ると、冷たい風が頬へ刺さった。


 秋山はすぐスマホを開く。


『できた』


『よかった』


『これで未来変わる』


 未来。


 その言葉が、最近の秋山には眩しかった。


 夜。


 投資サイトの数字は、一気に跳ね上がった。


 3,200,000円。


 4,850,000円。


 5,100,000円。


 秋山は息を呑む。


「すごい……」


 手が震える。


 まるで現実感がなかった。


『見た?』


『ああ……すごいな』


『秋山さんならできると思ってた』


『俺、こんなの初めてだ』


『これからもっと良くなる』


 秋山はソファへ深く座り込んだ。


 暖房の熱で部屋は少し暑い。ワイシャツのボタンを一つ外す。窓の外では雪解け水が道路を濡らし、遠くを走る車のタイヤ音が低く響いていた。


 スマホ画面の光だけが、暗い部屋を照らしている。


『ありがとう』


 秋山は送る。


『何が?』


『俺に未来を見せてくれて』


 少し間が空いた。


 そして。


『秋山さんは優しい人だから』


 秋山は目を閉じた。


 その言葉を、信じたかった。


 信じることでしか、自分の人生をもう一度始められない気がしたのである。



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