第2話 あなたは優しい人
第2話 あなたは優しい人
三月に入っても、札幌の風はまだ冷たかった。
朝七時。秋山恒一は、寝癖の残る髪を手櫛で整えながら、薄いグレーのスーツに袖を通した。ワイシャツの襟元を直し、ネクタイを締める。鏡に映る顔は相変わらず疲れていたが、最近少しだけ違うことがあった。
夜になるのを待っている自分がいる。
台所でインスタントコーヒーを淹れる。湯気と一緒に苦い香りが狭い部屋へ広がった。食パンを焼き、マーガリンを塗る。テレビでは朝の情報番組が流れていたが、内容は頭に入ってこない。
スマートフォンの画面を見る。
通知はない。
ほんの少しだけ、胸が沈む。
「何やってんだ、俺……」
秋山は小さく笑った。
たった数週間前まで、帰宅後はテレビを眺め、缶ビールを飲み、眠るだけの毎日だった。だが今は違う。
夜になると、リンからメッセージが来る。
それだけで一日が変わる。
市役所の廊下を歩きながらも、会議中も、昼食中も、ふとスマホが気になった。
「秋山さん、最近機嫌いいですね」
昼休み、若い女性職員の高橋が笑いながら言った。
「そうか?」
「なんか顔が柔らかいです」
「気のせいだよ」
秋山は味噌ラーメンの湯気を見つめながら答えた。
市役所近くの古びた食堂は、昼になるとサラリーマンで埋まる。ラードの匂い、濃い味噌の香り、厨房から響く中華鍋の音。その雑多な空気の中で、秋山は久しぶりに食欲を感じていた。
スマホが震える。
秋山の胸が小さく跳ねた。
画面を見る。
『今日のお昼です』
リンからだった。
写真には、ガラス張りの高層レストランらしい場所で、小籠包と海鮮粥が並んでいた。窓の向こうには、夜景のような高層ビル群が見える。
「すごいな……」
思わず声が漏れる。
『日本は今お昼ですね?』
『ああ。ラーメン食べてる』
『写真見せて』
秋山は戸惑いながらラーメンを撮影した。
湯気でレンズが少し曇る。
『美味しそう! 北海道の味噌ラーメン好き』
たったそれだけのやり取りなのに、不思議と胸が温かくなった。
夜。
帰宅した秋山は、黒いスウェットに着替え、ソファへ座った。外では雪混じりの雨が窓を叩いている。暖房の風が乾いた音を立て、部屋にはスーパーで買った焼き鳥の匂いが漂っていた。
スマホが鳴る。
『今日は疲れた』
秋山はすぐ返信した。
『仕事大変だった?』
『うん。人を信じない人が多い』
『香港もそうなのか』
『どこも同じ』
少し間が空く。
そして。
『でも、秋山さんは優しい人』
その一文を見た瞬間、秋山の指が止まった。
心臓の奥を、柔らかいものが撫でた気がした。
妻が死んでから、「優しい」と言われたことがあっただろうか。
娘とは疎遠。
職場では空気のような存在。
気づけば、自分は誰からも必要とされなくなっていた。
『そんなことないよ』
『ある』
『どうしてそう思う?』
『私の話をちゃんと聞いてくれる』
秋山は黙った。
雪の音がする。
静かな夜だった。
『秋山さんは、一人?』
『ああ。妻が亡くなってね』
送信してから後悔した。
重い話だったかもしれない。
だが数秒後、返信が来る。
『ごめんなさい』
『いや、大丈夫』
『寂しいね』
秋山は画面を見つめた。
その「寂しいね」の一言が、胸に深く染み込む。
彼女は分かってくれている。
そんな気がした。
『リンは?』
『私も一人』
『家族は?』
『仕事ばかり』
『そうか』
『だから、秋山さんと話すと安心する』
暖房の熱で喉が乾いていた。秋山は缶ビールを一口飲む。冷たい苦味が舌へ広がる。
『投資って興味ある?』
突然の言葉に、秋山は眉をひそめた。
『投資?』
『うん。私は暗号資産の仕事してる』
『難しそうだな』
『難しくないよ』
リンからグラフの画像が送られてくる。
数字が急激に上がっていた。
『今、すごく良いタイミング』
『でも俺、そういうの詳しくない』
『大丈夫。私が教える』
秋山は少し警戒した。
ニュースで詐欺の話は聞く。
SNS。
投資。
知らない女。
危険な組み合わせだ。
だがリンは、すぐに投資を勧めてくるわけではなかった。
『お金を増やすだけじゃない』
『?』
『未来を守ること』
秋山はその言葉を繰り返し読んだ。
未来。
自分には、もう残っていないと思っていた言葉だった。
『少しだけやってみる?』
『少しだけなら』
『無理しないで。5万円くらいでいい』
翌日、秋山は昼休みに銀行アプリを開いた。
たかが五万円。
失っても困らない額だ。
半信半疑のまま、リンに送られたサイトへ登録する。
海外の投資サイトらしかった。
画面は洗練されている。
リアルタイムで数字が動いていた。
『できた?』
『ああ』
『じゃあ買うね』
数分後。
画面の数字が変わった。
50,000円。
それが、52,400円になっている。
「え……?」
秋山は思わず声を漏らした。
『今上がってる』
『本当だ』
『よかった』
その日の夜、秋山は何度もサイトを確認した。
数字は増え続けていた。
翌日には58,000円。
三日後には67,000円。
そしてリンが言った。
『一回出金してみる?』
『できるのか?』
『もちろん』
指示通りに操作する。
二万円出金。
正直、半分は疑っていた。
だが翌朝。
本当に銀行口座へ二万円が振り込まれていた。
秋山は通帳アプリを見つめた。
指先が震える。
「本当に……増えた……」
その夜。
『どうだった?』
リンからメッセージが来る。
『本当に入ってた』
『でしょ?』
『すごいな……』
『秋山さんを騙さない』
秋山は笑った。
窓の外では、雪解け水が道路を濡らしている。
遠くで除雪車のエンジン音が響いていた。
スマホの光が、暗い部屋で静かに秋山の顔を照らしている。
彼はもう疑っていなかった。
いや。
疑いたくなかった。
誰かが自分を必要としてくれている。
その温かさを失う方が、怖かったのである。




