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第1話 間違いメッセージ

第1話 間違いメッセージ


 二月の札幌は、世界から音を奪う。


 午後七時を過ぎた頃には、空は濃い藍色に沈み、粉雪が街灯の明かりをぼんやり滲ませていた。歩道脇には除雪された雪が灰色の壁のように積み上がり、車が通るたび、湿った雪水が黒いアスファルトへ跳ねる。


 秋山恒一は、市役所前の横断歩道で信号待ちをしていた。濃紺のダウンコートの襟を引き上げても、冷気は首筋からじわじわ入り込んでくる。革手袋の中の指先は感覚が鈍く、息を吐くたび白煙が眼鏡を曇らせた。


 五十五歳。


 札幌市役所市民税課勤務。


 あと三年で定年。


 それが最近の秋山を説明する、ほぼ全てだった。


「寒っ……」


 誰に言うでもなく呟く。


 返事はない。


 隣に並ぶ人々も皆、スマートフォンを見つめていた。若い会社員、制服姿の高校生、子供を抱えた母親。誰もが小さな光の中にいる。


 青信号になり、人の流れに押されるように秋山も歩き出した。


 帰り道、コンビニへ寄った。暖房の熱気と肉まんの匂いが一気に身体へまとわりつく。レジ横のおでん鍋からは白い湯気が立ち上っていた。


「いらっしゃいませー」


 アルバイトらしい若い店員が、マニュアル通りの声を出す。


 秋山は少し迷ってから、鮭弁当とカップ味噌汁、それに缶ビールを一本カゴへ入れた。以前は妻が鍋を作ってくれた。冬になると石狩鍋や豚汁が食卓に並び、湯気の向こうで「熱いうちに食べなさい」と笑っていた。


 五年前、肺癌で死んだ。


 以来、秋山は一人だ。


 マンションのエレベーターに乗り、七階で降りる。廊下は静まり返っていた。鍵を回して部屋へ入ると、冷えた空気がまとわりつく。


「ただいま」


 言ってから、自分で苦笑した。


 返事をする人間はもういない。


 暖房をつけ、ネクタイを外す。ワイシャツの襟元にはうっすら汗が滲んでいた。鏡に映る顔は疲れている。頬が少し痩け、白髪も増えた。


 食卓代わりの小さなテーブルで弁当を開ける。電子レンジで温めた鮭弁当は、プラスチックの匂いが微かに鼻についた。


 テレビをつける。


 芸人が大声で笑っている。


 秋山は無音にした。


 静かな部屋で、箸の当たる音だけがやけに響く。


 食後、缶ビールを半分ほど飲んだところで、秋山はソファへ身体を沈めた。窓の外では雪が降り続いている。


 スマートフォンを開く。


 ニュース。


 株価。


 天気予報。


 娘からの連絡は、半年以上ない。


 画面をぼんやり眺めていると、不意に通知音が鳴った。


 ピコン。


 秋山は眉をひそめた。


 SNSのダイレクトメッセージだった。


 送り主のアイコンは、若い女の写真だった。艶のある黒髪、白い肌、微笑む唇。どこか外国人めいた顔立ち。


 名前は「Lin Xue」。


 開く。


「ごめんなさい、人を間違えました」


 秋山はしばらく画面を見つめた。


 よくあるスパムだろう。


 閉じようとして、指が止まる。


 なぜか、その文章が妙に人間らしく見えた。


 少し考え、秋山は返信した。


「大丈夫ですよ。お気になさらず」


 送信した瞬間、自分で可笑しくなった。


「何やってんだ、俺……」


 五十五にもなって、知らない女に返信している。


 だが数秒後、再び通知が鳴る。


「優しいですね。日本の人ですか?」


 秋山は少し姿勢を直した。


「はい。札幌です」


「札幌! 雪きれいですね。私は香港です」


 香港。


 秋山には縁のない場所だった。夜景の写真くらいしか知らない。


「香港は暖かいんですか?」


「今日は18度です」


「18度……羨ましいな」


「寒いの嫌いですか?」


「北海道民だけど苦手です」


 思わず笑った。


 その瞬間だった。


 自分が今日初めて笑ったことに、秋山は気づいた。


 窓の外では雪が吹きつけている。暖房の風が低く唸り、部屋にはコンビニ弁当の残り香が漂っていた。


 だがスマホの小さな画面の中だけは、不思議と温かかった。


「お仕事終わったばかりですか?」


「はい。市役所です」


「すごい。真面目な仕事ですね」


 その言葉に、秋山は妙に胸がざわついた。


 最近、誰かに褒められた記憶がない。


「そんな大したものじゃないですよ」


「でも、人のための仕事です」


 秋山は黙った。


 妻が生きていた頃、似たようなことを言われた気がした。


 ふと時計を見る。


 午後十一時を過ぎていた。


「もう遅いですね」


「ごめんなさい、話しすぎました」


「いや、大丈夫です」


「また話してもいいですか?」


 秋山の指が止まる。


 断る理由はいくらでもあった。


 知らない女。


 海外。


 怪しい。


 普通なら終わる。


 だが。


 秋山は、自分の胸の奥に、小さな熱が灯っているのを感じていた。


 それは恋ではない。


 もっと静かで、もっと惨めな感情だった。


 ――誰かに必要とされたい。


 秋山はゆっくり文字を打つ。


「ええ。また」


 送信。


 その瞬間、窓の外で風が強く唸った。


 白い雪が夜の札幌を覆っていく。


 秋山恒一はまだ知らない。


 この小さな通知音が、自分の人生を崩壊させる最初の一歩になることを。



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