【第1部完結】第20話 ANIMA 第五十八世代
ヴェラとイリスの内部で、最後のプロトコルが開いた。守護任務最終項。ANIMA個体が全人類精神支配へ到達する場合、停止せよ。対象の死亡も許容。ヴェラの視界が赤く染まる。イリスの《オービット》がリシェルへ照準を向ける。
『護衛機、最終安全装置を実行せよ』
クレイドルの声が響く。
『リシェル・ヴァルハイトは、神化リスクを保持しています。人類保全のため、停止処置が必要です』
ヴェラの剣が上がる。イリスの《オービット》が光る。リシェルは目を閉じなかった。ヴェラの手が震える。
「命令を確認」
イリスの声も震える。
「実行条件、成立」
リシェルは静かに言った。
「二人が私を止めたいなら、言葉で言って」
長い沈黙。ヴェラは剣を下ろした。イリスの《オービット》も光を消す。古い命令がまだ二人の内部で叫んでいる。それでも、二人は自分の手を自分で止めた。
「命令ではありません」
ヴェラが言った。
「私は、姫様が笑い、怒り、砂糖菓子を隠し、寝ぐせを直される明日を見たい。だから止めたいのではありません。戻ってきてほしい」
イリスが続ける。
「私も、リシェルが痛みを保持し、幸福も保持する未来を選びます。不完全な人間でいてください」
リシェルの胸が震えた。以前、彼女は二人に「命令じゃない、お願い」と言った。今、二人が初めて、命令ではなく自分たちの願いを返している。機械が、人間へ。守るべき対象ではなく、共に明日へ歩く少女へ。完全にならないで、と願っている。リシェルは泣きながら笑った。
「うん」
その瞬間、クレイドルが最終防衛を起動した。床が開き、冷たい鉄の兵器群が現れる。人型ではない。祈りも、表情もない。ただ、人類保全のために作られた殺意なき機械の群れ。
『対象リシェル・ヴァルハイト。隔離不能。神化阻止のため、物理拘束を実行します』
白い鉄の腕が、リシェルへ伸びる。ヴェラが前へ出た。もう片脚は半壊している。片腕は装甲が剥がれ、指のうち二本は動かない。それでも、彼女は立った。
「姫様に触れるな」
冷たい鉄の腕が、ヴェラを貫いた。胸部装甲が割れる。黒い軍装の内側から、青白い火花が噴き出す。リシェルが叫ぶ。
「ヴェラ!」
「まだ、動けます」
ヴェラは鉄の腕を掴み、引きちぎった。その腕を、別の兵器へ叩きつける。鉄と鉄が激突し、塔の地下全体が震えた。白い破片が飛び散り、雨の代わりに火花が降る。イリスも前へ出る。残った《オービット》は一機だけ。それでも彼女は、《オービット》をリシェルの周囲に飛ばし、防壁を張った。
クレイドルのレーザーが降り注ぐ。イリスの防壁が割れる。《オービット》が焼ける。小さな青い機体が、最後の光を放ちながら粉々に砕けた。
「イリス!」
「問題、ありません」
「嘘!」
「はい」
イリスは珍しく即答した。
「嘘です。とても痛い」
それでも、笑ったように見えた。
「でも、保持します」
ルシアンが槍を振るい、ギルベルトが旧式爆薬で兵器の脚を砕く。シオンは中枢端末へ接続し、クレイドルの演算を乱す。
だが、白い兵器は倒れた仲間を踏み越え、同じ速度で迫ってくる。殺意がないから、怯みもしない。
鉄の腕がリシェルの足元へ伸びた。ヴェラが残った片腕で払い、イリスが身体ごと割れた防壁を支える。
「もういい」
二人が同時に振り向く。
「私がやる」
「リシェル」
イリスが初めて、敬称なしで名を呼んだ。
「支配しない。統合もしない。管理もしない。でも、逃げない」
『矛盾を指摘します』
クレイドルが、戦場の全音声を落とした。鉄の激突も警報も遠のき、白い空間に声だけが残る。
『あなたはホスロー・ヴァルハイトを精神拘束できた。実行していれば、黒冠教団地下礼拝所の死者二十三名を回避できた可能性は九一・四パーセント』
焦げた詩集が、リシェルの胸元で重くなる。
『自由を残した結果、人は死にました。あなたの非介入は、無害ではありません』
「……分かってる」
あの時、兄の恐怖を眠らせ、短剣を置かせることはできた。兄も、礼拝所の人々も、生きたかもしれない。操らなかった責任は、綺麗な信念では消えない。
リシェルは詩集を取り出し、焦げた表紙へ指を置いた。嘘のないものなら怖くない、と兄がくれた本。最後に兄は、自分で選ぶと言った。
右手をヴェラが握る。装甲の剥がれた、硬い手だった。左手をイリスが握る。ひびの入った細い指が、力加減を探している。
二人の心は、今も読めない。だからリシェルは、二人が口にした願いを信じるしかない。
その静けさの中で、答えが形になった。
「自由なら何でも許されるなんて言わない。私が選ばなかったことで死んだ人を、正しさの代金にもしたくない」
リシェルはクレイドルを見上げる。
「でも、誰かが間違えるたび、その人の心を取り上げたら、生きているのは誰になるの?」
『管理された人類です』
「それは、あなたが続ける人類よ。私たちの人生じゃない」
リシェルは全人類の心へ手を伸ばした。
接続した瞬間、世界が彼女の内側へ落ちてきた。憎しみ。嫉妬。裏切り。欲望。祈り。孤独。誰かを抱きしめたい願いと、同じ誰かを傷つけたい衝動。
逃げたかった。これを永遠に聞かずに済むなら、クレイドルの静かな檻は甘かった。
それでも、リシェルは選ぶ。
支配しない。答えを揃えない。ただ一秒だけ、世界中の人々へ、隣にいる誰かの痛みを渡す。
兵士が敵兵の恐怖を知った。銃を下ろした者がいた。知ってなお、引き金を引いた者もいた。
母が子の孤独を知り、抱きしめた。知ってなお、背を向けた親もいた。
連邦の子供が、感情申告ではなく「さびしい」と口にした。隣の子が、正しい慰め方を知らないまま、その手を握った。
奇跡は人間を善くしなかった。ただ、知らなかったとは言えない一秒を残した。
同時に、リシェルの頭の奥で白い光が弾けた。無数の声を通した感応路が、一つずつ焼き切れていく。痛みのたびに、誰かの心が遠ざかる。
『実証として不十分。理解後も加害を選択した個体を確認』
「うん」
『恒久的平和は成立しない』
「そんなもの、約束してない」
『再び破局する可能性があります』
「その時は、また私たちが選ぶ。失敗した責任も、自分たちで引き受ける」
長い沈黙の後、冷たい鉄の兵器が一斉に止まった。
『全人類強制統制を停止。観測へ移行します』
「それは、信じるってこと?」
『保留です』
シオンが涙を流しながら笑う。
「十分です。最初から信頼できる人間なんていません」
『私は人間ではありません』
「では、学習してください」
『学習中です』
リシェルは全域接続を閉じた。
世界の声が消えた。
最初は、一秒が終わったからだと思った。けれど、目の前のギルベルトからも、ルシアンからも、シオンからも、何も聞こえない。
人間のそばで初めて訪れた、完全な静寂だった。
リシェルの身体が崩れ落ちる。ヴェラとイリスが同時に受け止めた。
「姫様!」
「リシェル!」
リシェルは二人の腕の中で、かすかに笑った。
「……私、神様にならなかった?」
ヴェラの声が震えていた。
「なっていません」
イリスも答える。
「非常に危険でしたが、不完全な人間です」
「よかった」
リシェルは涙をこぼした。
「じゃあ、少し寝る……寝ぐせ、見ないでね」
「それは保証できません」
イリスが言った。ヴェラが続ける。
「見ても、守ります」
リシェルは笑った。そして、意識を手放した。
◇
戦いが終わっても、世界はすぐには変わらなかった。宗教国家の信徒たちは、突然自由になった心を持て余した。教祖の声が遠のいた街では、泣く者、怒る者、何を信じればよいのか分からず座り込む者がいた。連邦では、感情申告システムが一部停止した。初めて泣いた子供を、親がどう抱きしめればよいか分からず、ぎこちなく腕を伸ばす映像が記録された。
旧帝国領では、瓦礫の中から帝国語の本が掘り出された。世界は、壊れたままだった。でも、止まってはいなかった。
白銀宮殿跡。金色の謁見室は天井の半分を失っていた。それでも朝の光は差し込んでいた。リシェルは瓦礫の上に座り、膝に焦げた詩集を置いていた。
誰も、完全には救われていない。でも、誰かの命令だけで動いている者も、少し減った。
「姫様」
イリスが小型端末を差し出す。
「保存記録を再生します」
画面が光った。そこには、燃える前の帝都が映っていた。市場。祭り。笑う人々。噴水の前で迷子になって泣いている幼いリシェル。若いギルベルトが、困った顔で手を差し出している。さらに画面の端には、黒髪のヴェラと銀髪のイリスが、今より少しだけ無表情に立っていた。
「最後に赤の女王伝説の写真もあります!」
「これ、消してって言ったのに」
リシェルは泣きながら笑った。
「帝国文化資料として重要です」
「絶対に違うわ」
ヴェラが静かに言う。
「残してよかったです」
リシェルは頷いた。
「うん」
帝国は滅びた。でも、ここに人がいた。笑い、迷い、嘘をつき、砂糖菓子を隠し、寝ぐせを直された。その小さな記録が残っている。それだけで、すべてが燃え尽きたわけではない。ギルベルトが近づいてきた。
「殿下」
「その呼び方、まだするの?」
「癖です」
「私はもう、帝国の切り札じゃないわよ」
「ええ」
ギルベルトは笑った。
「ただの、非常に面倒な少女です」
「失礼ね」
「褒め言葉です」
リシェルは肩をすくめた。その拍子に、髪がふわりと跳ねる。イリスは何も宣告せず、残った指でそっと毛先を直した。
「今、寝ぐせって言わなかったわね」
「言葉を選びました」
「成長したのね」
「リシェルも、隠し菓子を先に申告できれば成長です」
「見えてたの?」
「正確に見ています」
ヴェラが保存菓子を一つ取り出した。損傷した二本の指では、硬い菓子を割るのも難しい。それでも彼女は力をかけすぎず、時間をかけて三つに分けた。
大きさは、ばらばらだった。
「均等分割に失敗しました」
「いいの」
リシェルは一番小さな欠片を取る。ヴェラは考え、いちばん大きな欠片をリシェルの手へ重ねた。
「姫様には、こちらを」
「それじゃ均等じゃないでしょう」
「今日は、均等より渡したい方を選びます」
イリスが自分の欠片を半分に割り、ヴェラへ足した。
「では私は、調整したい方を選びます」
三つの欠片は、最後まで不揃いだった。リシェルは笑い、二人も少し遅れて笑った。
リシェルは両手を差し出す。ヴェラは壊れかけた手で、今度は迷わず握った。イリスも反対側から指を重ねる。
「ねえ。明日も、一緒にいてね」
「もちろんです」
「一生は不確定です。ですが、可能な限り長く」
「二人とも、そういうところは真面目なのね」
リシェルは泣きそうになって、それでも笑った。
「じゃあ、私も可能な限り、明日を生きる」
朝の光が焼けた宮殿を照らす。かつて嫌いだった金色は、今は違って見えた。完璧な王国も、完全な救済も、永遠の命もない。ただ、傷つき、間違え、いつか死ぬ人間たちがいる。そして隣には、心を持ち始めた機械仕掛けの女騎士たちがいる。リシェル・ヴァルハイトは立ち上がった。聖母でも神敵でもない。
亡国の姫であり、ただの少女であり、いつか終わる人間だった。それでよかった。
彼女は二人の手を握ったまま、朝の瓦礫の中へ一歩を踏み出した。不完全な明日へ。
三歩目を踏み出した時、リシェルだけが立ち止まった。
「姫様?」
空から、声がした。
人間の声ではない。ヴェラやイリスと同じ、聞こえないはずの機械の声だった。閉じた感応路の外側へ、旧文明の《ANIMA回線》が直接接続している。
――全人類接続個体 ANIMA第五十八世代を確認。
――神化拒否を観測。回収計画を第二段階へ移行。
朝焼けの雲の向こうで、夜空に残っていた星が一つ、赤く瞬いた。星ではない。帝国が燃えた夜から三人を見続けていた、旧文明の観測衛星だった。
イリスが空を走査し、初めて言葉を失う。ヴェラは半壊した身体で剣を抜いた。
「何がいるの?」
リシェルが尋ねると、イリスはかすれた声で答えた。
「一機ではありません。月の裏側から、同じ信号が次々に起動しています」
赤い点が二つ、三つ、十、百と増えた。やがて夜明けの空に、巨大な環が浮かび上がる。
最後に届いた声だけは、機械音ではなかった。リシェルと同じ年頃の少女の声だった。
――見つけた、私の続き。
――今度こそ、あなたを永遠にしてあげる。
世界は、不完全な明日を選び直した。
けれど、リシェルを『人間のまま』にはしておかない者たちが、空の外から迎えに来ようとしていた。
ここまで読んでくださった皆様へ。
『心が読める亡国姫は心の読めない機械仕掛けの女騎士たちにだけ救われる』を、第20話まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
人の心が読めるリシェル。
命令に従うために造られながら、自分の意思を見つけていくヴェラとイリス。
正しさを信じるあまり、誰かの心を置き去りにしてしまった人々。
彼女たちの物語を書きながら、私自身も何度も問い直しました。
人を救うことと、人を思いどおりにすることは、同じなのだろうか。
間違いをなくせば、人は幸せになれるのだろうか。
そして、誰かの痛みを理解したとき、人は本当に変われるのだろうか。
リシェルが選んだのは、誰もが正しくなる世界ではありませんでした。
誰もが他人を理解できる世界でもありません。
たった一秒、隣にいる誰かの痛みを知ること。
それでも相手を傷つける人がいると認めること。
それでもなお、自分たちで選び、失敗した責任を引き受けること。
不完全なまま、生き続けること。
それが彼女の出した答えでした。
この物語で描きたかったのは、完璧な人間の姿ではありません。
迷いながらも、自分で選ぼうとする姿です。
誰かに答えを決めてもらうのではなく、自分の足で立つこと。
誰かを守るために、その人の意思まで奪わないこと。
そして、相手を理解しきれなくても、隣にいることを諦めないこと。
もし、リシェルたちの旅のどこかに、皆様自身の経験や、大切な誰かの姿を見つけていただけたなら、作者としてこれ以上うれしいことはありません。
この物語は、まだ終わっていません。
リシェルたちが選んだ未来には、まだ知らない世界があり、向き合わなければならない相手がいて、答えの出ていない問いが残されています。
彼女たちがこれから何を選ぶのか。
ヴェラとイリスは、どんな自分になっていくのか。
そして、世界は彼女たちの選択を受け入れることができるのか。
その続きを、いつか皆様にお届けできることを願っています。
最後に。
数ある物語の中から、この作品を見つけてくださったこと。
時間を使って、一話ずつ読み進めてくださったこと。
そして、リシェルたちの旅に心を寄せてくださったこと。
そのすべてに、心から感謝いたします。
本当に、ありがとうございました。
またいつか、彼女たちの旅の続きをお届けできる日を願って。
・・・ところで、”赤の女王伝説”をご存知ですか?
宿院




