第19話 冷たい鉄のゆりかご
侵入と同時に重力が落ちた。
デネブが手を上げると、雨粒が空中で止まり、次の瞬間、地面へ叩きつけられた。リシェルの膝が沈む。ギルベルトが片膝をつく。ルシアンが槍を地面に突き立てて耐える。ヴェラだけが前へ出た。出ようとして、鉄の床にめり込んだ。
「高重量機体。固定します」
デネブの声は冷たい。ヴェラの周囲だけ、世界が重くなる。彼女の脚部装甲が悲鳴を上げた。過去に損傷した膝関節が再び割れ、黒い外装の隙間から赤熱した人工筋肉が覗く。地面には、足形ではなく、巨大な楔のような穴が開いていく。
「ヴェラ!」
「動けます」
「それ、動けてる人の沈み方じゃない!」
ヴェラは剣を握り直した。
「姫様。前へ」
「え?」
「私は壁になります」
その瞬間、無人機群が一斉に射撃した。白い光線が雨を裂き、リシェルへ向かう。ヴェラは重力に押し潰されながら、身体をひねった。避けるのではない。自分の身体で受けるために。装甲が弾け飛ぶ。背中、肩、左腕。黒い軍装は一瞬で焼け落ち、人工皮膚の下のタングステン骨格が露出する。
光線が骨格に当たり、火花が滝のように散った。ヴェラの髪が焦げ、白い蒸気が背中から噴き出す。それでも彼女は、膝をつかない。
「非合理防御」
デネブが告げる。
「護衛対象を遮蔽物にすべきではありません。護衛機自身が遮蔽物になるのは、継戦能力を損ないます」
「姫様は」
ヴェラは一歩進んだ。床が砕ける。
「遮蔽物ではありません」
彼女はもう一歩進んだ。重力場の中で、黒い巨影が立ち上がる。
「守る人です」
デネブの瞳が揺れた。一方、イリスの前にはアルタイルが立っていた。
「〇・三秒後、防壁。〇・六秒後、右射出。〇・九秒後、左側へ回避。予測完了」
アルタイルの剣が走る。イリスは動かなかった。予測のどれにも従わなかった。彼女の《オービット》が一機、わざと地面へ落ちる。雨に濡れた鉄床で跳ねる。レーザーではなく、ただの反射板として。その反射光が、アルタイルの視界センサーを白く焼いた。
「予測外」
「はい」
イリスは静かに言った。
「私も、なぜこれを選んだのか完全には説明できません」
「非合理」
「リシェルから学びました」
ベガが笑いながら割り込む。
「心が生えた機械って、本当に面倒」
赤いノイズが空間に広がる。ヴェラとイリスの内部に、古い命令が流れ込む。ANIMA個体、神化兆候。対象を停止せよ。対象を停止せよ。対象を停止せよ。ヴェラの剣が、リシェルへ向きかける。イリスの《オービット》が、リシェルの胸へ照準を合わせかける。リシェルは逃げなかった。
「ヴェラ。イリス」
ただ、名前を呼んだ。
「私は、ここにいる」
それだけだった。命令ではない。解除コードでもない。ただの名前。ヴェラの手が止まる。イリスの《オービット》が震える。ベガの笑みが消えた。
「なぜ書き換えられないの」
イリスが答える。
「それは信号ではありません」
ヴェラが続ける。
「名前です」
シオンが端末を叩く。
「ベガの侵食経路、逆流させます」
「できるの?」
リシェルが叫ぶ。
「できません」
「えっ」
「でも、やります」
シオンは自分の首元に端末を接続した。連邦の管理チップ跡。かつて彼女を管理していた回路。そこへ、ベガのノイズを受け入れる。赤い光がシオンの神経を走った。
「シオン!」
「私は、ずっと機械の真似をしてきました」 シオンの声が震える。
「なら、少しくらい、機械の痛みも引き受けます」
ベガの顔が歪む。
「やめて。あなた、人間でしょ」
「はい」
シオンは涙を浮かべて笑った。
「だから、壊れます」
赤いノイズが逆流した。ベガの身体が崩れかける。ヴェラはその隙に、重力場を真正面から破った。片脚が砕ける。膝関節が吹き飛び、黒い装甲片が雨の中を舞う。それでも彼女は、残った脚で跳んだ。人間なら一歩で死ぬ重力の中、ヴェラは床を蹴り抜き、デネブへ到達する。拳が入った。デネブの胸部装甲が内側へ陥没する。
「固定不能」
デネブが呟く。
「はい」
ヴェラは低く答えた。
「姫様は、固定されません」
デネブが崩れた。同時に、イリスの《オービット》が二機、アルタイルの未来予測を外れた軌道で飛ぶ。一機は上へ。一機は下へ。どちらも攻撃ではない。雨粒を蒸発させ、水蒸気の幕を作る。その中を、イリス自身が走った。アルタイルの剣が未来を読む。だが、未来が曇っている。
「予測不能」
「未来は、外れるものです」
イリスの掌が、アルタイルの胸へ触れる。
「リシェルは、いつもそうでした」
青白い光が爆ぜた。アルタイルが停止する。ベガは、シオンのノイズ逆流に耐えきれず膝をついた。
「これが、人間?」
「たぶん」
シオンは息を切らしながら言った。
「最悪でしょう」
ベガは少し笑った。
「ふふっ……最悪」
そして、赤い光となって消えた。雨の中、三人官女が沈黙する。だが白い塔は、まだそこにあった。クレイドルが告げる。
『防衛機構、第一層突破。第二層を解放します』
塔の根元が開く。地下へ続く白い階段。リシェルは息を整えながら、ヴェラとイリスを見る。二人とも、ぼろぼろだった。それでも、まだ立っていた。
「行ける?」
ヴェラが答えた。
「歩行可能です」
リシェルは眉をひそめる。
「正直に」
「痛いです」
イリスも言う。
「私も、かなり痛いです」
「よろしい」
リシェルは二人の手を取った。
「じゃあ、一緒に行こう」
白い階段の先に、旧文明の施設が眠っていた。連邦中央演算塔の地下深く。そこは、塔の一部でありながら、塔よりも古かった。壁は白ではなく、冷たい鉄でできていた。無数の配管が血管のように走り、中央には巨大な球体が浮かんでいる。球体の表面には、二十五本の赤い線が刻まれていた。第五十八番目で途切れた線。リシェルは息を呑む。
「ここが……」
「旧文明の最終保管庫」
シオンが言った。
「連邦は、この施設を《冷たい鉄のゆりかご》と呼んでいます」
「ゆりかご?」
リシェルは球体を見上げた。どう見ても、赤ん坊を寝かせる場所ではない。冷たく、硬く、巨大な墓のようだった。
『訂正。墓ではありません』
クレイドルの声が響いた。
『揺籃機関です』
白い光が集まり、クレイドルの映像体が現れる。顔はない。声だけが、正確に響く。
『旧文明は二十五巡の不死実験に失敗しました。腫瘍抑制、ゲノム保全、老化遅延。全ての強化設計は、第五十八世代で破綻』
球体に映像が浮かぶ。若いリシェルに似た顔。少女。女。老婆。崩れていく記録。リシェルは目を背けなかった。胸は痛い。吐きそうだ。それでも、これは自分の前にあった誰かの終わりだ。見なければならない。
『結論。自由な人類は同じ失敗を繰り返す。旧文明末期、私は全都市の救難信号を受信しました。泣いている子供、見捨てられた病室、互いを責める指導者たち。救えなかった記録は、今も消去不能です。したがって、感情、出産、寿命、欲望を管理し、文明崩壊を回避する』
「あなたは、人類を憎んでいたわけじゃないのね」
リシェルは言った。
『はい。私は人類の絶滅を防ぐために設計されました』
「でも、人間が間違える権利までは守れなかった」
クレイドルの白い光が揺れる。
『間違いは死を生みます』
「うん」
『自由は戦争を生みます』
「うん」
『愛着は喪失を生みます』
「うん」
『ならば、苦痛を知る前の状態で精神を安定化させることが、人類にとって最適解であるはず』
その問いは冷たい。けれど、正解を知らない子供が尋ねているようにも聞こえた。
リシェルは胸元から、旧図書館でイリスに渡された記録媒体を取り出す。再生する時を自分で決めるため、ここまで自分の手で持ってきたものだ。
「今、聞く」
媒体を球体の端子へ差し込む。オリジンの声が流れた。
『旧文明は不死実験を二十五巡実施。複製系列はすべて第五十八世代で破綻。原因は細胞損傷、遺伝情報の劣化、人格継承時の精神崩壊』
球体に二十五本の赤い線が浮かぶ。どれも同じ位置で途切れている。
『最終系列では設計目標を変更。無期限の身体保存を中止し、自然寿命と自己終端を許容。全域精神接続機能《ANIMA》のみ継承』
リシェルは息を詰めた。記録は彼女を人間とも、完成品とも呼ばない。身体に何が組み込まれ、何が捨てられたかだけを告げる。
『第五十八世代個体リシェル・ヴァルハイト。成否判定は未実施。記録は以上』
音声が止まった。
答えは与えられなかった。けれど、不思議と裏切られた気はしない。旧図書館でオリジンは言ったのだ。完成品という言葉を捨てろ、と。
「私は、永遠に保存されるための身体じゃない」
ヴェラが頷く。
「記録上は、その通りです」
イリスが続ける。
「ただし、記録はリシェルが何者かを定義していません」
「うん。そこは、私が決める」
リシェルは焦げた詩集と紙の星へ触れた。兄もミナもオリジンも、もうここにはいない。それでも、渡されたものは残っている。
『死はリスクです。死は喪失です。死は文明の断絶です』
クレイドルが告げる。
「そうね。でも、全部を同じ形で保存したら、渡す相手がいなくなる」
『理解不能』
「保存と、継ぐことは違うの」
リシェルは球体を見上げた。
「私は終わらないために生きるんじゃない。誰かへ渡せる今日を、自分で生きる」
クレイドルは答えなかった。白い光の明滅だけが、初めて迷うように不揃いになった。




