第18話 廃裁判所の二人
白い塔の非常扉から外へ出ると、連邦市街には夜明け前の雨が降っていた。シオンが開けた中枢防壁の穴は、三十七分しか保たない。彼女は追跡を引き受け、リシェルたちへ地下保守路の座標だけを送った。
だが、座標の途中、旧司法区の廃裁判所で白い影が待っていた。天井の落ちた法廷、濡れた証言台、片腕だけになった正義の女神像。そこは、連邦が感情を裁き、宗教国家が自由を裁いた歴史の、どちらにも捨てられた場所だった。
ルシアン・アルディスは聖都の崩壊後、単身で西へ来ていた。二日前、巡礼者の外套で身を隠し、連邦市街を歩いている。教祖を失った民の泣き声を背にしても、彼女はもう「世界のため」とだけは言えなかった。リシェルが向かう先に、もう一つの神がいると知ったからだ。
シオンは濡れた端末を畳み、白銀の騎士を見た。互いに敵だった。互いに誰かの正しさを信じ、その正しさで誰かを傷つけた。武器に手をかけたまま、二人はしばらく雨音だけを聞いていた。
「連邦の士官か」
「ルシアン・アルディス。旧ソル・テオクラシー第一聖騎士。教祖マクシミリアン死亡後、独立行動中」
シオンは顔も上げずに言った。
ルシアンは、ぽつりと呟いた。
「……あの街は、美しかった」
雨音だけが続く。
「道には紙くず一枚落ちてない。怒鳴る声も、泣く子供もいない。全部、綺麗に揃ってた」
「理想的な都市です」
「でも、誰も空を見てなかった」
シオンがわずかに目を細める。
「空、ですか」
「星を探したり、雲を眺めたり……そういう無駄を、誰もしない」
「無駄は、排除されたのでしょう」
「人間ってのは、その無駄のために生きてるんじゃないのか」
シオンは静かに答えた。
「その「無駄」が、戦争を生みました」
「……宗教の話か」
「信仰、愛国、民族意識。感情は、必ず誰かを線引きします」
「だから感情を消した」
「連邦は、そう判断しました」
ルシアンは鼻で笑った。
「愛まで捨ててか」
その瞬間だけ、シオンの呼吸が止まる。
「……愛は、判断を鈍らせます」
「あなたは、誰かを好きになったことがありますか」
沈黙。
雨が、強く屋根を叩いた。
「矯正で、除去されています」
「六歳の子どもが、自分で望むはずがありません」
「記録上は、自発的措置です」
ルシアンは苦く笑った。
「便利な言葉ですね、『記録』というのは。悲鳴まで綺麗に消してくれる」
シオンは視線を落とした。その横顔が、幼く見えた。
「……では、あなたは」
「何だ」
「あなたの信仰は、誰を救いましたか」
ルシアンの喉が詰まる。
「教祖を信じて戦い、多くを守ったのでしょう。ですが同時に、泣いた人もいた」
リシェルの涙が脳裏をよぎる。
あの震える肩。あの、怯えた目。
「……私は」
ルシアンの拳が震える。
「私は、間違えていました」
長い沈黙のあと。
シオンは、小さく言った。
「……私もです」
シオンは静かに端末を床へ置いた。
「クレイドルは、人類を守ろうとした」
薄い画面光が消える。
「ですが、「守る」ために、人間らしさを切り捨てた」
ルシアンは鼻を鳴らした。
「教祖も同じです」
槍を握る手に、力が入る。
「孤独を消したかった。だから自由を奪った」
短い沈黙。
敵同士だったはずの二人が、ようやく同じ場所に辿り着く。優しすぎる理想は、人間を壊す。その事実だけが、二人の間に残った。
「……リシェル様は」
シオンがぽつりと呟く。
「あの二つを、どちらも選ばないでしょう」
「そうでしょう」
ルシアンは小さく笑った。
「あの姫君は、妙なところで頑固ですから」
「非合理です」
「人間は、たいていそういうものです」
シオンは目を伏せた。その言葉を、どこか遠くのものを見るように聞いていた。
「私は、彼女を管理しません」
「私は、彼女を救済しません」
ルシアンは肩をすくめる。
「自分で泣き、自分で笑えばいいのです」
「……それが、自由ですか」
「分かりません。ただ、あの方にはその生き方が似合います」
シオンは息を漏らした。それは、初めて見る笑みに近かった。
二人は立ち上がる。
並びはしない。
ただ、同じ出口へ向かった。
廃裁判所の出口で、ルシアンがふと足を止める。
「正義の女神像、消えてたな」
「記録には存在しません」
「逃げ出したのかもしれません。どちらの正義にも耐えられなくなって」
シオンは少し考え込む。
「……比喩ですか」
「比喩ということにしておきましょう」
外では、雨が弱まっていた。
雲の裂け目から、淡い光が落ちてくる。
ルシアンは槍を担いだ。
「行きましょう」
「はい」
「素直だと気持ち悪いな」
一拍置いて、シオンは言い直す。
「訂正します。同行はしますが、あなたを信用したわけではありません」
「十分だ」
二人は廃裁判所を後にした。
正しさを信じきれなくなった者同士が、
それでも初めて、同じ未来へ歩き出していた。
◇
ラプラス・コアは、雲を突き刺す白い塔だった。窓はない。人間が空を見る必要はないからだ。雨に濡れた白い外壁は、陶器のように冷たく光っていた。その根元に、リシェルたちは立つ。リシェル、ヴェラ、イリス、ギルベルト。そして、ルシアン。シオン。本来なら、同じ場所に並ぶはずのない者たちだった。
「入口は?」
リシェルが尋ねる。シオンが端末を掲げる。
「正面玄関、搬入口、地下保守通路、上層非常経路。成功率が最も高いのは地下保守通路です」
「じゃあ地下ね」
「ただし、下水処理施設を経由します」
リシェルは固まった。
「……正面玄関は?」
「即時射殺です」
「地下でお願いします」
イリスが小さく言った。
「姫様。表情が分かりやすすぎます」
「だって下水よ」
「人類の自由を守る戦いです」
「急に壮大にしないで」
ヴェラが静かに言う。
「必要であれば、私が抱えて通過します」
「余計に恥ずかしいわ!」
ルシアンが真面目な顔で言った。
「私が先行しよう。臭気への耐性は訓練済みだ」
「聖騎士の訓練って何をしてるの?」
「多くは語れない」
「語らなくていいわ」
ギルベルトが咳払いをする。
「殿下。緊張を和らげる会話は結構ですが、敵の中枢前です」
「分かってる。ちょっとだけ現実逃避したかったの」
リシェルは塔を見上げる。白い。冷たい。美しい。そして、何も聞こえない。人間の心の声がほとんどないのだ。塔の中にいる職員たちは、感情抑制を受け、心の波を極限まで平坦にされている。リシェルの能力にとって、それは不気味な静けさだった。
「ここ、嫌い」
リシェルは言った。
「何も聞こえないのに?」
シオンが問う。
「そう。聞こえないのに、静かじゃない。何かを押し殺した後の空気がする」
シオンは小さく目を伏せた。
「連邦の空気です」
その言葉に、誰も返せなかった。リシェルは胸元の紙の星に触れた。ミナの記憶。リオの名前。自分が忘れないと約束したもの。
「行こう」
彼女は言った。
「今度は、逃げるためじゃない。選ぶために」
ヴェラが頷く。
「共に」
イリスも答えた。
「リシェルと共に」
地下保守通路へ降りる直前、塔の外壁に赤い光が走った。
『侵入者確認』
クレイドルの声が、都市全体に響く。
『リシェル・ヴァルハイト。神化リスク継続。護衛機二体。反逆個体シオン・レイ。旧宗教国家騎士ルシアン・アルディス。旧帝国宰相ギルベルト』
リシェルは眉をひそめる。
「反逆個体とか旧とか、言い方が失礼ね」
「事実記載です」
シオンが言った。
「でも、失礼です」
ギルベルトが拳銃を構える。
「来ます」
白い塔の外壁が割れた。中から、無人戦闘機が群れで吐き出される。羽虫のような数。だが一機一機が人間を殺すには十分な火力を持つ。さらにその奥から、三つの影が降り立った。デネブ。アルタイル。ベガ。三人官女。再起動された連邦の機能。シオンの顔が強張る。
「クレイドルが直接制御しています。私の権限では停止できません」
リシェルは一歩前へ出る。
「じゃあ、止めるしかない」
ヴェラが黒い剣を構えた。イリスの残存が青い光を放つ。ルシアンの白銀の槍が雨粒を弾く。シオンが端末を開き、ギルベルトが笑った。
「相手は世界最強の管理知性。味方は亡国の姫、壊れかけのアンドロイド二体、裏切り者の聖騎士、反逆した連邦士官、死に損ないの宰相」
「勝率は?」
リシェルが聞く。イリスが即答した。
「二パーセント以下です」
「言い方を変えて」
「低いです」
「言い方を変えて」
「劇的です」
「それでいきましょう」
リシェルは武器を構えた五人を見回した。
「ねえ。生きて帰れたら、最初に何をしたい?」
ルシアンは空を見た。「星を、誰の教えも介さずに見る」
シオンは考え込み、「甘いものを食べたいです。幸福指数を申告せずに」と答えた。
ギルベルトはため息をつく。「私は一週間、政治をしません」
ヴェラとイリスは同時にリシェルを見た。
「姫様の寝ぐせを直します」
「砂糖菓子の保管場所を再点検します」
「二人だけ現実的すぎるわ」
笑えたのは、ほんの数秒だった。けれど、その数秒が、命令でも大義でもない戦う理由になった。
白い塔の前で、最終戦が始まった。




