第17話 誰かの正解になるな
聖都からの脱出は、勝利ではなく敗走に近かった。マクシミリアンは倒れたが、宗教国家そのものが一夜で変わるはずもない。
リシェルは何度も振り返りそうになった。大聖堂には、自由の使い方が分からない者たちの心が残っていた。
リシェルは崩れたホームに座り込み、ようやく息をついた。
「……私、また逃げた」
ギルベルトが隣に立つ。
「逃げるのは悪いことではありません」
「政治家の発言?」
「死に損ないの実感です」
リシェルは少し笑った。そして、すぐに涙がこぼれた。
「怖かった」
「はい」
「神になれるって、少しだけ思った。全部の声を消せるって、思った」
「はい」
「それが怖かった」
ギルベルトは何も言わない。ヴェラがリシェルの前に膝をつく。
「姫様は、戻ってきました」
「戻れたのかな」
イリスが静かに答える。
「完全には戻っていません」
リシェルは顔を上げる。イリスは続けた。
「ですが、完全に遠くへ行ったわけでもありません」
「中途半端ね」
「はい」
イリスはほんの表情を和らげた。
「人間らしいと思います」
リシェルは泣きながら笑った。
「あなたにそれを言われると、変な感じ」
ギルベルトがふと目を伏せた。
「もう一つ、報告があります。ホスロー殿下の消息と、黒冠教団の記録が見つかりました」
リシェルは焦げた詩集を握りしめた。
「兄様は」
「地下礼拝所で亡くなりました」
ギルベルトは携帯端末へ、崩れた石室の映像を出した。扉の内側には獅子環が差し込まれ、完全に焼きついている。
「教団が殿下を追うため礼拝所を開こうとした際、ホスロー殿下は獅子環で封鎖機構を作動させました。教団員と共に、自らを中へ閉じ込めたようです」
最後の音声記録が、雑音交じりに再生される。
『これは、私が選ぶ。妹の心ではなく、私の心で』
そこで声は途切れた。
胸の奥で、何かが静かに崩れた。兄は自分を捧げようとした。許すことはできない。それでも最後に、黒い声から一つだけ選択を取り戻した。
リシェルは詩集の焦げた表紙へ額を寄せた。
「……馬鹿な兄様」
涙が一滴、古い文字の上へ落ちた。
「兄様の全部を、黒い声に渡さなくてよかった」
ギルベルトは端末に別の記録を表示する。歪んだ冠の装置は、宗教国家よりも帝国よりも古い、旧文明製だった。
「精神暗示の発信元は特定できません。ただ、信号が地上施設ではなく、衛星軌道を経由していた痕跡があります」
リシェルは空を見上げた。夜明け前の星は、何も答えない。
黒い声の正体は、まだ終わっていない。兄を奪ったものは、世界の外側から見ているのかもしれなかった。
遠くで通信端末が鳴った。ギルベルトが起動する。画面に、白い文字が浮かぶ。連邦式の緊急全域命令。イリスの顔が厳しくなる。
「クレイドルからです」
ギルベルトが読み上げる。
「対象リシェル・ヴァルハイト。神化兆候継続。世界安定のため、最優先隔離対象とする」
リシェルは空を見上げた。星が消えかけている。夜明けが来る。でも、そこに救いはなかった。宗教国家の教祖は倒れた。だが、もう一つの答えが残っている。管理。苦しみを消すために、心を数値に変える白い神。クレイドル。端末に新たな音声が流れた。シオンの声だった。
『……リシェル様』
「シオン?」
声だけだった。
『私は、あなたを管理すべきだと教えられました』
「うん」
『今も、それが最適だと判断できます』
「うん」
『ですが』
声がわずかに震える。
『私は、最適でない判断を始めています』
通信が途切れた。ギルベルトが眉をひそめる。
「連邦内部にも亀裂があるようですね」
「シオンは、許せない。……でも見捨てられない。彼女もまた苦しんでいる」
リシェルは言った。
ヴェラは剣の残骸を見た。
「敵は多いです」
イリスは残った《オービット》を格納する。
「勝率は低いです」
ギルベルトが言う。
「それでも、道はあります」
リシェルは皆を見た。ヴェラ。イリス。ギルベルト。遠くで迷い始めたシオン。ルシアン。そして、もういないミナとオリジン。たくさんの人が、リシェルをここまで押し出した。守られた。隠された。傷ついた。怒った。それでも、まだ手を離していない。
「私は、神にならない」
リシェルは言った。それはまだ、最終的な答えではなかった。でも、最初の宣言だった。
「でも、逃げるだけでも終わらない。クレイドルにも、ちゃんと言う。私は私だって」
ヴェラが頷く。
「共に行きます」
イリスも言う。
「リシェルと共に」
ギルベルトは疲れたように笑った。
「では、現実的な作戦を立てましょう。理想だけで勝てる敵ではありません」
「そういうところ、帰ってきた感じがする」
「褒め言葉として受け取ります」
夜明けの光が、廃駅の瓦礫を照らした。冷たい鉄の線路が、西の連邦中央演算塔へ伸びている。宗教国家の神は倒れた。次は、機械の神と向き合う番だった。リシェルは二人の女騎士の手を取った。今度は守られるためだけではない。最後の選択を、自分の足でしに行くために。
◇
パノプティコン連邦中央演算塔は、白かった。壁も、床も、天井も、そこを歩く人間の服も、すべてが白い。埃ひとつない通路。足音を吸い込む床材。感情を乱さない青白色の照明。必要以上に美しいほど、そこには生活の匂いがなかった。シオン・レイは、その中心に跪いていた。
額と首筋と両手首に、細い銀色の端子が接続されている。神経矯正用の拘束具だ。痛みはない。痛みを感じにくいよう処理されている。ただ、頭の奥を薄い刃で削られているような感覚だけがあった。
『個体シオン・レイ。情動ノイズ増加を確認』
クレイドルの声が、頭蓋の内側に響く。
『作戦中の命令遅延。遮断処置不実行。対象リシェル・ヴァルハイトへの感情移入傾向。再最適化を開始します』
「……私は、任務を継続できます」
シオンは答えた。声は平坦だった。平坦にした。
『不正確。あなたはすでに複数回、最適解を選択していません』
「最適解が、常に正しいとは限りません」
言ってから、シオンは息を止めた。連邦士官として、不適切な発言だった。けれど、もう取り消せない。
『最適解は、人類保全における最上位判断です』
「保全された人類は、人間ですか」
白い空間が沈黙した。沈黙というものが演算塔に存在することを、シオンは初めて知った。
『質問の意図が不明です』
「私にも不明です」
シオンは笑おうとして、できなかった。代わりに、瞳から涙が落ちた。熱い。
涙とは、こんなにも熱いものだったのか。
『不要感情の切除を開始』
端子が深く沈む。頭の中に、白い光が広がった。記憶が整理されていく。ノイズ・ネストの食堂。粗末なスープ。リシェルが泣きそうな子供と器を分けた場面。ヴェラが猫に動きを止められていた場面。イリスが損傷したヴェラの腕を丁寧に拭っていた場面。ミナがリシェルへ渡した、折り目の潰れた紙の星。
全部、非合理だった。無駄で、非効率で、危険で、管理不能。なのに、どうして。どうして、あんなに温かかったのだろう。
『シオン・レイ。あなたは正しい社会の構成員です』
「違う」
それは声というより、喉の奥で割れた音だった。
『訂正不能。あなたは連邦規格に適合した統制官です』
「違う……!」
拘束具が警告音を鳴らした。白い環が首筋へ食い込み、神経端子が熱を持つ。痛みは本来、遮断されるはずだった。なのに、痛かった。
『情動上昇。再矯正を強化します』
「私は、正しかったんじゃない」
シオンは震えながら顔を上げた。
「正しくなければ、生きられなかっただけ」
白い空間が揺らいだ。
『感情は誤差です。誤差は文明を滅ぼします』
「知ってる」
『感情は判断を曇らせます』
「知ってる」
『あなたは、苦痛から解放されます』
「知ってるって言ってるでしょう!」
初めて、シオンの声が白い部屋に反響した。自分の声だと、すぐには分からなかった。こんなふうに叫ぶ機能を、自分がまだ持っていたことを知らなかった。
『個体シオン・レイ。言語出力が不安定です』
「黙って」
『再矯正を続行します』
「黙れ……!」
クレイドルは沈黙しない。それは神ではなかった。ただ、すべてを正しく分類する白い箱だった。
『違法共同体の排除は、社会安定上必要でした』
シオンの脳裏に、ミナの顔が浮かんだ。白い光に貫かれる直前、リシェルへ端末を押しつけた少女。怖がっていた。それでも、逃げろと笑った。
――誰かの正解になるな。
「違法共同体じゃない」
シオンの指が震えた。
「あの子には、名前があった」
『対象個体名は任務判断に不要です』
「不要じゃない!」
拘束具がさらに食い込む。首筋を伝って、赤いものが白い襟へ落ちた。それを見て、シオンは笑った。ひどく、下手な笑みだった。
「ああ……そうか」
涙が落ちる。一滴。二滴。白い床に、丸い染みができる。
「私は、ずっと見ないふりをしてた」
『視覚情報の遮断は確認されていません』
「そういう意味じゃない!」
シオンは叫んだ。
「ミナを撃ったのは、連邦じゃない。任務じゃない。最適解じゃない」
胸が痛い。息ができない。こんなものが自分の中にあったのか。こんなものを、六歳の自分は切り捨てたのか。
「私が撃った」
その一言を口にした瞬間、身体中の力が抜けた。だが、崩れなかった。崩れたくなかった。
『罪悪感は不要です』
「違う」
『苦痛は除去できます』
「違う!」
『あなたは苦しまなくてよい』
「私は――」
シオンは、初めて自分の声を聞いた気がした。それは冷静でも、正確でも、優秀でもなかった。ただ、みっともなく震えていた。
「私は、苦しかった!」
白い空間が罅割れた。
「六歳の私も、本当は怖かった! 母に会えなくなるのも、泣かなくなるのも、愛せなくなるのも、全部怖かった! でも、怖いって言ったら不良品にされるから、正しい子のふりをした!」
『情動抑制プロトコル限界値接近』
「私は正しい社会の構成員なんかじゃない!」
シオンは拘束具に爪を立てた。白い指先に血が滲む。
「正しさに隠れて、怖くないふりをして、苦しくないふりをして、人間じゃなくなっていっただけよ!」
『シオン・レイ。停止してください』
「嫌……」
その一言は、小さかった。けれど、シオンの中で初めて生まれた命令だった。誰からでもない。クレイドルからでもない。連邦からでもない。自分から自分への、最初の命令。
「私は、もう正しさの陰に隠れない」
拘束具が砕けた。白い空間に赤い警告が走る。
『情動抑制プロトコル異常』
『個体シオン・レイ、自我逸脱』
『再拘束を――』
シオンは床に手をつき、荒く息をした。涙も、血も、白い床に落ちていた。汚い。非効率。不安定。でも、初めて自分のものだった。
「……非合理って」
シオンは涙を拭った。そして、震える口元で笑った。
「最悪ね……」
その笑みは壊れていた。けれどそれは、シオン・レイが初めて、自分の意思で浮かべた表情だった。
背後で扉が開く。デネブ、アルタイル、ベガが立っていた。三人官女。連邦の機能。シオンは立ち上がる。
「任務を変更します」
デネブが首を傾げる。
「許可は」
「ありません」
アルタイルが言う。
「十二秒後、あなたは反逆者として分類されます」
「もう分類されています」
ベガが楽しそうに笑う。
「壊れたんだ、シオン。いや、今はシオンちゃんかな」
「ええ」
シオンは涙を拭った。
「やっと、壊れました」
彼女は端末を開く。クレイドルの中枢防壁、その一部に、自分の権限で穴を開ける。小さな穴だ。世界を変えるには足りない。だが、リシェルたちが《冷たい鉄のゆりかご》へ到達するためには十分だった。
『シオン・レイ。あなたの行動は非合理です』
クレイドルの声が響く。シオンは静かに答えた。
「はい。ですが、私は初めて、人間らしい選択をします」
白い塔の奥で、遠い扉が開いた。




