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第16話 古い命令

心が広がっていく。リシェルの意思とは関係なく。大聖堂の中だけではない。聖都の広場へ。祈る数十万の民へ。山脈の向こうへ。遠くの連邦回線へ。旧帝国の廃墟へ。人々の恐怖、祈り、怒り、孤独が、濁流のようにリシェルへ流れ込んでくる。痛い。寒い。怖い。助けて。救って。支配して。放っておいて。矛盾した願いが、同時に彼女の中で叫ぶ。リシェルは膝をついた。


「やめて……」


マクシミリアンが目を見開く。


「素晴らしい」


その声には、初めて陶酔が混じっていた。


「やはり、あなたは器だ。私よりも深く、人々の心へ届く」


クレイドルの声が、聖堂内の連邦端末から響く。


『異常拡大。対象リシェル、都市規模精神接続を開始』


シオンが端末の前で立ち尽くしていた。画面には、心拍、脳波、精神波形、すべてが赤く振り切れている。


「このままでは」


『対象は全域接続へ移行する可能性があります。隔離不能の場合、遮断処置を実行』


「遮断とは」


『対象の中枢神経破壊』


シオンの喉が動いた。


「……殺害ですか」


『人類保全のための処置です』


正しい。最適だ。そう思うはずだった。だが、シオンの脳裏にリシェルの声が蘇る。


――あなた、本当は苦しかったの?


シオンの手がまた震えた。大聖堂では、ヴェラとイリスがリシェルへ向かおうとしていた。しかし、二人の内部で古いプロトコルが起動する。警告。神化兆候。守護任務、第二段階へ移行。対象が全人類精神支配へ到達する場合、停止せよ。ヴェラの視界に赤い文字が走る。イリスの演算領域に同じ命令が流れ込む。リシェルが顔を上げた。


「二人とも……?」


ヴェラの手が、剣の柄へ伸びかける。自分の意思ではない。古い命令が、身体を動かそうとしている。イリスの《オービット》が、リシェルへ照準を合わせかける。


「駄目」


イリスが自分で呟いた。


「駄目です」


リシェルは二人を見た。その目に、以前の傷が浮かぶ。


「また、私のことを私抜きで決めるの?」


その一言で、ヴェラの身体が止まった。イリスの《オービット》が震える。ヴェラは歯を食いしばるように言った。


「違います」


イリスも続ける。


「違います。これは命令です。私たちの意思ではありません」


「じゃあ、止めて」


リシェルの声は泣いていた。


「私を止めたいなら、命令じゃなくて、あなたたちの言葉で言って」


ヴェラの内部で、命令が暴れる。神化を阻止せよ。対象を停止せよ。人類保全を優先せよ。だが、それより強く、別の記憶が立ち上がる。砂糖菓子。寝ぐせ。猫。紙の星。焦げた詩集。リシェルが泣きながら「生きて」と言った声。ヴェラは剣から手を離した。自分の指を、自分の意思で開いた。


「姫様」


ヴェラは前へ進む。神化の精神圧に装甲が軋む。


「その力は、あなたを遠くへ連れていきます」


イリスも隣に立った。


リシェルの中で、全人類の声が渦巻く。消したい。黙らせたい。全部ひとつにしてしまえば、楽になる。マクシミリアンが囁く。


「選びなさい、リシェル。神の座を」


クレイドルが告げる。


『統制下へ入れば、苦痛は管理可能です』


ルシアンが血を吐きながら叫ぶ。


「リシェル殿!」


シオンが端末の前で、送信ボタンに指を置いている。遮断処置。押せば、人類は守られるかもしれない。押せば、リシェルは死ぬ。指が動かない。


リシェルは震えながら、ヴェラとイリスを見る。


「……私、どうしたらいいの」


「殿下」


その声を聞いた瞬間、リシェルは泣きそうになった。ギルベルトは生きていた。痩せていた。傷だらけだった。黒い宰相服はもう礼服ではなく、戦場の布切れに近い。それでも、立っていた。


「ギルベルト……?」


「第三隔壁の保守孔へ、第十二工兵隊が爆発の直前に引き込みました。旧排水路から脱出し、東部の避難民列車で国境を越えています」


彼は短く息をついた。


「三度ほど死にかけましたが、そのたびに部下から『殿下へ報告が残っている』と叱られまして」


説明は簡潔だった。けれど、破れた袖の下に巻かれた包帯が、そこに至るまでの長さを語っていた。


「はい」


彼は膝をつかなかった。以前なら必ずそうしただろう。でも今は、膝をつかずにリシェルを見ている。まっすぐに。彼の心が聞こえる。


――生きていた。


――間に合った。


――だが、これはもう、皇女ではない。


リシェルの胸が痛む。


「怖い?」


彼女は尋ねた。ギルベルトはふと目を伏せた。


「はい」


嘘をつかなかった。


「あなたの力が怖い。今のあなたは、人類の外側に立てる」


ヴェラが一歩前へ出る。


「言葉を選んでください」


「選んでいます」


ギルベルトはリシェルを見たまま言う。


「殿下。外側から人類を救う者は、いつか人類を見下ろす」


リシェルは震える。


「私、そんなつもりじゃ」


「分かっています。だから今、言わなければならない」


ギルベルトは手を伸ばした。宰相としてではなく。帝国の道具としてでもなく。一人の大人として。


「戻ってきてください」


「どこへ」


「こちらへ」


その言葉は曖昧だった。でも、リシェルには分かった。人間の側へ。間違える側へ。誰かに傷つけられ、それでも隣に立つ側へ。


「私たちは、あなたに支配されたいのではありません」


ギルベルトは言った。


「あなたと同じ地面で、間違えたいのです」


リシェルの中で、濁流のような心の声が遠のく。ヴェラが右から手を伸ばす。イリスが左から手を伸ばす。ルシアンが槍を支えに立ち上がる。シオンは、送信ボタンから指を離した。クレイドルが告げる。


『シオン・レイ。遮断処置を実行してください』


「……できません」


『理由を』


シオンは画面の中のリシェルを見る。泣きながら、それでも自分で立とうとする少女。


「不明です」


『不明は理由になりません』


「はい」


シオンの声が震えた。


「……でも、できません」


クレイドルは沈黙した。連邦の白い論理に、小さな亀裂が入った。マクシミリアンは、ギルベルトを見て微笑む。


「帝国の亡霊が、まだいたのですね」


ギルベルトは冷たく返す。


「亡霊で結構。死に損ないは、死者の名前を覚えていられます」


「リシェルは世界を救える」


「その世界に、リシェル殿下は残りますか」


マクシミリアンは答えない。代わりに、聖堂全体の祈りが強まる。リシェルの精神接続が再び膨れ上がる。彼女は歯を食いしばる。


「みんな、勝手に私を何かにしないで」


声は小さかった。けれど、確かに届いた。


「聖母にも、神敵にも、管理対象にも、不死の成功体にも」


リシェルは涙を拭う。


「私は、まだ自分が何なのか分からない。でも、分からないまま選ぶ」


その言葉に、オリジンの遺言が重なる。


――それが、生命よ。


リシェルは、全人類へ広がりかけた心を、自分の内側へ引き戻した。激痛。精神が裂けるような痛み。だが、支配はしない。統合もしない。管理にも渡さない。接続は不完全なまま、細い糸として残す。マクシミリアンが初めて、明確に表情を歪めた。


「なぜ拒むのです。孤独は終わるのですよ」


リシェルは荒い息で答える。


「終わらせたくない孤独も、あるの」


マクシミリアンの目が揺れた。その瞬間、彼の心の奥がリシェルに触れた。深い孤独。劣化への恐怖。自分がいつか崩れるという確信。だから彼は、人類をひとつにしたかった。自分が消えないために。ひとりで終わらないために。


「あなたも」


リシェルは言った。


「怖かったんだね」


マクシミリアンの顔から、微笑が消えた。


「黙りなさい」


「人を救いたかったのは、本当だった。でも、あなたは人を一人のまま見られなかった」


「黙れ!」


教祖の叫びが聖堂を震わせた。白い祈りの壁が膨れ上がり、聖騎士たちの心が一斉にリシェルへ押し寄せる。

ルシアンが槍を構えた。


「教祖様」


声は震えていた。


「戦争孤児で一人だった私が、あなたに救われたことは、嘘ではありません」


マクシミリアンがルシアンを見る。


「ならば、戻りなさい」


「……戻れません」


ルシアンは涙を流しながら叫んだ。


「救われた私が、今度は誰かの自由を奪うなら、私はあなたに救われた意味を失います」


白銀の槍が光った。ルシアンが踏み込む。聖騎士たちが阻む。ヴェラが横から突っ込み、黒い装甲の肩で聖騎士を弾き飛ばす。イリスの《オービット》が二機、青い流星のように走り、祈りの結界に穴を穿つ。ギルベルトが叫ぶ。


「殿下! 今です!」


リシェルは自分の心を、ほんのそっと外へ伸ばした。支配ではない。命令でもない。

ただ、マクシミリアンの孤独を、聖騎士たちへ渡した。神の声だと思っていたものの奥にある、ひとりの男の恐怖。誰にも見せたことのない本音。


「私は死にたくない」「忘れられたくない」「消えたくない」「私はまだ生きたい」「私に従え」


それを知った瞬間、聖騎士たちの祈りが揺らいだ。結界が割れる。


ルシアンの槍が、マクシミリアンの胸元を貫いた。


血は少なかった。教祖の身体は、人間でありながら、どこか古い機械のように軋んだ。


「私は……救いたかった」


マクシミリアンが呟いた。


「ええ」


リシェルは言った。


「でも、あなたの救いで人間の魂は救えない!」


マクシミリアンは膝をついた。広場の祈りが崩れていく。同じ声だったものが、ばらばらの泣き声へ戻る。

彼は最期に、ルシアンを見た。


「私を、憎みますか」


ルシアンは首を振った。


「いいえ」


槍を握る手が震えている。


「でも、もう従いません」


マクシミリアンは小さく笑った。


「それが……自由ですか」


「はい」


ルシアンは泣きながら答えた。


「とても、苦しいです」


教祖マクシミリアンは目を閉じた。宗教国家の絶対者は、ひとりの男として終わった。


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