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戻すおつもりで手放したのですか?品物ではないのですけれど  作者: 九葉(くずは)


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10/10

第10話 呼ばれたので

帳面は、年の初めに新しくします。


古いほうは麻の紐で綴じて、帳場の棚の上に上げます。上げた帳面は七年ぶん並んでいて、いちばん端のものは背の革が浮いています。


新しいほうは表紙が硬くて、開くと背が鳴ります。この店の帳面は、最初の頁の裏に持ち主の名を入れる決まりです。


秋の初めに新しくするのは、この店の決まりです。年の初めではありません。船の便が変わる時期に合わせているのだと、ヨナスさんが言っておりました。


ヨナスさんが、新しい帳面とインクの壺を机に置きました。


「見返しを、お願いします」


わたくしは前掛けで手を拭いて、椅子に掛けました。


見返しの紙は、表紙よりも白いものが使ってあります。開いた左側の面に、古い帳面から名を書き写します。ブラント商会。それから、その下です。


古い帳面の見返しには、名前が二つ書いてあります。


一つは十年前の字で、インクが茶色くなっています。書いたのはブラントさんです。書き直していないだけです、と一度おっしゃいました。


写すのをやめようとなさったのは、去年の秋です。やめてよいかと聞かれました。十年、毎年書き写してきた名前です。


亡くなった方の名前は、その方のものです。誰の都合でも消すものではありません。


そう申し上げたとき、ブラントさんは何もおっしゃいませんでした。次の年の帳面には、二つとも写してありました。


だから今年の見返しには、三つ書きます。


商会の名。十年前の名。それから、わたくしの名。


ペンを寝かせて、ゆっくり書きました。セラフィナ・ブラント。姓のほうが、まだ手に馴染みません。市参事会の書付に書いたときは、旧姓のほうでした。あれは届の様式です。名を変えるのは、そのあとの手続きになります。


書き終えて、乾くのを待つあいだ、紙の白いところを見ていました。三つの名前が、上から順に並んでいます。


書く欄があるというのは、こういうことです。


「乾きました」


ヨナスさんが帳面を持ち上げて、背を鳴らして閉じました。それから、こちらへ差し出しました。


「今年は、そちらの手でお願いします」


帳場の帳面を預かるのは、この店では番頭の仕事です。ヨナスさんは分銅の検めと、船の便と、支払いの日を持っています。帳面はそのうちの一つです。


「よろしいのですか」


「目利きが数字を持つと、店は強くなります」


そう言って、分銅の布包みを机の端へ寄せました。分銅のほうは渡す気がないようです。


「ヨナスさん」


「はい」


「帳面をやり直す日は、これからもございますか」


「ありますとも。やり直さない店から潰れます」


帳面を膝に置いて、しばらく持っていました。革の表紙は思っていたより軽うございます。八十枚ほどの紙と、革の表紙。それだけの重さです。


前に一度、これと同じくらいの重さのものを膝に置いたことがあります。あちらは鍵が七本でした。腰に下げると、一日の終わりに骨が痛みました。


外は荷揚げの朝でした。


秋の初めの便が三隻。夏を越した荷は湿りが出やすいので、外す袋も多くなります。赤い麻ひもを結んだ荷が、朝のうちに四つ出ました。四つというのは多いほうです。船主のところへ知らせが行って、値を引くか引き取るかの相談になります。


相談の席には、去年からわたくしも出ています。匂いの話は、嗅いだ者でないとできません。


秤の前に立って、下げ緒をつまみ上げます。


麻を三本撚った紐です。つまむところだけ、指の脂で色が変わっています。撚りが緩んできたので、先月替えました。新しい紐は少し硬くて、支点にするときに指の腹が滑ります。慣れるまで、ひと月ほどかかるでしょう。


竿の端に袋を掛けると重さの分だけ傾くので、分銅を指で滑らせていって、竿が水平になったところで止めます。止まりました。


二年前、この持ち方を知りませんでした。いまは、目盛りを見る前に重さの見当がつきます。


読み上げると、ダーヴィトが復唱して、板に書きつけます。


昼前に、客がひとり来ました。


旅装の男の方です。乗合の船で着いて、その足で店に寄ったという格好でした。年は六十ほど。荷は鞄が一つで、旅装のまま棚のあいだを歩いて、店の中をひととおり見てから、薬草の前で足を止められました。


薬草の棚の前に立って、しばらく札を見ておられました。手を後ろで組んで、腰を少し折る立ち方です。


「これは、どちらの産で」


「北のものです」


「乾かした日が、書いてありますな」


「古いものから使いますので」


その方は、いちばん手前の束を取りました。日付の新しいほうではなく、古いほうです。


「古いほうでよろしいのですか」


「古いほうから使うものと、伺いましたので」


伺いました、という言い方をなさいました。誰から伺ったかは、おっしゃいません。


「量は」


「一束で、四十日ほどかと」


「では、これを」


包んで、紐を掛けてお渡ししました。乾かし方を書いた紙を添えるかと伺うと、結構です、とお答えになりました。


代金を受け取って、釣りを返します。その方は釣りを財布に入れて、それから、包みを胸の前で持ち直しました。


持ち方に見覚えがあります。鞄を膝に置いて船で来る人の持ち方です。


わたくしは何も申しませんでした。その方も、名乗られませんでした。


「よい店です」


「ありがとうございます」


「札が、よい」


札のことをおっしゃる客は、めったにおりません。


戸口のところで一度だけ、こちらを見られました。何かおっしゃりかけて、口を閉じられました。それから、桟橋のほうへ歩いていかれます。


板の継ぎ目で、足が一度止まりました。


船の便は昼です。桟橋の階段を降りて、乗合の船に乗られました。甲板の端ではなく、船室のほうへ入っていかれます。港が見えない側です。


ヨナスさんが帳場から、いまのはどなたです、と聞きました。


「お客様です」


「なるほど」


それきり、その話はしませんでした。


昼を過ぎて、風が変わりました。北から吹くようになると、荷の乾きがよくなります。棚の下の段のものを、上へ戻す時期です。


王都のことは、ときどき港に流れてきます。


商いの話のついでです。北の伯爵家に縁談が二つあって、二つとも決まらなかった。屋敷の采配は、御母堂様がご自分でなさっている。膝の薬は、あちらの当主が春と秋に手配しておられる。


そういう話を、荷主の一人が世間話として置いていきました。


わたくしは、そうですか、と申しました。それ以上のことは思いませんでした。


思わないというのは、忘れるということではありません。数え終わったものは、もう手のかからないものになる、というだけのことです。


夕方、荷が片づきました。


店の裏で、薬草の束を軒に吊るしました。今年の秋の分です。この店で売るぶんですから、十一束ではありません。二十束あります。


麻の紐で二重に縛って、逆さに吊るして、三日目に上下を入れ替え、七日目に外側から一本抜いて茎を折り、ポキリと音がすれば仕舞えます。曲がるなら、あと二日。


同じ手順です。送り先だけが変わりました。


札を書くのは最後です。草の名と、干しはじめた日付を書きます。細く切った紙に錐で穴を開けて、麻の紐を通します。インクは薄めに溶きます。濃いと、紐を通すときに指について、次の札が汚れます。


札の紙の裏に、この店では店の印を押します。押すのはわたくしの仕事になりました。印は帳場の引き出しの上段にあります。木の柄が短くて、握ると手のひらに収まります。


井戸で手を洗って、爪の際をこすりました。緑は二年前と同じで、二日ほど残ります。


ダーヴィトが荷車を戻しに来て、井戸の水を一杯もらっていきました。今日の四袋のことで、船主が明日来るそうです。値の話になれば、わたくしも呼ばれます。


呼ばれる場所が、二年のあいだに増えました。


秋の初めは、日の落ちるのが早くなります。桟橋の板が冷えて、素足では歩けなくなる時期です。


港の家々に灯が入ります。うちの店の二階にも、灯を入れます。


日が桟橋の向こうまで落ちました。


店の表の戸を閉めて、灯を一つ点けます。


ブラントさんが帳面を抱えて、裏口から入ってこられました。机の上に置いて、それからこちらを見られました。


灯の下で、見返しの三つの名前は、もう乾いております。


「セラフィナ。」


呼ばれたので、返事をしました。

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