第9話 お迎えの馬車は、港の外で
婚姻の届に名を書いたのは、その日の朝でした。
市参事会の書付は前の晩に整えてあります。あとは名を入れて、判をもらいに行くだけです。帳場の机に紙を広げて、インクの壺の蓋を開けました。
書く欄は二つ。片方はもう埋まっています。マティアス・ブラント。太い字です。ペンを寝かせて書く人の字でした。
ペンを持つ手が、少し高くなっているのが自分で分かりました。荷を量るときの持ち方です。柄の太いものを握る癖がついています。持ち直して、紙に先を下ろしました。
わたくしは自分の名を書きました。
セラフィナ。それから、姓のところで一度止まりました。旧姓を書く欄です。ヴェルト、と書きました。書き終えて、指が少し痛みました。
屋敷にいたころ、名を書く欄はほとんどありませんでした。返礼にも贈答の目録にも、入れるのは家の名です。最後に自分の名を書いたのは、離縁の書面でした。
「二年ぶりです」
「何がです」
「自分の名を書くのが」
ブラントさんは、紙を持ち上げて、乾き具合を見ておられました。それから、乾いております、とだけ言いました。
書付は、ヨナスさんが朝のうちに市参事会へ持っていってくださいます。受け付けたその日から効くのだそうです。わたくしは前掛けをつけて、荷揚げ場へ出ました。
決めたのは、五日前の夜です。決めてから申し上げたら、ブラントさんは、そうですか、とだけ言って、書付の様式を調べに行かれました。祝いの言葉は、まだ聞いておりません。
荷揚げの朝は、いつも通りに始まりました。
ヨナスさんが分銅を布の上に並べています。月の初めではありませんが、検定所から打ち直しが戻ってきたので、一度見ておくのだそうです。焼印の面を上にして、大きいものから順に。
打ち直しの済んだものには、焼印の横に点が一つ増えています。前に樽の角でへこませたものです。狂った分銅を使った日の帳面は、この店では全部やり直します。あの日の帳面も、やり直しました。
「狂いはありません」
そう言って、分銅を一つずつ布に包みました。
「セラフィナさん」
「はい」
「今日は、竿のほうを頼みます」
秤の前に立って、下げ緒をつまみ上げました。袋を掛けて、分銅を滑らせて、竿が水平になるところを読みます。ダーヴィトが数字を復唱して、荷車の板に書きつけます。
三袋目を量っているときに、船が着きました。
乗合の便です。桟橋の階段を、旅装の客が降りてきます。荷役たちの手は止まりません。止まったのは、階段を降りてきた人の一人が、こちらへまっすぐ歩いてきたときです。
外套を着ていません。手には何も持っていません。
そのうしろから、ゲオルクさんが鞄を持って降りてきました。先月と同じ鞄です。
荷揚げ場の前に、馬車が一台着けられました。港で雇ったものです。この港の馬車には紋章がありません。ただ、扉に布が掛けてあって、その布に銀の地と麦の穂が縫ってありました。
布は新しいものです。屋敷から持ってきて、港で雇った馬車に掛けさせたのでしょう。二年前の春に返した鍵は、その麦の穂の隣に縫ってあります。
停めた場所は、先月の馬車と同じでした。荷揚げ場の手前、荷役の通り道を半分ふさぐところです。
わたくしは、下げ緒から指を離しました。竿が、かたりと鳴って傾きます。
「セラフィナ」
二年ぶりに、その名を、その人の声で聞きました。
「アーベル様」
わたくしはそう申しました。荷役たちが手を止めています。ダーヴィトが炭を持ったまま、こちらを見ています。帳場の窓のところに、ヨナスさんが立ちました。
あの人は、桟橋の板の継ぎ目で一度足を止めて、それからこちらへ来ました。
「船で来た。馬車ではなく」
「そうですか」
「前は、人をやった。それが間違いだった」
五日かかります、と申し上げようとして、やめました。
言葉を選んでいるのが分かります。この人は、話す前に順番を組む人です。組んでいるあいだ、こちらは待つことになります。二年前も、そうやって待ちました。
「薬箱を開けた。札がついていた」
「はい」
「一枚ずつ数えた。三十八枚あった。抜けが一枚もない」
「はい」
「代金も、君の給金から出ていたと聞いた」
「そうです」
「知らなかった。知ろうとしなかった」
風が桟橋の下から上がってきます。潮の匂いが濃くなりました。
数えたのですね、と申し上げようとして、これもやめました。数えたことを褒める立場に、わたくしはおりません。
わたくしは、その人の顔を見ました。二年前より痩せています。目の下に線が入っていました。屋敷にいたころ、この人が疲れた顔をするのは、親族の集まりのあとだけでした。
見たのは、一度だけです。
「二年のうちに必ず戻すつもりでいた。すまなかった、戻ってきてくれ。」
荷役の誰かが、荷車の柄を置きました。木が板に当たる音がしました。それきり、誰も動きません。
わたくしは、前掛けで指を拭きました。
「離縁を言い渡されたのは、応接室でした」
「ああ」
「あの場に、あなたはいらっしゃいませんでした」
その人は、口を開きかけて、閉じました。
「隣の部屋に、椅子の音がしておりました。扉の下に影がありました。あの影が誰のものかを、わたくしは二年、確かめておりません。確かめる機会がなかったからです」
荷役たちは、聞いています。聞かないふりもしていません。
「私だ」
「はい」
自分でおっしゃいました。
「戻すおつもりだったことも、いま伺いました。あの日から数えて、二年と三月です」
「書けなかった」
「書けました。書かなかったのです」
紙は屋敷にあります。ペンもあります。船便は年に何度も出ております。
屋敷を出る朝も、船を待つ三日のあいだも、二年のあいだも。
そこで、その人は一歩、こちらへ出ました。手を上げかけて、途中で止めました。止めた手の先が、秤の竿に触れそうになって、触れずに下ります。
期待を持った顔でした。わたくしが名を呼んだからです。
「もう、他家の者です。」
聞こえたのは、うしろの音のほうが先でした。荷車の柄が板に置かれる音。炭が握り直される音。桟橋の向こうで誰かが低く何か言って、それきり静かになります。ゲオルクさんが鞄を胸の前に持ち上げて、目を伏せておられます。
港の朝に、こういう静けさはありません。荷の音か、人の声か、どちらかが必ずあります。
板の上で、潮の音だけがしていました。
「他家というのは」
「今朝、市参事会に届けが受け付けられました」
「相手は」
「この店の主人です」
「歳は」
「四十六です」
その人は、二十年、と口の中で言いました。
その人は、荷揚げ場を見ました。麻袋の山と、竿秤と、帳場の窓。それから、窓のところに立っているブラントさんを見ました。
ブラントさんは、荷の帳面を開いたままです。数えていた行から目を離しておられません。何もおっしゃいませんでした。
この人がここで一言でも所有を口にすれば、いまの話は男二人の話になります。ならないように、数えておられるのだと思います。
ヨナスさんが帳場から出てきました。布に包んだ分銅を、机の上に置いてからです。
「うちの帳場のご新造さんです。お迎えの馬車は、港の外でお願いします。」
「私は」
「売った品は、買った者のものです。」
商いの言い方でした。この人は、情のこもった話をするときほど、そういう言い方をします。
その人は、何も言い返しませんでした。
雇った馬車の御者が、荷揚げ場の前で手綱を持て余しています。ヨナスさんが顎で外を指すと、御者は馬の首を返しました。車輪が板の上で二度、大きく鳴りました。
あの人は、馬車のほうへは行きませんでした。雇った馬車に一人で乗って港を出るのは、来たとき以上に人目につきます。
桟橋の端まで戻って、そこで一度、こちらを振り返りました。手には何も持っていません。船で来て、何も持たずに帰る人の姿でした。
ゲオルクさんが鞄を持って、そのあとを追いました。
わたくしは秤の前に戻りました。
肩の力を抜くと、腕がいつもの高さまで下ります。朝から、少し上がっていたようです。
三袋目が、掛けたままになっています。下げ緒をつまみ上げると、竿が水平に戻りました。分銅の位置は動いていません。読み上げると、声が出ました。いつもの声でした。
ダーヴィトが数字を復唱して、板に書きつけます。
昼までに、あと十一袋あります。
昼の鐘が鳴るころ、船が桟橋を離れました。
潮が引いて、桟橋の杭に濡れた線が一本残りました。




