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見えない閾値  作者: 灯屋 いと
第2章 情報過多

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9/12

#5 料理という変化

「何食べたい?」

 大学の帰り道で、桐生が訊いてきた。正門を出て銀杏並木を歩いている途中。夕方の光が桐生の長い髪を透かしていて、暁はその横を半歩遅れて歩いていた。いつの間にか、暁の歩く位置は桐生の半歩後ろに固定されている。並んで歩くのではなく、少しだけ後ろ。暁にとってはそれが桐生との適切な距離だ。

 食べたいもの。暁はその問いを受け取って、考えた。暁の中で検索が走る。これまでに食べたものの中から、暁が「不快ではなかった」ものを呼び出していく。学食の日替わり定食。刺身。卵焼き。焼き鳥。枝豆。わらび餅の黒蜜。──そして、カレーライス。暁が自分で選んだ最初の食べ物。学食の券売機でカレーのボタンを押した日のことを暁は覚えている。辛い。温かい。具材の食感がそれぞれ違う。

「……カレー」

 暁はそう答えた。答えてから、自分が答えたことに何も思わなかった。暁にとっては検索結果を返しただけだ。しかしその検索には、暁が意識していない条件が含まれている。暁は「不快ではないもの」の中から選んだのではなく、「もう一度食べたいもの」の中から選んでいた。「もう一度食べたい」という概念を暁は持っていないはずだ。

「カレーね。じゃ、材料買ってくか」

「……材料?」

 暁は桐生を見た。カレーは完成品としてしか暁の中に存在していない。学食で出てきたもの。定食屋や居酒屋で桐生が頼んだこともないもの。茶色のルーが白米にかかっている、完成品。カレーに「材料」があるということは、暁の知っている完成品は何かから変換されて生成されるということになる。暁はその変換テーブルを持っていない。


 スーパーマーケットは、暁にとって未知の空間すぎた。定食屋や居酒屋とは別の種類の情報が大量に溢れている。

 コンビニは暁の学習済みのシステムだ。棚に完成品が並んでいて、金銭と交換する。しかしこの店に並んでいるものは完成品ではない。入口から入ると、まず野菜の棚が並んでいる。

 にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、キャベツ、トマト、ブロッコリー。暁はそれらを見て、食べ物に見えなかった。にんじんは泥がついた橙色の棒であり、じゃがいもは丸い土色の塊であり、玉ねぎは茶色い皮に包まれた球体であり、暁が知っている「カレー」のどこにもこれらの形は含まれていない。

 桐生が買い物かごを取って、野菜の棚の前に行った。にんじんを手に取る。

「これがカレーに入ってるにんじんになるんだよ」

「……これが」

 暁はにんじんを見た。桐生の手の中にある橙色の棒。この物体があの茶色の液体の中に沈んでいたものと同じだとは、暁には結合できない。にんじんの表面には土の粒が付いていて、先端が細くなっている。カレーの中にあるにんじんは橙色の円盤か四角い塊で、この形とはまったく異なる。変換が必要なのだ。この棒を、何らかの手順で変換すると、カレーの中のにんじんになる。暁はその手順を知らない。

 桐生がじゃがいもと玉ねぎを追加してかごに入れる。肉のコーナーに行って豚肉のパックを取る。カレールーの箱を棚から取る。暁はその一連の動作を見ていた。桐生が取ったものの一つ一つが、暁にとっては完成品のカレーとの関連が見えない独立した物体だ。

「暁、気になるのあった?」

 桐生が野菜の棚に視線を向けた。暁はその棚を見た。色とりどりの物体が整列している。赤、緑、黄、紫、白。暁は何かに目を止めた。なぜ目が止まったのかは自分でもわからない。暁の視線が一つの野菜の前で止まっていた。緑色の、小さな木のような形をした野菜。

 暁は手袋をはめた手でそれを指さし「あれ」と返事した。

「それ、ブロッコリーだよ。カレーに入れてみる?」

「……はい」

 桐生が緑の野菜をかごに入れた。暁が指さしたものが、桐生のかごに入る。暁はその光景を見ていた。暁が選んだものが、これから作られるカレーの中に入る。暁の選択が結果に反映される。暁はそのことに名前をつけなかったが、かごの中のブロッコリーを見たとき、暁の視線はしばらくそこに留まっていた。


*****


 暁の部屋で、桐生が料理を始めた。暁の部屋のキッチンは引っ越してきてからほとんど使われていない。蛇口も、コンロも、換気扇も、暁が触ったことのない装置だった。

 桐生が冷蔵庫を開けると、中には水のペットボトルが三本とカロリーメイトの箱が二つ。それだけだ。桐生はそれを見ても何も言わなかった。買ってきたビニール袋をキッチンの台に置いて、中から材料を出していく。

 まな板と包丁を棚から取り出す。キッチンの引き出しにこんなものが入っていたことを暁は知らなかった。入居時に確認していない。暁にとって必要のないものだったからだ。

 とん、とん、とん。にんじんが薄い円盤に切り分けられていく。暁は桐生の横に立って、その動作をじっと見ていた。桐生の手が包丁を握って、刃を下ろして、橙色の棒が形を変えていく。断面から水分が滲んで、まな板の上に橙色の円盤が並ぶ。暁が知っているカレーの中のにんじんに、形が近づいている。

 次にじゃがいもの皮が剥かれた。土色の外皮の下から白い中身が現れる。それを四角い塊に切り分ける。桐生の手の動きは淀みなく、皮を剥く動作も切る動作も滑らかだ。暁は桐生の手を見ている。暁の手は数式を書くためのものだった。桐生の手は数式も書くが、包丁も握れる。同じ手なのに出力が違う。

 玉ねぎを桐生が半分に割ると、中から透明感のある規則的な層が現れた。暁はその構造にわずかに目を見開く。外側と内部の構造が異なる。外皮は茶色くて乾いていたのに、中は白くてみずみずしくて、層が重なっている。桐生が玉ねぎを刻み始めると、暁の目が染みた。

「暁、玉ねぎ目に来る?」

「……少し」

「離れてていいよ」

 暁は一歩下がったが、視線はまな板の上から離れなかった。

 鍋に油が入っている。コンロの火が点く。暁は火を見た。施設のキッチンに入ったことはない。暁の目の前で、青い炎が鍋の底を舐めている。肉が鍋の油の中に入ると、じゅう、と音がした。暁の知らない音だ。続いて野菜が投入される。にんじんの円盤と、じゃがいもの四角い塊と、刻まれた玉ねぎが鍋の中で混ざっていく。水が加えられ、蓋がされると、ガラスの蓋越しに鍋の中で泡が立ち始めた。

 匂いが変わっていく。生の野菜の匂いから、火を通した甘い匂いへ。暁の鼻がその変化を追っている。部屋の中の空気が、暁が知っているどの場所の空気とも違うものになっていた。

「危ないから近づきすぎんなー」

 桐生が振り向かずに言った。暁は一歩下がる。が、目は鍋の中から離れない。にんじんの形がまだ残っている。じゃがいもの角が丸くなっていく。玉ねぎは液体に溶け始めている。暁はその変化を見ていたかった。なぜ見ていたいのかはわからない。ただ、橙色の棒が液体の中で形を変えていく過程が、暁の視界を捉えて離さなかった。

 カレールーが投入される。茶色い塊が熱い液体の中でゆっくり溶けていく。匂いが急に変わった。暁が学食で食べたカレーの匂い。あの茶色のルーの匂いが、暁の部屋のキッチンから立ち上っている。さっきまで橙色の棒と土色の塊だったものが、いまこの匂いを生み出している。

 最後にブロッコリーが入った。暁が指さした、あの緑の小さな木が鍋の中に沈んでいく。


「はい、できた。食べよ」

 桐生がテーブルに皿を置いた。白米の隣に茶色のルーがかかっている。暁の知っている形だ。にんじんの円盤がルーの中に見え、じゃがいもの角が丸くなった塊が沈んでいて、ブロッコリーの緑がところどころに顔を出している。暁が「カレー」と言ったから、桐生がカレーを作った。あの橙色の棒とこの皿の上のものが繋がっている。暁の言葉が、目の前の結果になっている。

 暁はスプーンを手に取った。一口すくって、口に入れる。

 長い沈黙。

 暁はスプーンを持ったまま動かなくなった。口の中でカレーの味が広がっている。学食のカレーとは違う。辛さの裏に野菜の甘みが残っていて、ブロッコリーの食感が他の具材と異なる。にんじんはまだ少し固さがあり、じゃがいもは崩れかけている。さっきまで鍋の中で形を変えていった材料の、それぞれの味が口の中に入ってきている。暁の舌がそのひとつひとつを受け取っていた。

「……おいしい、です」

 暁の声は小さい。いつもの声の輪郭は保っているが、語尾が少しだけ震えている。暁が味覚に名前をつけたのは、これが初めてだった。「不快ではない」ではなく、「おいしい」それは暁の語彙の中に、新しい言葉が生まれた瞬間だ。

「そりゃよかった」

 桐生はくすりと笑って返した。暁にとっての革命が、桐生にとってはただの日常であるような声で。暁は二口目をすくった。三口目。スプーンが止まらない。手袋をはめた手がスプーンを動かし続け、皿が空になるまでの間、暁は一度も顔を上げなかった。

 最後のルーをスプーンで掬い取って、暁はきれいに空になった皿を見た。白い皿の上にルーの跡だけが残っている。カロリーメイトの空き箱を見たときとは違うものが、暁の中にあった。カロリーメイトの空き箱は「摂取完了」を意味するだけだった。この空の皿は、暁にはまだ言葉にできない。ただ、暁は顔を上げて、向かいに座っている桐生を見た。

 桐生は自分の皿のカレーを食べている。暁と同じカレーを。暁が「カレー」と言って、暁がブロッコリーを指さして、桐生が作ったカレーを。桐生が一口食べて、暁の方をちらりと見た。

「おかわりする?」

「……いいんですか」

「まだ鍋にあるよ」

 暁は「はい」と言った。桐生が立ち上がって鍋からもう一杯よそってくれる。暁はそれもきれいに食べた。二杯目のカレーも一杯目と同じ味だったが、暁はそのことを確認するようにゆっくりと食べた。

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