#4 あたたかい温度
居酒屋は、定食屋よりもさらに情報量が多い。壁にも柱にもメニューが貼られ、天井から下がっている短冊にまで文字が書いてある。入口ののれんをくぐった瞬間に油と炭火と醤油の匂いが混ざった空気が暁を包み、暁は一歩目で足を止めた。
視界に入る文字の量。耳に入る人の声と食器の音。鼻に入る匂い。情報量が暁の処理能力を超えかけている。
「見なくていいよ。暁って情報量多いとすぐ固まるよね」
くすりと笑いながら桐生は暁の肩に触れないぎりぎりの距離で脇を通り過ぎて、奥の席に向かう。暁はその背中に付いていった。この判断はもう暁の中で自動化されている。桐生に任せれば暁が止まることはない。それは何度も実証された手順だった。
奥の掘りごたつの席に座ると、桐生が壁のメニューを見ながら注文を始めた。暁は正面に座って、桐生が口にする料理名を聞いている。暁の知っている料理の中に時々、知らない単語が混ざるが、桐生が選んでいるのだから判断する必要はない。
料理が次々と運ばれてくる。枝豆。皮を剥いて口に入れると、豆の甘みが広がる。初めてだが、不快ではない。出汁巻き卵。卵焼きよりも柔らかく、出汁の味が強い。既知。味の変化は誤差範囲内。焼き鳥の塩。塩の結晶が唇に触れる。鶏の脂が口の中で溶ける。既知だが、今回の焼き鳥は種類が単一。鶏肉とねぎのみの構成。
「暁、枝豆食えるんだな」
可食部分ではない皮を取り除くという手順が料理にしては効率化されていないと枝豆の皮を剥いて暁が咀嚼していると、桐生が意外そうに言ってきた。
「不快ではありません」
「不快ではない、ね。そりゃよかった」
桐生が少し笑う。暁は枝豆をもうひとつ剥いた。
テーブルを埋める料理の種類が多かった。学食の定食よりも、前回の定食屋よりも。暁は一品ずつ受け取りながら、不快でないものと不快なものを分類していく。暁の中にそのリストが、意識的にではなく、蓄積されていっている。
「一杯くらい飲んでみる?」
桐生がグラスを暁の前に置いた。透明な液体が入っていて、氷とレモンの切れ端が浮かんでいる。
「……これは」
「レモンサワー。アルコール入ってるけど、薄いやつ」
アルコール。未知の飲みもの。外食の時、暁はもっぱらウーロン茶を飲んでいた。水の方が慣れているのだが、定食屋も居酒屋もメニューに水はなく暁が困惑していると桐生がウーロン茶を選んでいた。
暁は手袋をはめた手でレモンサワーのグラスを持ち上げた。冷たい。指先に結露の水滴が手袋越しに伝わった。ウーロン茶のグラスよりも冷えている。一口飲む。
苦い。酸っぱい。舌の先がぴりぴりする。暁はレモンサワーの味覚を処理した。不快の方向に近い。しかし、飲み込んだ後に、喉の奥から胸のあたりまで温かくなる感覚があった。温かいというのとも少し違う。内側から広がっていく熱。食べ物の温かさとは異なる種類の温度だ。
「……苦いです。でも……変です。身体が……」
暁は自分の胸のあたりに手袋をはめた手を当てた。施設で覚えた言葉の中に、この感覚に対応するものがない。
「酔ってるんだよ」
「酔う?」
暁は首を傾げる。桐生の言葉は暁の知らないものだ。
「アルコールが回ってんの。もうやめとけ?」
桐生がグラスを引き取ろうとしたが、暁はもう一口飲んでいた。二口目は苦みの奥にある酸味を先に感じる。舌がさっきと違う順番で味を拾っている。同じ液体なのに、一口目と二口目で入力が変わる。暁はその変数の差異に引っかかりを覚えながら、三口目を飲んだ。桐生が「おい」と声を掛けたが、グラスの中身は半分以上なくなっていた。
しばらくすると、暁の身体に変化が出始めた。頬に色が差している。目元がとろんとして、瞬きの間隔が長くなっている。暁自身はその変化を把握できない。桐生が暁の顔を見て、そっとグラスを暁の手から引き取った。今度は暁は抵抗しなかった。
「そう、ですか……」
暁の声がいつもと少し違う。口調は崩れていない。ただ、音の輪郭がぼやけている。言葉を組み立てる手順に、暁の意識ではなく身体の側に、遅延が生じている。語順は正しいが、間が長い。一つの文を完成させるまでに、普段よりも多くの呼吸が入る。
「わかん……ない、です。これは、なんですか。身体が、いつもと……」
「酔ってるんだって。初めてでしょ」
「初めて……はい」
暁の身体がゆっくりと横に傾いた。掘りごたつのテーブルに肘をつこうとして、距離を見誤っている。桐生が正面から立ち上がり、テーブルの短辺を回って暁の隣に座り直した。暁はその移動を認識していない。視界が揺れていて、桐生がどこにいるのかが曖昧になっている。気がつくと、さっきまでテーブルの向こうにいたはずの桐生が隣にいた。
「水飲みな」
桐生がコップを暁の前に置く。暁は手袋をはめた手でコップを取ろうとしたが、指先が滑る。桐生がコップを支えて、暁の手に持たせてくれた。手袋越しに桐生の指が暁の手に触れたが、暁はそれを認識しなかった。頬が熱い。手袋の中の手が温かい。施設では暁の身体がこんな風に暁の制御を離れたことはなかった。
暁の身体が、さらに桐生の方へ傾いた。桐生の腕に、暁の肩が触れる。暁はそれに気づいていない。
もたれかかっているという認識が発生していない。身体が重くなって、隣にあるものに寄りかかっただけ。暁にとってそれは重力の問題であり、接触の問題ではなかった。暁の「自分から触れてはいけない」という手順は意識的な接触を禁じている。無意識の接触は手順の対象外だ。対象外であるということは、暁はそれを検知しない。
桐生は暁を押し返さない。暁の肩が桐生の腕に触れたまま、掘りごたつの席でしばらくそのままでいる。桐生は残りの焼き鳥を片手で食べていた。暁の重みを支えている方の腕を動かさずに。
*****
帰り道の暁の記憶は曖昧だった。居酒屋を出て、駅に向かって、電車に乗って、そのあたりから暁の記憶には断裂がある。
気がつくと、桐生のアパートの部屋にいた。六畳一間。壁際に本棚があり、物理の教科書とSF小説と、暁が借りて返した本と同じシリーズのものが並んでいる。デスクの上にはノートパソコンとマグカップ。窓際にベッドがあり、その手前に桐生が座っている。暁は部屋の中央で床に座っていた。
「遅くなったし、泊まってけよ。明日講義ないでしょ」
桐生がタオルを一枚差し出してきた。暁は「はい」と受け取る。頭がまだぼんやりしている。アルコールの残りが身体の中で鈍く回っていて、暁の思考の速度がいつもより遅い。
桐生が立ち上がって洗面所に行った。水の音がする。暁は借りたタオルを膝の上に置いて、部屋を見ていた。桐生の部屋。桐生の持ち物。暁がいつも講義室で見ている桐生の鞄が、デスクの横に置いてある。桐生のノートがデスクの上に開いたまま残っていて、暁の位置からは数式の一部が見える。暁の数式とは違う書き方。物理の記号体系で書かれた式。暁はそれを見ていたが、酔いのせいで読解するだけの処理速度が出なかった。
桐生が戻ってきた。暁は手袋をはめた手でタオルを握ったまま、床の上で横になろうとした。
「床で寝んの?」
「……はい」
「ベッドの方がいいでしょ」
桐生が布団の横のベッドを指さす。暁は首を横に振った。
「床で大丈夫です」
暁の判断基準は酔っているが明確である。ベッドは桐生の場所だ。暁がベッドに入れば桐生との距離が近くなる。暁には「自分から触れてはいけない」という手順を身体に刷り込まれている。ベッドで眠れば、寝返りで桐生に接触する確率が高まる。床であれば、その確率は物理的に低い。ベッドと床の高低差が障壁になる。
これは性別の気まずさではない。暁にとって性別の概念は区別だ。男同士で同じベッドに寝ることが社会的にどう認識されるかという知識を暁は持っていない。ただ、自分から触れることへの抑制が、暁の行動を決定している。施設で刷り込まれた手順。暁はそれを疑ったことがない。
桐生は暁を見て何か言いかけたが、結局言わなかった。代わりに毛布を一枚出して床に敷いてくれた。暁はその上に横になる。頬に毛布の起毛が触れる。桐生の部屋の匂いがする。暁はその匂いを特定の語彙で表現できなかったが、講義室で桐生の隣に座ったときに微かに感じた匂いと同じ匂いだった。
食事の後の満腹感と、残ったアルコールと、毛布の温度が暁の意識を速やかに沈ませた。眠りは深い。暁はその日、施設を出てから初めて、カロリーメイトを一度も口にしないまま一日を終えた。
*****
朝。
暁が意識を取り戻したとき、最初に感じたのは温度だった。背中に温かいものがある。腰のあたりに重みがある。暁はゆっくりと目を開けた。
床ではなかった。ベッドの上にいる。白いシーツの上に暁の身体が横たわっていて、隣に桐生がいる。桐生の腕が暁の腰のあたりに回っている。暁の背中は桐生の胸に密着していて、桐生の呼吸が暁の後頭部の髪を揺らしている。暁の手袋をはめた手は、胸の前で組まれている。桐生に触れないように。寝ている間も、暁の手は桐生から離れた位置にあった。
「……なぜ、ここに」
暁は呟いた。小さな声。喉がまだ乾いている。桐生はまだ眠っている。深い呼吸のリズムが暁の背中に伝わってくる。
暁は自分がどうやってベッドの上に移動したのか、記憶がなかった。床で横になって、毛布を被って眠った。そこで暁の記憶は途切れている。その後に何があったのかを暁は知らない。暁が眠った後、桐生が床で丸くなっている暁を見て、毛布ごと持ち上げてベッドに移した。暁はそれに気づかないまま眠り続けた。暁はその経緯を知らない。知る手段もない。なぜここにいるのかを誰かに訊くという手順が、暁の中にはまだなかった。
桐生の腕が暁の腰に回っている。桐生が抱えている。暁は触れられている側だった。
離れた方がいい気がする。
暁の中に、漠然とした判断が浮かんだ。明確な理由はない。規則に照らし合わせた結論でもない。ただ、離れた方がいい気がする、という曖昧な何かが暁の中にある。暁はその曖昧さを分類できなかった。分類するための枠組みが暁にはない。この状態が何に当たるのか、暁は知らない。
離れた方がいい。そう思った暁は身体を動かそうとする。──動けなかった。
温かいからだ。桐生の腕の重みが暁の腰にかかっていて、背中に伝わる体温が暁の全身を包んでいる。桐生の呼吸のリズムが暁の身体に伝播して、暁の呼吸もゆっくりになっている。施設では誰にも触れられたことがない。十八年間。一度も。人間の体温を身体で受け取るという経験を、暁は持っていなかった。いまそれが暁の背中全体に押し寄せてきている。触れられている。桐生に触れられている。暁はそのことを受動として受け取っていた。自分から触れたのではない。桐生の腕が暁を抱えている。暁は抱えられている側だ。
暁の手が。手袋をはめた手が、桐生の腕に向かって僅かに動いた。触れるか触れないのか、そのぎりぎりの距離で止まる。暁の中で「離れた方がいい」という判断がまだ残っている。でも身体が動かない。温かい。桐生の体温が暁の背中から全身に広がっていて、暁の身体から力が抜けている。
離れた方が。
三度目にその判断が浮かんだとき、暁の目はもう閉じかけていた。桐生の腕の温度と、呼吸のリズムと、シーツの匂いが暁を引き留めている。暁の手は桐生の腕に触れないまま──触れているのかいないのか──その一ミリの距離を保ったまま、止まっている。暁はまた眠りに落ちた。
手首のスマートウォッチの小さな画面で、時刻が静かに進んでいた。暁の心拍数と、体温と、接触時間が、暁の知らないところで記録され続けている。




