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見えない閾値  作者: 灯屋 いと
第2章 情報過多

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7/12

#3 好き嫌い?

 暁が桐生に誘われて行った定食屋は、学食よりも情報量が多かった。駅前の雑居ビルの一階の古ぼけた店。引き戸を開けると醤油と出汁の匂いが暁の鼻に入ってきた。壁一面に手書きのメニューが貼られている。

 学食の券売機には写真があったが、ここにあるのは文字だけだ。「もつ煮」「なめろう」「〆さば」「アジフライ」暁が意味を結合できない単語が所狭しと並んでいる。テーブルには醤油差しと七味唐辛子と箸立て。暁は壁のメニューを見たまま動かなくなった。

「見なくていいよ。適当に頼むから。ま、色んなもん食べてみよ」

 桐生が軽やかに言って、カウンターの前の席に暁を座らせる。暁は桐生に従ってそのまま座った。桐生に任せればいいという判断が暁の中で自然に成立している。いつからそうなったのか、暁は把握していない。学食で二択を出してもらっていた頃の延長線上に、いつの間にか「桐生に任せる」という手順が加わっている。暁はそれを意識的に選択したわけではない。ただ、桐生が選んだものを暁が食べて、これまで一度も困ったことがない。その実績の蓄積が、暁の中で「桐生に任せる」を自動化していた。

 料理が次々と運ばれてくる。刺身の盛り合わせ、焼き鳥の盛り合わせ。黄色い卵焼きが切り分けられ、規則的に並んでいる。小鉢にはほうれん草のおひたし。桐生が「これは刺身。生の魚。こっちは卵焼き」とひとつずつ名前を教えてくれた。暁は教えられた名前と目の前の料理を照合しながら、箸を伸ばしていく。

 刺身を一切れ口に入れた。冷たい。施設の食事にも魚はあったが、生で食べたことはない。舌に触れる感触がなめらかで、咀嚼すると奥から甘みのようなものが滲む。暁はそれを飲み込んで、もう一切れ取る。学食の焼き魚とは構造が違う。火を通していない分、食感が異なり、味の出方も異なる。暁は魚の状態差異を受け取りながら、次の料理に箸を移した。

 卵焼きは甘かった。噛むとじゅわりと出汁が広がり、卵の層と層の間から液体が滲み出してくる。暁は黙って食べた。焼き鳥は塩味で、鶏肉を噛んだときの弾力が暁の顎に伝わる。しかし、見た目の違う別の焼き鳥は同じ塩味でも食感、味ともに違った。ほうれん草のおひたしは冷たくて、ゴマの粒が歯に触れた。

 問題はその後に来た。

 桐生が「これも食ってみる?」と差し出した小皿。緑色の塊が載っている。ねっとりとした質感。暁は匂いを先に受け取った。鼻の奥を刺すような、これまでの料理のどれとも異なる匂い。暁はその匂いを情報として受け取ったが、匂いと味の相関データが暁にはなく、判断を保留して箸で一つ取り、口に入れた。

 噛んだ瞬間、暁の表情が動いた。眉が歪む。口元が引きつる。

 粘り気のある食感が舌に張りつき、口の中に広がる匂いと味が暁の身体に拒否反応を起こさせる。反射的に咀嚼が止まり、飲み込むか吐き出すかの判断に一秒かかる。──飲み込んだ。飲み込んだが、暁の眉は元には戻らなかった。口元の引きつりもしばらく残ったまま。暁の顔の筋肉が、暁の意思とは関係なく動いた。十八年間、施設の中でほとんど動いたことのない表情筋が、不快の信号に反応して初めて起動した。

「……二度目は、なくていいです」

 暁はそう言う。嫌い、という語彙がない。不快、とも言えなかった。「これをもう一度口に入れたい」の否定を、暁は自分の持っている語彙で組み立てた結果の、消去法的表現。暁なりの精一杯の「嫌い」だった。

「お前いま顔動いたよ」

 桐生が隣の席から箸を止めて、暁を見ていた。穏やかな目の中に、何か、暁がまだ名前をつけられない色がある。

「……顔?」

「すっげえ嫌そうな顔した」

「……していません」

「した。めちゃくちゃした」

 桐生の声にからかいの響きがあるのかどうか、暁には判断できない。ただ、桐生が事実を述べている口調であることは暁にもわかる。桐生は暁の顔が動いたと言っている。暁は自分の顔が動いたことを知らない。施設の居室には鏡がなかった。暁は自分の表情を確認する手段を持っていない。表情が動いたかどうかを検証するには、外部の観測者が必要だ。桐生がその観測者だとして、暁には反証のデータがない。

「自分の顔は見えないので、確認のしようがありません」

 暁が正論を返すと、桐生はふっと息を漏らすように笑った。否定されたことを気にしている様子はない。むしろ、暁にはその「むしろ」の先がわからなかったが、桐生の目の色が少しだけ明るくなったように見えた。

 桐生は暁の皿の上から何も言わずに、緑色の塊をそっと自分の皿に移した。暁はそれを見ていたが、何も言わなかった。


*****


 それ以降、桐生は暁の前にさまざまな食べものを並べるようになった。

 居酒屋や定食屋で、桐生が頼んだ料理の中から暁に一口ずつ試させる。暁が眉を歪めるもの。反応がないもの。咀嚼が少しだけ遅くなるもの。桐生は暁の反応を見て、次に何を出すかを変えている。暁はそれに気づいていない。

 らっきょうは二度目がなかった。丸ごと一つ口に入れた瞬間に暁の眉が歪み、酸味と独特の風味に口元が引きつる。暁は飲み込んでから「これも、二度目はなくていいです」と言った。桐生は「了解」と返して、暁の前からそれを退けた。

 わさびは暁の目を見開かせた。少量を醤油に溶いて刺身につける使い方を桐生は見せなかったのか、意図的にやったのか、桐生が箸先に載せたわさびの塊を暁がそのまま口に入れた瞬間、鼻の奥に刺すような衝撃が走った。暁は反射的に水を取り流し込んだ。涙は出なかったが、目が見開かれたまま数秒間固まった。

「……警告が必要な食品です」

 暁がそう言うと、桐生は声を出して笑う。言い方がおかしかったのかと、桐生が笑うのを暁は見ている。「警告」が不適切な語彙だったのかと考えたが、桐生の笑い方に悪意がないことは暁にもわかった。

 しらすおろしには反応がない。紅生姜は眉が歪んだ。酢の物は暁の口元が少し引きつる。辛いもの、酸味の強いもの、匂いの独特なものに暁の表情筋は反応する。桐生はそれを観察しながら、暁の前に出すものを調整していった。

「暁、辛いの駄目なんだな」

「……駄目、というのは」

「嫌いってこと」

「嫌い、がわかりません」

 暁は正直に答えた。「嫌い」という語彙が暁の中にない。二度目がなくていい、という否定の形でしか暁は不快を表現できない。桐生はそれに追及しなかった。ただ「辛いのはやめとくか」と言って、次からは暁の前に辛いものを出さなくなる。暁はそのことを特に意識しなかった。しかし、暁の前に並ぶ料理から辛いものが消えていったことを、暁の身体は受け取っていた。暁の意識が追いつかない場所で。


 甘いものに暁が反応したのは、桐生がデザートに頼んだ黒蜜のかかったわらび餅を暁の前に置いたときだった。

 小さな白い皿の上に、半透明のぷるぷるした塊が三つ並んでいる。薄い黄色の粉──きな粉が散らしてあり、黒蜜がかかっている。暁はそれを見て、食べ物であるという判断はできたが、どういう味がするか予測はできなかった。

 箸で一つ取ると、どうやってもきな粉がテーブルの上にこぼれる。不安定な塊をなんとか口に入れた。

 ぷるぷるした食感が舌の上で崩れて、甘い液体が口の中に広がる。暁の箸が止まった。止まったが、不快で止まったのではない。不快のときは眉が歪む。今回は違う。暁の肩からほんの少しだけ力が抜けた。顎の角度がわずかに下がり、咀嚼がゆっくりになっている。暁の身体が、不快とは反対の方向に反応している。

 暁自身はそのことに気づいていない。桐生も、たぶん、気づいていない。

 暁の表情が「不快」のときに見せた明確な歪みに比べて、この変化はあまりに微かだった。肩の力が抜けたこと。咀嚼が遅くなったこと。顎が下がったこと。そのどれもが、暁の意識に上がらないほど小さな身体の変化で、外から見ていてもほとんどわからない。

 暁はわらび餅をもう一つ取った。黒蜜ときな粉が唇に触れる。甘い。さっきと同じ味。同じ食感。暁はそれを飲み込んで、三つ目に箸を伸ばした。三つ目も口に入れて、咀嚼して、飲み込む。皿が空になった。

 暁は箸を置いて、空の皿を見ていた。白い皿の上に黒蜜の跡ときな粉が残っている。暁はその皿をしばらく見ていた。何を見ているのか、暁自身にもわからない。皿は空だ。食べ終わった。それだけのことなのに、暁の視線がその皿から離れない。

「もう一皿頼む?」

 桐生が訊いてきた。暁はしばらく間を置いてから、首を横に振る。

「……いえ。大丈夫です」

 大丈夫だと言った。言ったが、暁の視線は空の皿からなかなか離れない。暁は自分が何を見ているのかわからないまま、箸を置いた。

 帰り道、暁は定食屋から駅までの道を歩きながら、口の中に残っている黒蜜の甘さを舌の上で確認していた。もう味は消えかけている。消えかけているのに、暁の舌はそれを探している。暁はそのことに気づいていない。

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