#2 選択
学食に通うようになった。正確には、桐生が暁を学食に連れていくようになった。
講義が終わると桐生が暁に「飯行こ」と声を掛けてくる。暁は「はい」と返して付いていく。拒否する理由がないから付いていくのであって、暁の中に積極的な動機があるわけではない。ただ、券売機の前に立ったとき、桐生が隣にいると暁の指が止まらなくなっていた。
「肉と魚どっち?」
桐生が訊き、暁は券売機の画面を見る。メニューは十種類以上あるが、桐生がそれを二つに絞ってくれる。二択であれば暁にも判断ができた。十の選択肢に圧倒される暁の前で、桐生はいつも同じことをする。全体の中から二つだけを取り出し、暁の前に並べる。
「……魚で」
「了解」
桐生がボタンを押す。暁はその横で、毎回なぜ「魚」を選んだのか自分でもわからないまま食券を受け取る。判断の根拠を暁に問われても答えられない。ただ、二つのうちの一つを指さした。それだけのこと。
日が経つにつれて、暁の指は動くようになっていった。桐生が二択を出さなくても、暁は自分でボタンを押せる。ただし「日替わり定食」のボタンしか押さない。日替わり定食。暁にとっての安全圏。何が出てくるかは日によって違うが、構造は同じだった。白米、汁物、おかず、小鉢。日替わり定食の構造を暁は学習しており、学習済みであれば暁は対応できる。未知の構造に足を踏み出すだけの理由が、暁にはまだない。
毎日、同じボタンを押す。毎日、同じ構造の食事が出てくる。暁はそれを一品ずつ食べて、トレーを返却口に持っていく。桐生は向かい側で自分の食事を食べながら、暁のトレーの上をちらりと見ていることがある。暁はそれに気づいていない。
ある日のことだった。券売機の前に立って、暁の指がいつもの「日替わり定食」のボタンに伸びかけて、止まった。
止まった理由は暁自身にもわからない。暁の視線が券売機の画面の、別の場所を見ていた。カレーライスの写真。茶色いルーが白米にかかっている。暁は一度、このカレーを学食で食べたことがある。最初に桐生が押してくれた定食のカレーバージョンではなく、メニューの独立した一品として桐生に勧められた。あの日、暁の口の中に広がった辛さと温かさの記憶が──暁はそれを「記憶」と認識していなかったが、指先を定食のボタンから逸らしていた。
「……今日はカレーにしてみます」
暁は自分でそう言って、カレーライスのボタンを押した。食券が出てくる。暁はそれを取って、隣にいる桐生を見た。桐生は何も言わなかった。暁を見て、少し、ほんの少しだけ、口元が動いている。笑っている、のかもしれない。暁にはその表情の名前がわからなかったが、桐生の顔に否定の気配はない。暁はそのまま食券を持ってカウンターに向かった。
カレーライスが出てきた。スプーンですくって口に運ぶ。辛い。温かい。具材の食感がそれぞれ違う。じゃがいもは崩れかけていて、にんじんは固さが残っている。定食とは別の構造をした食事だ。暁は黙って食べ続ける。日替わり定食の安全圏から一歩だけ足を踏み出した日のカレーは、暁の中で特別な意味を持たなかった。暁自身にとっては。
*****
数週間が経った頃、桐生が暁に本を差し出してきた。
講義後の、いつもの席。他の学生が退室していく中で、暁と桐生だけが残っている。この構図もいつの間にか定着していた。その中で桐生が一冊の文庫本を机の上に置いた。
「読むなら置いてくよ」
暁はその本を見た。タイトルを読む。科学哲学の入門書だ。トーマス・クーンの『科学革命の構造』を噛み砕いた解説本。暁は施設で数学の教材しか与えられたことがない。数学以外の本が暁の手元に来るのは初めてだった。
暁は文庫本の表紙をじっと見ていた。手袋をはめた手を伸ばしかけて、一瞬だけ止まる。
自分のものではないものを受け取ること。
施設では、暁に与えられるものはすべて施設のものだった。暁の所有物は存在しない。この本は桐生のものだ。桐生のものを借りるという手順を、暁はまだ実行したことがない。
「……読みます」
暁は手袋をはめた手で本を受け取っている。桐生は「じゃあまた」と言って席を立って講義室を出て行く。暁はしばらくその本の表紙を見ていた。軽い。カロリーメイトの箱よりも軽い。暁の鞄の中にこれまで入っていたのは数学のノートとシャープペンシルだけ。そこに数学ではないものが加わった。
マンションに帰って、暁は桐生から借りた本を読み始めた。ページをめくる速度は速い。文章の構造を解析して内容を取り出すこと自体は暁にとって数式を読むのと変わらない。ただ、数式と違って答えが一つに収束しない。パラダイムシフト。通常科学。反証可能性。暁が施設で教えられた数学は一つの正解に向かって一本道を歩く構造をしていた。この本に書かれている世界では、正解そのものが変わる。科学者の集団が「正しい」と信じている枠組み自体が覆る瞬間がある。暁はその概念を受け取って、拒否反応を示さなかった。理解に時間がかかるが、拒否ではない。知らなかったことを知るという作業は、暁にとって意味のある手順だ。
翌日、もう一冊。桐生が「こっちも面白いよ」と言ってSFの文庫本を置いていった。暁はそれも読んだ。現実には起こりえない設定の中で、人間が選択を迫られる物語。暁はその構造に、数学の証明とは異なる種類の論理が走っていることに気づき、ページをめくる手が何度か止まった。
次の講義で暁は桐生に本を返した。
「……面白い、と思います」
暁はそう言った。「面白い」桐生が最初の会話で三度使った言葉。暁はその単語を桐生の語彙から借りている。暁の中に「面白い」の実感があるわけではない。ただ、この言葉を使えば暁の中で起きたことの一部が桐生に伝わるのではないかという予測が、暁の知らないところで形成され始めていた。
「どのへんが?」
桐生が訊いてきた。暁は少し間を置く。いつもなら訊かれたことに事実を返すだけだから、暁の返答に間はない。しかし今回は、暁の中で言葉が組み立てられるのに時間がかかった。数式であればすぐに書ける。数式ではないもので何かを伝えようとしている。暁はその不慣れな作業に取り組んでいた。
「……正しいと思っていたことが、正しくなくなるところです。僕の数学では──数学では、一度証明されたものは覆りません。でもこの本では覆ります。その……仕組みが、面白い、と」
うまく言い切れていない。暁自身もそう感じていたが、それ以上の言葉が出てこない。桐生は暁の言葉を聞いて、今度ははっきりと笑った。
「じゃあ次のも持ってくるよ」
暁の本棚に数学以外の本が入り始める。暁の語彙に数式以外の言葉がまだほんの僅かだが、蓄積され始めている。暁はそのことに気づいていない。
*****
暁が桐生から借りた本は、数週間で五冊になった。
科学哲学の入門書が二冊。ポパーの反証可能性について書かれたものと、クーンのパラダイムシフトについて書かれたもの。SF小説が二冊。短編集と、長編が一つずつ。それから、エントロピーについて書かれた一般向けの解説書。
暁は部屋で毎晩、桐生から借りた本を読んだ。ベッドの上に座って、手袋をはめた手でページをめくる。読む速度は速い。文章の論理構造を追うこと自体は暁にとって数式を読むのと変わらない。しかし、数式と違って、本の中には暁が翻訳できない部分がある。登場人物が何かを「感じる」場面。決断を迫られて「迷う」場面。暁はその箇所でページをめくる手が遅くなる。数式には迷いがない。定義があり、定理があり、証明がある。しかし小説の物語の中の人間は、証明のない状態で選択をしている。暁はその構造を理解しようとしたが、理解と実感の間には暁の知らない距離がある。
桐生の本棚から暁の手元に移動してくる本は、暁の世界を少しずつ広げていた。暁はそのことを認識していない。ただ、数学のノートを閉じた後に本を開く時間が、暁のルーティンの中に組み込まれ始めている。施設にいた頃、暁が夜にすることは数学の問題を解くことだけだった。いま暁の夜には、数学と桐生の本がある。
講義のたびに暁は桐生に本を返し、感想を言おうとした。最初の「面白い、と思います」から、暁の感想は少しずつ長くなっている。
「この本の著者は──科学は客観的だと言っていますが、客観的であるためには観測者の枠組みが必要で、その枠組み自体が主観で構成されています。矛盾しているのではないですか」
暁がそう言ったとき、桐生は少しだけ目を見開いた。前に暁が「面白い、とは」と訊いたときと同じ反応。暁にはその目の動きの意味がわからないままだが、桐生が次に言った言葉は暁の中に残った。
「それ、そのまま物理でも同じ問題があるんだよ。観測者が系に含まれるかどうかで結果が変わる」
「観測者が系に含まれる……」
「量子力学の測定問題。観測すると状態が変わるってやつ。暁の数学だとどう扱う?」
暁は考えた。数式が暁の頭の中で走り始める。観測者を系の外に置く場合と系の中に含める場合で、数学的な扱いが変わる。暁はそのことをノートに書き始めた。桐生が隣でそれを読んでいる。暁の数式を読める人間が、暁の横にいる。暁が書いたものに応答を返してくる。
暁はノートに式を書きながら、途中で手を止めた。桐生を見た。
「……桐生さん」
暁が桐生を呼んだ。声に出している。暁はこれまで桐生のことを「桐生さん」と呼んでいたが、それは桐生に対して発する呼びかけではなく、暁の中の識別子にすぎなかった。いま暁は桐生に向かって、注意を引くために意図的に名前を声に出している。暁が書いた式を見てもらうために。暁の中で、桐生を呼ぶという行為が、暁の意志で発動した。
「ん?」
「この式の……ここから先が、物理の基底でどう降りるかわからないんです」
「見せて」
桐生が暁のノートを覗き込む。暁は桐生の顔が近づいたことにほんの一瞬だけ、何かが動いた気がしたが、それを無視した。正しくは無視したのではなく、認識する前に通過してしまった。暁の意識にその一瞬が存在しない。




