#1 また、いる
翌週の群論の講義で、桐生はまた暁の近くにいた。隣の列の二つ前。前回と同じ距離ではないが、暁が最後列の端に座って壁に背を預けたとき、斜め前方の視界の端に髪の長い後ろ姿が入る位置。暁はそれを認識した。
また、いる。ただそれだけの認識にすぎない。暁は桐生の存在を意識しているのではなく、視界に入った情報を受け取っているだけだ。椅子の色が目に入るのと同じことだった。
時間になり、講義が始まった。教員がホワイトボードに群の表現に関する定義を書き出していく。暁はノートを開いて、手袋をはめた手でシャープペンシルを取った。教員の板書を写すのではなく、暁は自分の頭の中で走っている式をノートに落としていく。板書の定義を受け取り、暁の中にある数学の体系と照合し、自然な経路で先に進む。暁のペンは教員の板書よりも速く動いている。
演習問題の時間。前回と同じ構造の問題。暁は問題文を読んで、二秒で方針を立てる。表現論の枠組みで持ち上げて、写像を構成して、降ろす。前回と同じアプローチだ。前回、桐生に「きれいだけど現実じゃ使えない」と言われた解法。暁はそのことを覚えている。覚えてはいるが、他の解法を暁は持っていない。施設で与えられたのは数学の教材だけで、物理の文脈で数学を使うという手法は知らない。暁に選べる道は一本だけだ。
ただ、暁は前回の桐生の指摘を反芻していた。「観測量に対応する基底を選ぶと、ちゃんと物理の結果が出る」暁はその言葉の論理構造を理解している。理解はしているが、暁の手が書き出すのはやはり純粋数学のアプローチだ。降ろす先を変えるには、物理の基底を知っている必要がある。暁はそれを知らない。知らないことを解決するには、知っている人間に訊くしかない──暁の中でその結論が出たとき、暁の視線は斜め前方、桐生の後ろ姿に向いていた。
ペンが止まる。暁は自分の視線の行き先に気づいて、ノートに目を戻した。
演習終了。暁がペンを置くと、前回と同じよう横から声が来た。
「やっぱりそっち行くんだ」
桐生が暁のノートを覗き込んでいる。前回と同じ角度。前回と同じ穏やかな声。いつの間にか桐生は席を移動してきていた。演習時間のどこかで隣の列に座り直したのだろう。暁はそれに気づいていなかった。
「表現論で持ち上げてから降ろすの、暁の癖だよね。きれいだけど、降ろす先がまた数学に戻ってる」
「……はい。物理の基底を選べないので」
暁はそう答えた。事実だ。暁の唯一の出力手段は数式であり、その数式の言語体系には物理の語彙が含まれていない。桐生の指摘は正しいが、暁にはまだ修正の手段がなかった。
「……なぜ、物理の基底に降ろすと結果が変わるんですか」
暁は桐生に訊く。前回は質問にまでたどり着けず、「使えない」の指摘を受け取るだけで終わっている。今回は暁の中に「なぜ」が発生した。知らないことがあるとき、知っている人間がここにいるのだから訊けばいい、その経路が暁の中で開通しつつあった。
「物理の基底ってそんな難しくないよ。ハミルトニアンの固有ベクトルを選べばいい。エネルギーの固有状態に降ろすんだ」
桐生が暁のノートの余白を指で示しながら言った。暁は桐生の指先を目で追い、示された場所に自分の式変形を照合していく。なるほど。エネルギーの固有状態に降ろせば、暁の抽象的な解が物理的な意味を持つ解に変換される。暁はその変換の道筋をノートの余白に書き出していった。
「……こうですか」
「そう。合ってる」
桐生がうなずいた。暁はノートを見ていたが、ふと別の疑問が走る。
「……では、基底の選び方で解の意味が変わるのは、数学ではなく物理の構造のためですか。数学の側にはその制約がないのに」
桐生の手が止まった。ノートを指していた指が空中で静止する。暁はその動作の停止を検知したが、何が桐生を止めたのかは読めない。桐生の目の中に何かが動いている。前回、暁が「面白い、とは」と訊いたときにも見えた光。暁にはまだ名前のないもの。
「……暁、いますごくいい質問した」
「いい質問?」
「うん。物理にとっての正しさと数学にとっての正しさが違うってことに、暁は気づいてる」
暁はその評価を受け取ったが、何が「いい」のかはわからない。暁は事実を述べただけだ。数学には基底の制約がない。物理にはある。それは暁が式を書いてみてわかった差異であり、暁にとっては観察結果にすぎない。
暁は自分が書いたノートの式に視線を落とす。表現論で持ち上げて、物理の基底に降ろした解。暁のきれいな数式が、桐生の物理の言葉を経由して、現実に接続されている。
数式の話をしている間だけ、暁と桐生のあいだに会話が成立した。
暁の唯一の出力手段である数式が、桐生に届く。桐生はそれを読んで、物理の言葉で返す。暁はその返答をまた数式に翻訳し、そこからまた「なぜ」が出てくる。施設では、暁が書いた数式を読む人間は誰もいなかった。暁の出力は常に空に向かって放たれ、返ってくるものはなかった。いま、桐生がそれを受け取って、返している。返ってきたものの中に知らないことがあれば暁は訊く。訊けば桐生が答える。暁はその構造を「会話」と認識していたわけではないが、ただ、自分の出力に応答があるという状態が暁にとっては新しかった。
講義が終わった。暁がノートを閉じて鞄に入れようとしたとき、桐生がまだ隣にいた。桐生は自分のノートを鞄に突っ込んで、伸びをしている。窓から入る午後の光が桐生の横顔を照らしていて、髪の先が少し光っている。暁はそれを見ていたが、見ていることに意味はない。視界に入っているだけだ。
「飯食った?」
桐生が暁の方を向いて訊いてくる。飯。食事のことだろう。暁はまだ今日の昼食を摂っていない。いつもなら講義の前にコンビニでカロリーメイトを買うが、今日は棚に在庫がなかった。水だけを買って講義に出た。
「……いいえ」
「腹減ってんじゃん。食堂行こ」
桐生が立ち上がったが、暁は桐生を見上げたまま一秒ほど動かなかった。
食堂。学食。券売機。
あの、暁が敗退した場所。暁の中でその記憶がひとつの塊として浮かんだが、しかし暁はそれを「嫌だ」とは思わなかった。嫌という語彙がまだない。ただ、あのシステムに再び向き合うことについて、暁の中に何の準備もない。
「……食事とは、いつ必要なのですか」
暁は訊いた。純粋な疑問である。施設では決まった時間に食事が配膳されていた。六時、十二時、十八時。暁はその時刻に食堂に行き、用意されたものを食べるだけでよかった。ここでは食事の時刻を自分で判断しなければならない。空腹を感じているが、空腹と食事のタイミングが暁の中で接続されていない。空腹は身体の信号であり、食事は外部から供給されるイベントだ。その二つを自分の意思で繋ぐという手順が、暁にはない。
桐生が暁を見ている。目の中に何かが動く。前にも見た変化だったが、暁にはまだそれが何なのか読めない。桐生は立ち上がっていて、鞄を肩にかけようとしていた手が止まっている。暁はその動作の停止を検知したが、なぜ桐生が止まったのかは暁の分析の範囲外だった。桐生はその一瞬の後に、さらりと切り替えた。
「腹減ったら食うんだよ。いま減ってる?」
「……はい」
「じゃあ行こ」
桐生が歩き出し、暁は立ち上がって、その背中に付いていった。拒否する理由がない。暁の判断基準は常にそこにあった。拒否する理由の有無。理由がなければ、暁は提示された手順に従う。
講義棟を出て、キャンパスの中を歩く。暁がいつもカロリーメイトを食べているベンチの前を通り過ぎたとき、暁の歩く速度がほんの一歩分だけ落ちた。暁にとっての安全圏。あのベンチで、あの箱を開けて、水を飲んで、粉っぽい塊を咀嚼する。それが暁の学習済みの食事だ。いま暁はそこを通過して、学習していない場所に向かっている。
学食に入ると昼の混雑はピークを過ぎていて、席はまだ埋まっているが券売機の前の列は短くなっていた。暁は券売機の画面を見たが、前回と同じメニューが並んでいる。カツ丼、カレーライス、ラーメン、日替わり定食。写真。暁の判断基準になる数値はない。暁の指がボタンに触れずに止まりかけた、その瞬間に桐生が横から手を伸ばしてきた。
「日替わり定食でいいよ」
ぽん、と軽い音でボタンが押された。食券が出てくる。桐生は自分の分の食券も続けて買い、暁に食券を渡した。暁はそれを手袋をはめた手で受け取る。
桐生が代わりにやってくれた。暁が止まる前に。暁が券売機を前に固まるのを予測して、その手前で介入してきたかのように。暁はそのことに気づいていたが、それについて何かを感じることはなかった。
カウンターに食券を出すと、トレーに定食が載って出てきた。白米、味噌汁、焼き魚、小鉢のおひたし。暁はトレーを持って桐生の後に付いていき、窓際の二人がけの席に座った。桐生は向かい側に座っている。窓から差し込む午後の光を暁は横顔に受け、黒い髪の端が光を受けて少し茶色く透ける。暁はそのことを知らなかったが、向かいの桐生の箸を持つ手が一瞬だけ止まっていた。
暁はトレーの上を見ていた。湯気が味噌汁の椀から立ち上っている。焼き魚の表面が光を反射していて、大根おろしが白い小さな山を作っている。暁はその光景を情報として受け取ったが、情報量が多すぎて全体を一度には処理しきれない。カロリーメイトの箱には必要な情報が数値で整理されていた。このトレーの上には数値情報の整理がない。色と形と温度と匂いが、ばらばらに暁の中に入ってくる。
「……これは、なんですか」
暁は味噌汁の椀を指さして訊いた。施設でも味噌汁は出されていたが、暁はそれを「味噌汁」と呼んだことがない。施設の食事には名前がなかった。配膳されたものを摂取する。それだけの手順に名前は必要ない。
「味噌汁。大豆から作った味噌を出汁で溶いたやつ。温かいのが普通だよ」
「温かいのが、普通」
暁はその言葉を反復した。温かいのが普通。施設の食事が温かかったのかどうか、暁は思い出せない。温度を記憶する習慣がなかった。
箸を取った。箸の使い方は施設で覚えている。暁は味噌汁の椀を手袋をはめた手で持ち上げて、一口飲んだ。
液体が口の中に広がった瞬間、暁の動作が止まった。
椀を持っている手が止まっている。口の中に味噌汁が入っている。温かい。液体の温度が舌に触れ、口蓋に広がり、喉を通っていく。温かい。暁は温かいという感覚を知らなかった。施設の食事にも味噌汁はあったはずだが、暁はそれを「温かい」と認識した記憶がない。施設の食事は栄養摂取の手順であり、温度は手順の一部ではなかった。いま口の中にあるこの液体は、暁の舌と口蓋と喉に同時に「温かい」という信号を送ってきている。暁はその信号を受け取って、言葉にしようとした。
「……これは」
暁は椀を見た。茶色の液体の中に、白い豆腐とわかめが浮いている。湯気が暁の顔に触れる。
「温かいんですね」
暁の声はいつもの暁の声の形を保っていた。ただ、語尾がほんの少しだけ遅れて、間が空いている。暁自身はその間に気づいていない。
「うん。ご飯は温かいよ」
桐生は何でもないことのようにさらりと返した。暁にとっての発見が、桐生にとってはただの当然だった。その温度差を暁は認識できない。
暁はもう一口、味噌汁を飲んだ。椀を置いて、白米を箸で取る。
「……これは」
「ご飯。白米。米を炊いたやつ」
「米」
「うん。日本の主食」
暁は白米を口に入れた。温かい。粒が一つ一つ柔らかくて、噛むと甘みが広がり、カロリーメイトの粉っぽい食感とは全く異なっていた。暁は飲み込んで、焼き魚の皿に箸を向けた。
「……こっちは」
暁が焼き魚を指さすと、桐生は少し笑っている。
「焼き鯖。焼いた魚。大根おろしと一緒に食うと美味いよ」
「大根おろし」
「白いやつ。大根をすりおろしたもの」
暁は白い小さな山を崩し、箸で切り分けた焼き魚と一緒に口に入れた。大根おろしが少しだけ辛い。しかし、魚の脂と混ざると辛さが引いて別の味になる。暁はその変化を口の中で受け取りながら、向かい側の桐生を見た。桐生は自分のカツ丼を食べながら、暁のトレーをちらりと見ている。暁が箸を動かすたびに、桐生の視線が暁のトレーの上を通過する。暁はそれに気づいていない。
桐生が暁の食べる姿を見ていることを。桐生の箸が何度か止まっていることを。暁は桐生の動作の停止を検知できる位置にいたが、自分の食事に集中していてそちらを見ていなかった。
トレーの上のものが全部なくなった。小鉢のおひたしの汁まで暁は飲んでいた。
向かいの席で、桐生がまだカツ丼を食べている。暁は空になったトレーの上の食器を見ていた。何かが足りないとも、満たされたとも思っていない。ただ、暁の中で「カロリーメイト」と「定食」が二つ並んで、比較の対象になっている。比較結果については、暁にはまだ該当する言葉がない。




