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見えない閾値  作者: 灯屋 いと
第2章 情報過多

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#6 金平糖の差異

 金平糖を暁が初めて見たのは、講義の後だった。

 演習問題の時間が終わり、周囲の学生が帰り支度を始めている中で、桐生がふと小さな透明の袋を鞄から取り出してた。袋の中に色のついた粒がいくつか入っている。桐生がその中から一粒つまみ上げて、窓からの光にかざした。角のたくさんある、小さな球体。色は薄い黄色で、光を透かすと中心が少し濃い。表面に突起がいくつもあり、一つ一つの突起の大きさと位置が不規則だった。

 暁は桐生の指先にあるそれを見た。

「それは、なんですか」

「金平糖。砂糖の結晶」

 桐生はその粒を指で回しながら、暁に向けた。指先の角度を変えるたびに、光の反射が変わる。

「核になる芥子粒の周りに砂糖液をかけながら回転させて結晶を成長させる。釜の中で二週間かけて転がし続けて、一粒ずつ。角の位置も大きさも制御できない。核形成の初期条件のゆらぎで全部決まるから、同じ形のやつは存在しない」

「物理ですか」

 桐生の説明を聞き、暁は呟く。

「そう。結晶成長。非平衡プロセス。核形成理論。砂糖の過飽和溶液中での表面エネルギーの最小化と、重力と回転の相互作用で角が生える。なぜ角が生えるかの厳密な説明は、まだ完全にはされてない」

 暁は桐生の指先の金平糖を注視していた。数学には美しい構造がある。しかしそれは抽象の中にある美しさで、暁の目の前にあるその小さな粒は物理的な実体を持っている。触れることができる。食べることができる。砂糖の結晶でありながら、その形が理論で完全には説明されていない。暁の知らない領域の話だが、桐生が語る声は講義中の教員の声よりも暁の耳に入ってきた。

 桐生の声が金平糖の物理を語るとき、声の中に暁が識別できない色がある。教員の声にはないもの。暁はその色の名前を知らない。

「食べてみる?」

 桐生が金平糖を暁の前に差し出す。暁は手袋をはめた指で一粒受け取った。小さい。指先に角の突起が触れる感触が手袋越しに伝わる。暁はそれを口に入れた。甘い。

 舌の上に載せた瞬間に、砂糖の甘さが広がる。角が舌に触れる感触がある。暁は噛まなかった。舌の上に置いて、溶けていくのを待った。角が丸くなっていくのを舌で感知する。砂糖が唾液に溶けて、甘い液体が口の中にゆっくりと広がっていく。わらび餅の黒蜜と同じカテゴリに分類される味。暁の中で「不快ではないもの」のリストに金平糖の味が加わった。

 金平糖が完全に溶けきるまで、暁は噛まなかった。なぜ噛まなかったのかは暁にもわからない。ただ、溶けていく過程の方が、暁は理由を言語化できないが、噛んで砕くよりもよかった。


*****


 翌日。暁は自分の部屋のパソコンで「金平糖」を検索した。

 昨日桐生が聞かせてくれた金平糖の物理より先に販売店のリストが大量に出てくる。和菓子店、百貨店、通信販売。暁は画面をスクロールして、東武百貨店池袋店の地下に和菓子の専門店があることを確認した。金平糖の専門コーナーがある。目的地が決まる。池袋。丸ノ内線で行ける。暁は経路を調べ、所要時間を計算した。片道三十分。乗り換えなし。一本道。

 暁は自分が何をしようとしているのか、明確に言語化してはいなかった。金平糖を買う。桐生に渡す。そこまでは手順として組み立てられている。なぜ渡すのかという問いには、暁の中で答えが返ってこなかった。ただ、桐生が金平糖の構造を語っているときの声と、「食べてみる?」と差し出してきた指先と、舌の上で溶けていった甘さが、暁の中に残留していた。残留しているデータに対して暁は何らかの出力をしなければならない、そういう判断すら言語化されていないまま、暁は翌朝ひとりで家を出た。

 初めてのひとり外出である。通学以外の目的で、暁が一人で外に出るのはこれが初めてだった。コンビニに行くのとは違う。距離が違う。未知の場所に行く。暁はマンションのエントランスを出て、最寄り駅に向かった。

 丸ノ内線で池袋に着く。電車は通学で慣れている。乗り方も、降り方も、改札の通り方も学習済みだ。ここまでは問題ない。改札を出た。案内表示に従って東口に出る。

 目の前に大きな建物がある。看板に「西武」と書いてある。

 暁は立ち止まった。

 東武百貨店を探している。ここは東口だ。東口なのだから東武があるはずなのだ。しかし目の前にあるのは西武。暁は情報を照合した。東口。西武。矛盾している。暁は建物の看板を見上げて、それから案内表示を見て、もう一度看板を見た。西武は西にあるべきで、東にあるのは東武のはずだ。暁の論理ではそうなる。

 西口に回った。地下通路を通って反対側に出ると、「東武」と書いてある建物がそこにあった。

 ──東口に西武があり、西口に東武がある。

「……矛盾しています」

 暁は無意識に呟いた。声に出す相手はいない。暁は東西の矛盾を解消しようとした。数学は矛盾を許容しない。公理系に矛盾があれば、その系は崩壊する。しかし目の前の現実は矛盾したまま成立している。東口の西武は営業しているし、西口の東武も営業している。利用者はこの矛盾を気にしていない。

 暁はもう一度東口に戻った。西武の看板を確認する。東口にある。西武なのに東口にある。暁は西口に戻って東武の看板を確認する。西口にある。東武なのに西口にある。三往復した。暁の中でこの矛盾は解消されなかった。論理では解けない。この矛盾は歴史的経緯から生じた命名の問題であり、数学の問題ではない。暁は三往復目にそう結論づけたが、納得はしていなかった。世の中には論理で解けないものがあるということを、暁はこの日、池袋の地下通路で学んだ。


 最終的に暁は西口の東武百貨店に入った。地下に降りる。百貨店の構造は暁にとって完全に未知で、フロアマップを三回確認した。食品売り場のフロアは広く、菓子、総菜、パン、肉、魚、野菜と区画が分かれている。桐生と一緒にスーパーに行ったときの経験が暁の中にあったが、百貨店の食品売り場はスーパーとは規模が違った。

 和菓子の区画にたどり着くまでに十五分かかった。途中で暁は二度、自分の位置を見失っている。フロアマップと現在地を照合して、方向を修正して、歩く。暁はこの作業を黙々とこなしたが、施設の中では一度も経験したことのない種類の移動だった。施設の廊下は角を曲がる回数と方向を覚えていれば目的地に着く。ここでは角が見えない。通路が曲がりくねっていて、棚の配置が暁の予測と合わない。

 金平糖を見つけた。

 ガラスのケースの中に、色とりどりの金平糖が小瓶に分けられて並んでいる。白、ピンク、緑、黄色、紫、水色。桐生が見せてくれたのは薄い黄色の一粒だったが、ここにはこんなに種類がある。瓶の中の金平糖は一粒一粒が小さくて、光を受けて角がきらきらしていた。暁はガラスケースの前で立ち止まって、その光を見ていた。

「何色になさいますか?」

 店員が訊いてくる。女性の声だった。暁はその声に顔を上げた。

「……色」

 暁はガラスケースの中を見た。白、ピンク、緑、黄色、紫、水色。色が違うことは見ればわかる。しかし暁にはそれが選択の基準になる理由がわからなかった。全部、砂糖の結晶だ。桐生がそう言っていた。核になる芥子粒に砂糖液をかけて回転させて結晶を成長させる。色が違っていても結晶構造は同じはずで、暁の中では色は表面的な属性にすぎない。なぜ色で選ぶのか。色が違うと何が違うのか。暁にはその対応関係が存在しなかった。

「……全部、砂糖の結晶ですよね」

 暁は店員を見て訊いた。何が違うのかを暁は訊いていない。何が違うのかという問いそのものが暁の中に立ち上がっていないからだ。暁にとっては色の違いは結晶に混入した不純物の差異程度のことであり、それが選択に影響するという発想がなかった。

「はい、お味がそれぞれ違うんですよ。ピンクはいちご味、緑はお抹茶、黄色は柚子でございます」

 店員がにこやかに説明してくれた。暁はその言葉を受け取った。味が違う。暁はその情報を受け取ったが、意味を接続できなかった。色が違うと味が違う。なぜ。砂糖の結晶なのに。いちご味。暁はいちごの味を知らない。抹茶の味も知らない。柚子が何であるかすら曖昧だった。色と味が対応するという概念そのものが暁の中にない。色は視覚の情報で、味は味覚の情報。その二つがなぜ結びつくのか。暁は店員の言葉を聞いても、ガラスケースの中の金平糖を見ても、何もわからなかった。

 暁はガラスケースの前で動かなくなった。券売機の前で止まったときと同じである。情報は受け取っている。しかしその情報が暁の中のどこにも着地しない。

 店員が暁の様子を見て、少し首を傾げてから笑った。

「よろしければ、お味見していただけますよ」

 店員が小さな紙皿にピンクと緑と黄色を一粒ずつ載せ、暁の前に差し出した。言われるがまま一粒取って口に入れる。それならば暁にもできる。言葉ではわからなかったものを、舌で確かめればいい。

 暁は手袋をはめた指でピンクの粒をつまんで口に入れた。

 甘い。その奥に、知らない味が来た。甘さの後ろから酸味が追いかけてくる。舌の先で酸味を感じ、奥の方では甘さがまだ広がっている。昨日桐生からもらった金平糖にはなかった味だった。暁はその差異を受け取ってから、緑の粒を口に入れる。甘い。今度は苦い。さっきの酸味とはまったく違う。苦みが甘さに重なって、舌の中央から広がり、甘さと混ざりながら消えていく。最後に黄色。甘い。種類の違う酸味が舌の横を刺す。ピンクの酸味とは場所も強さも違っていた。

 色ごとに全部、味が違う。

 暁はそのことを舌の上で知った。同じ砂糖の結晶。同じ形。なのに、三粒とも味が違う。色が違うと味が違う、という店員の言葉がようやく暁の身体を通って意味になった。色の違いは不純物の差異ではなかった。添加されている物質がそれぞれ異なっていて、砂糖の結晶という基盤の上に別の味覚が載っている。暁はそれを言葉ではなく舌で理解した。食べてみなければ、わからなかった。

 暁はそこで止まっている。

 桐生の好みを暁は知らない。桐生がどの味を選ぶかを予測するデータが暁にはなかった。桐生が「面白い」と言うとき、桐生の好みの傾向が暗示されているのかもしれないが、味覚の好みは言語の好みとは別パラメータだ。暁には予測が立てられない。

 しかし、暁は金平糖を選ばなければならない。桐生に金平糖を渡すために、ここに来た。

 暁は自分が口に入れた三つの味を比較した。ピンクの柔らかな酸味。緑の苦みと渋み。黄色の爽やかな酸味。その中で、暁が「不快ではない」と最も強く感じたのは、黄色だった。柚子の酸味が甘さの中で溶けていく感覚が暁の舌に残っている。三つ味わった中で、暁の身体が最も力を抜いたのはこの味だった。

 自分がおいしいと思ったものを選ぶ。暁の中でその判断が立ち上がったとき、暁はそれが何を意味しているのか気づいていなかった。暁の人生で初めて、自分の味覚の好みで何かを選んでいる。それも、自分のためではなく、他者に渡すために。暁の基準で選んだものを、桐生が食べる。暁が「おいしい」と感じたものを、桐生も「おいしい」と感じてくれるかどうか、暁にはわからない。わからないのに、暁はそれを選ぼうとしている。

「黄色をください」

 暁は小さな袋に包まれた金平糖を受け取り、代金を払った。店員が「ありがとうございます」と言った。暁はその声にうなずいて、紙袋を鞄にしまっている。


 帰りの電車の中で、暁の身体に異変が起きた。心拍数が上がっている。手袋の中で手が汗ばんでいる。冷や汗が首筋を伝う。暁は座席に座って、手袋をはめた手で胸を押さえた。鞄の中に金平糖が入っている。黄色い粒が入った小さなガラス瓶。それを持っているだけで、暁の心拍数が平常値から逸脱している。

 ──桐生さんが、おいしいと言ってくれるだろうか。その思考が暁の中に浮かんだ。

 暁はその思考を処理できない。なぜ心拍数が上がっているのか。なぜ手が震えているのか。なぜ冷や汗が出ているのか。身体変化のデータは取得できるが、原因が特定できない。金平糖を買った。電車に乗って帰っている。ここまでの手順に身体が異常反応を起こす要素は、暁の分析では見当たらなかった。

 原因不明。データ不足。暁はそう結論づけたが、心拍数は下がらなかった。電車が揺れるたびに鞄の中で金平糖がガラス瓶の中で小さな音を立て、そのたびに暁の胸の奥が締まった。暁はその身体反応の正体を知らない。スマートウォッチの画面に時刻が表示されている。暁はそれを見て、桐生に会えるのは明日の講義だと確認した。明日まで、この心拍数が続くのだろうか。暁はそう考えたが、答えは出なかった。


*****


 翌日の講義後。暁は鞄の中に金平糖の袋を入れたまま、桐生の隣にいた。

 手が震えている。講義の間ずっとそうだった。ノートの文字がいつもより歪んでいる。シャープペンシルを握る手袋をはめた指が安定しない。暁は震えを止めようとしたが、止め方がわからない。意思で制御できる震えではない。暁の身体が暁の意識の外で反応を起こしている。

 演習問題を解く手が震えていることに桐生が気づいたかどうか、暁にはわからない。桐生は自分のノートに向かっていた。暁は鞄に手を入れ、金平糖の袋に触れた。手袋越しに小さな袋の感触を確かめる。まだある。壊れていない。

 講義が終わると周囲の学生が帰り支度を始める。桐生が横で鞄を閉じている。暁は鞄の中から金平糖の袋を取り出した。小さな紙袋に入った、黄色い粒。暁はそれを桐生の前に差し出した。手が震えていることを暁は自覚していたが、止める方法を暁は持っていない。

「……暁? どうした、顔色悪いけど」

 桐生が暁の顔を覗き込んだ。暁は桐生の目を見れなかった。視線をどこにやればいいのかわからない。迷った暁の視線が机の上の、桐生の手元のあたりを見ている。暁の視界の中で桐生の顔だけがぼやけて、それ以外のものが妙に鮮明に見えていた。机の木目。桐生のノートの角。鞄のファスナー。

「大丈夫です。これ……金平糖です」

 暁は袋を差し出す手をなんとか固定した。手首に力を入れて、震えを押さえつけている。桐生が金平糖の袋を受け取った。紙袋の中から小さな透明のガラス瓶が出てきて、中の黄色い粒が光を受けて小さく光る。

「え。買ってきてくれたの」

 桐生の声が少しだけ高くなった。暁はその声の変化を捉えたが、意味は読めない。驚きなのか、別の何かなのか。暁は事実を述べた。

「色で味が違うんです。知りませんでした」

「柚子?」

 桐生がガラス瓶のラベルを見て言った。暁は「はい」と答えた。

「これ、暁が選んだの?」

「自分で食べて……おいしいと思ったものを、選びました」

 暁の声が、語尾にかけてわずかに震える。声帯の制御が不安定になっている。暁の身体がまだ暁の意識の外で反応を起こし続けている。桐生の手が止まった。金平糖のガラス瓶を持った桐生の手が空中で静止している。暁にはその沈黙の意味がわからない。桐生の顔を見ることがまだできない。暁の視線は桐生の手元、金平糖のガラス瓶にある。

「桐生さんがおいしいと思ってくれるか、わからなくて」

 暁はそう付け足した。目が泳いでいる。暁自身はそのことに気づいていない。心臓が胸の中で暴れていて、暁はその反応の名前を知らなかった。昨日の帰りの電車からずっと続いている。寝ている間は収まったが、今朝起きたときにはまた始まっていた。金平糖の袋を鞄に入れて家を出た瞬間から、暁の心拍数は平常値に戻っていない。

 桐生がガラス瓶を開けて、金平糖を一粒つまんだ。暁は、やっと、桐生の方を見た。桐生が金平糖を口に入れる。暁がやったのと同じように、噛まずに、舌の上に載せている。桐生の顎がゆっくりと動いて、溶かしている。

「……うん。おいしい」

 桐生の声は穏やかだった。いつもと同じ温度の声。暁の全身を流れていた緊張が、その一言でほんの少しだけ緩む。ほんの少しだけ。心拍数はまだ高いまま。

「暁が選んだやつ、好きだよ」

 桐生がそう言った。

 金平糖の話をしている。金平糖の話をしているはずだ。暁にはそう聞こえた。それ以外の意味を暁は想定できない。暁の語彙の中に「好きだよ」が含まれていない。桐生の言葉が金平糖に向けられているのか、暁の選択に向けられているのか、それとも別のものに向けられているのか、暁には区別できなかった。しかし暁の心拍数はその言葉でさらに上がった。理由は不明。データ不足。

「一緒に食べよ」

 桐生がもう一粒つまんで、暁の方に差し出した。暁は手袋をはめた手を出そうとした。桐生の指に載った黄色い粒を、自分の手のひらで受け取るつもりだった。しかし桐生の指はそこに金平糖を置かず、暁の口元に運んだ。

 暁の動作が止まった。

 桐生の指先が暁の唇に触れている。指の腹の温度が暁の下唇に伝わっている。金平糖が暁の口の中に入った。桐生の指先が唇から離れる。その一連の動作は二秒にも満たなかったが、暁の中ではすべてがスローモーションで再生されていた。


 複数の入力が同時に暁の中に流れ込んできた。

 桐生の指が唇に触れる。暁の中にその接触を拒否する回路がない。「自分から触れてはいけない」は鉄壁だ。しかし「触れられてはいけない」の想定が暁には存在しなかった。施設で十八年間、誰にも触れられたことがない。受動的接触という概念そのものが暁の設計に含まれていなかった。だから拒否が発動しない。よって暁のシステムはこの接触をフリーパスにしてしまう。

 口の中に甘いものが入った。舌の上に金平糖が載っている。昨日試食で食べたのと同じ黄色い粒。同じ柚子味。同じ砂糖の結晶。

「一緒に食べよう」と言われた。「一緒に」──暁はその概念を考えた。ひとりではなく、同じものを、同じ時間に。暁が選んだものを、桐生と一緒に、口にしている。

 桐生が笑っている。暁の視界に桐生の笑顔がある。穏やかな顔。目が細くなっている。暁に向けられている。

 自分が選んだものを一緒に食べたいと言われた。暁が「おいしい」と感じた味を、桐生も「おいしい」と言った。暁の選択が肯定されている。


 全部の情報が同時に来た。

 暁は金平糖を噛めなかった。

 噛んだらこの粒が砕けて、この時間が終わる。暁はその判断を意識的に下したのではない。ただ、顎が動かなかった。金平糖が舌の上に載っている。角が舌に触れている。砂糖が少しずつ溶けて、甘い液体がゆっくりと口の中に広がっていく。角が丸くなっていく。暁は金平糖が溶けきるまで待っていた。噛まずに、砕かずに、自然に溶けるのを、ただ待っていた。

 粒が小さくなっていく。甘さが濃くなっていく。暁の胸の中では心臓が壊れそうなほど打っている。暁はその音を聞いていた。自分の心臓の音と、口の中で溶けていく金平糖の甘さと、桐生が隣にいるという事実。全部が暁の中に存在している。同時に。

 最後の甘さが消えた。金平糖が完全に溶けた。暁は口を開いた。

「……おいしい、です」

 声が震えていた。暁は自分の声が震えていることに気づいていない。同じ金平糖を、昨日試食で食べている。味は同じはずだ。同じ柚子味。同じ砂糖の結晶。同じ核形成プロセスの結果。なのに、暁の数学では、この差を特定できなかった。昨日の金平糖と今の金平糖で変わった変数は一つしかない。桐生の指が暁の唇に触れたこと。それだけだ。それだけで、同じ砂糖の結晶の味が変わる。暁の数学では解けない方程式。暁はその未知変数を処理できないまま、口の中に残る甘さの余韻を舌の上で探していた。

 桐生は隣で暁と同じ金平糖を口の中で溶かしている。暁は桐生の横顔を見た。見ることができた。さっきまで見られなかった桐生の顔を、いま暁は見ている。桐生の僅かな顎の動き。目元の穏やかさ。窓からの光が桐生の髪を透かしている。

 暁の中で何かが始まっていた。始まっているが、名前はまだない。名前をつける語彙が暁にはない。ただ、暁の心拍数は桐生の隣にいる限り下がらなくなっていた。

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