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見えない閾値  作者: 灯屋 いと
第3章 相転移の苦み

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#1 物理的接触

 桐生と一緒にいる時間が、暁の日常の一部になっていた。

 講義の前に合流して、講義を受け、学食で昼食を食べ、講義後に数式の話をして、ときどき桐生の部屋か暁の部屋で本を読む。暁の行動パターンの中に桐生の存在が組み込まれている。施設にいた頃のルーティンは暁ひとりの導線で完結していたが、いまの暁の導線には桐生が含まれていた。暁はそのことを意識的に認識してはいない。水を飲むことや呼吸することと同じように、桐生がいることが暁の日常の前提になっている。

 その日は講義の後、図書館にいた。暁が数学の本を読む閲覧室の、奥の方の席。暁の斜め向かいに桐生が物理の専門書を広げている。互いの本の中身は見えないが、暁がページをめくる音と、桐生がシャープペンシルでノートに書き込む音が交互に聞こえている。閲覧室は静かだった。空調の低い音と、遠くで誰かが本を棚に戻す音がたまに響くだけ。

 暁は本を読みながら、ときどきスマートウォッチの画面を確認した。十六時。夕方の光が窓から差し込んで、暁のノートの上に長い影を落としている。あと二時間ほどで図書館が閉まる。暁はページに視線を戻した。

 席を立つ時。暁が椅子を引いて立ち上がり、テーブルの端に置いた鞄を取ろうとして身体をひねった。ちょうどそのとき、桐生が暁の後ろを通ろうとした。閲覧室の席の間は狭い。──暁の肩が桐生の腕にぶつかった。

 偶発的な接触だ。狭い通路で身体の向きを変えたタイミングが重なっただけ。暁が意図して触れたのではない。桐生も暁に触れようとしたのではない。ただ、暁の肩と桐生の腕が、シャツの薄い布地一枚を挟んで接触した。

 暁は固まった。動作が停止する。鞄に伸ばしかけていた手が空中で止まっている。

 肩に触れた桐生の腕の感触が、手袋越しではなく、シャツの布地を通して暁の皮膚に届いた。温かい。金平糖のとき、桐生の指が唇に触れた瞬間のことが暁の頭の中を走った。あのときも暁は固まった。あのときと同じように、暁の中で検索が始まっている。

「自分から触れてはいけない」──今のは自分からではない。偶発。暁が能動的に手を伸ばしたのではない。このルールには該当しない。

「触れられてはいけない」──暁はこのルールを検索した。検索結果は空だった。施設で暁に刷り込まれた手順の中に、このルールは存在しない。「触れてはいけない」は「自分から」の方向にしかかかっていない。外側から暁に触れることについて、暁の中には何の規定もない。──規定がないということは、禁止ではない。禁止ではないのだから、拒否する根拠がない。

 暁は振り払わなかった。

 固まったまま、一秒、二秒、三秒。暁の肩に桐生の腕が触れている。布地越しの温度が暁の肩から入ってきて、肩甲骨の方へゆっくりと広がっていく。暁はその温度の伝播を、身体の左側で感じていた。

「あ、ごめん」

 桐生が慌てて腕を引いた。接触は三秒ほどであるが、暁の肩には桐生の腕の温度が残っている。暁はその残った温度を感じながら立っていた。温度が薄れていく。消えかけている。暁はそれを「惜しい」とは思わない。その語彙がない。

 ただ、温度が消えていくという変化を暁の身体が記録していた。

「……桐生さん」

 暁は桐生を見上げた。暁の中に質問が生まれている。

「いま、何が起きたんですか」

 暁はいつもの口調のまま素直な疑問を投げた。暁にとって、いま自分の身体で起きたことの意味がわからない。肩が触れた。固まった。温度が入ってきて、そして消える。この一連の出来事が、暁の中でどのカテゴリにも分類されない。

 桐生が暁の反応を見ている。暁は固まったが、逃げない。振り払うこともない。嫌そうな顔もしなかった。そしていま、「何が起きたのか」と訊いている。桐生の目の中に、暁がまだ名前をつけられない光がある。

 以前は暁がコンビニで購買行動を観察していたときの目に似ている、と思った。対象の構造を読もうとしている目。しかし今の桐生の目には、以前とは少しだけ違う色が含まれている。暁にはその差を識別できないが、何かが変わっていることだけは検知していた。

「肩がぶつかっただけだよ。痛かった?」

「痛くはないです。でも……温かかったんです」

 暁は事実を述べる。肩が触れた場所が温かかった。それだけの報告だったが、桐生の手が、自分のノートを片付けようとしていた手が、一瞬止まっている。暁はその動作の停止を検知する。なぜ止まったのかは読めない。

「そっか」

 桐生は短く返して、ノートを鞄にしまう。暁はその「そっか」の中に含まれている情報を読み取れなかった。ただ、桐生の声の温度がいつもよりほんのわずかだけ低くなったことは、暁の耳が捉えていた。低くなったのは怒っているからではない。暁にはわかっている。暁は桐生の怒った声を聞いたことがないが、この声は怒りではない。何なのかはわからない。


*****


 数日後。桐生は暁の部屋にいた。桐生が新しい本を持ってきていた。

 SFの短編集で、暁がまだ読んでいないやつだった。暁はテーブルの前の床に座って本を読み始め、桐生はソファに座って物理の専門書を開いている。暁の冷蔵庫にはまだカロリーメイトの箱があるが、最近はあまり減らなくなった。桐生と一緒に食事をすることが増えたからだ。

 窓の外が暗くなってきた頃に暁はページをめくりながら、視界の端に桐生がいることを確認していた。確認している、という自覚はない。ただ、暁の視線が本から離れる瞬間に、必ず桐生の位置を通過する。ソファの端に座って、物理の専門書に目を落としている桐生の横顔。暁はそれを見て、ページに目を戻す。

 桐生が本を閉じたパタンと表紙が合わさる音がして、暁が顔を上げる。桐生はソファに深く座り直して、暁の方を見ていた。

「暁」

「はい」

「頭、撫でていい?」

 暁は固まった。手袋をはめた手が本のページの上で止まっている。桐生の声は穏やかだった。質問の形をしている。

 暁にとって、この形の問いかけは初めてだ。施設では「触れろ」か「触れるな」のどちらかしかなかった。命令か禁止。暁の意志は手順に含まれていない。桐生が出してきたのは第三の形だ。「触れていいか」暁の意志を確認している。暁の許可を求めている。暁が「いい」と言えば触れる。「嫌だ」と言えば触れない。その選択権が暁にあるということ。施設では、暁に選択権が与えられたことは一度もなかった。

 暁の中で検索が走る。

「自分から触れてはいけない」──桐生が暁に触れる。暁が桐生に触れるのではない。該当しない。

「触れられてはいけない」──このルールは存在しない。空。

 拒否する根拠が見つからなかった。拒否するためのルールが暁の中にない。では許可したいのか。暁はその問いに答えられなかった。許可の概念はある。しかしそれは施設での「指示を受けて従う」という形でしか機能していない。桐生の問いかけは指示ではない。暁の意志を訊いている。暁は自分の意志で「はい」と言うのか、ルールに該当しないから消去法で「はい」が残るのか、暁にはその区別がつかない。区別がつかないまま、暁の口が動いた。

「……いい、です」

 声は暁の声の形を保っていたが、語尾が少しだけ小さくなる。

 桐生の手が暁の頭にゆるりと乗った。

 手のひらの重みが暁の頭頂部にかかる。温度。桐生の体温が髪を通して頭皮に届く。桐生の指が暁の髪に触れて、ゆっくりと動き始めた。頭頂部から後頭部にかけて、桐生の手が暁の癖のない滑らかな髪を梳くように滑っていく。力は入っていない。ただ手のひらが暁の頭の曲面に沿って、ゆるく行き来している。

 暁の目が伏せられた。瞼が下りて、視界が閉ざされる。手袋をはめた手が膝の上の本をゆるく握っている。暁は知らない感覚の中にいた。施設では誰にも頭を撫でられたことがない。十八年間。人間の手のひらが自分の頭に置かれて、ゆっくりと動く。髪の間から温度が頭皮に入ってきて、そこから首筋の方へ、肩の方へ、背中の上の方へと流れていく。暁の肩から力が抜けた。呼吸がゆっくりになる。暁の身体の緊張が、桐生の手のひらの下でほどけていく。暁は自分の呼吸の変化に気づいていない。

 しばらくの間、二人はそのままだった。暁が目を伏せて座っていて、桐生の手が暁の頭の上をゆっくりと動いている。窓の外は暗くなっていて、天井の蛍光灯が暁の手袋の白を照らしている。

 桐生の手が離れ、温度がなくなった。頭の上にあった重みが消えて、暁の髪が空気の中に放り出される。暁はほんの一瞬だけ、手が離れた方向を目で追った。桐生の手が暁の頭から離れて、桐生の膝の上に戻っていく。その軌跡を暁の目が追いかけている。

「……桐生さん」

 暁は桐生を見た。

「なぜ、撫でるんですか」

 暁は訊いた。暁の中にまた「なぜ」が自然に発生している。撫でてもいいかと訊かれた。いいと答えた。撫でられる。温かかった。力が抜けた。なぜ。暁はその行為の理由を理解していなかった。施設では暁に対する接触は検査や処置のためだった。目的がある。桐生が暁の頭を撫でることには、暁が認識できる目的がない。

 桐生は暁の質問を受け取って、ほんの一瞬だけ考えるような間を置いた。桐生の目が暁を見ている。以前よりも長く見ている、と暁は検知したが、「長い」の基準がないため確信ではない。

「なんでだろうな。暁見てると撫でたくなるんだよ」

「……撫でたくなる?」

「うん。理由は特にない。撫でたいから撫でた。嫌だった?」

「……嫌では、ないです」

 暁は答えた。「嫌ではない」これは暁の持っている語彙で組み立てた返答であり、暁の身体で起きたことの正確な翻訳ではない。暁の身体は「嫌ではない」以上の何かを出力していた。力が抜けたこと。呼吸が深くなったこと。手が離れたとき目で追ったこと。しかし、暁にはそれを言葉にする道具がない。「嫌ではない」が暁の出力の限界だった。

 桐生は「そっか」と短く返した。その声の温度は、さっきの「そっか」とは違っている。暁にはその差が何を意味するのかわからなかったが、今度の「そっか」の方が、暁の耳には、少しだけ柔らかく聞こえた。


*****


 翌日の講義で、暁は桐生の隣に座った。正確には、暁はいつもの最後列の壁際の席に座り、桐生がいつものように暁の斜め前方に座った。しかし講義が終わって演習の時間になると、桐生が暁の隣に移動してくる。もうこの動きは暁にとって予測の範囲内だった。桐生は演習の時間になると暁の近くに来る。暁のノートを覗き込んで、式についてコメントする。暁はそれに応答する。

「暁、ここの式展開見せて」

「……はい」

 暁がノートを桐生の方に向けると、桐生が覗き込む。暁と桐生の距離が近い。桐生の髪が暁のノートの端に触れそうになっている。暁はその近さを認識していたが、それを問題だとは思わない。昨日の「温かかったんです」という報告と、「なぜ、撫でるんですか」という質問が暁の中に残っていた。暁は桐生の近さを、それが以前よりも近くなっていることを、受け入れている。

「ここからの降ろし方、前回俺が言ったやつ覚えてる?」

「エネルギーの固有状態に降ろす、ですか」

「そう。やってみな?」

 暁はペンを取って、式の続きを書き始めた。物理の基底を選んで降ろしていく。桐生の言葉を手順として覚えている。暁の手がペンを動かしている間、桐生は暁のノートを見ていた。暁の手元を見ている。手袋をはめた暁の手を。暁はそれに気づいていない。

「合ってる。暁、もう一人でできるじゃん」

「……桐生さんが教えてくれたからです」

 暁はそう答えた。事実を述べているだけだった。しかし桐生の表情が、暁の視界の端で、わずかに動いてる。暁はその動きを正面から見なかった。視界の端で捉えただけだ。桐生の口元が動いている。あの表情。暁が以前も見た、桐生のノートの角の動きに似たもの。暁にはまだその表情の名前がない。

「暁は覚えが早いよ。一回で全部入るんだもん」

「数式の構造が明確であれば、一回で十分です。桐生さんの説明が明確だったからです」

「そう言ってもらえると嬉しいけどね」

 嬉しい。暁はその単語を受け取った。桐生が「嬉しい」と言った。暁にはその感情の実感がない。嬉しいとはどういう状態なのか。暁はまだそれを身体で知らなかった。ただ、桐生が「嬉しい」と言ったとき、桐生の声の温度がほんの少しだけ上がったことを暁の耳は捉えている。声の温度が上がる。それが「嬉しい」に対応する声の変化なのだろうか。暁はそのデータを記録した。

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