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見えない閾値  作者: 灯屋 いと
第3章 相転移の苦み

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#2 不確定性の再現

 桐生は定期的に「撫でていい?」と訊くようになった。講義の後、図書館で、暁の部屋で、桐生の部屋で。

 場所はいろいろだったが、桐生が暁に確認を取る構造はいつも同じだ。暁の方を見る。暁の表情を読む。それから訊く。暁が頷く。手が頭に乗る。しばらくして離れる。その構造が二人の間に定着していた。

 変化は暁の頷きの速度に現れていた。

 最初の数回は、桐生が「撫でていい?」と訊いてから暁が「……いい、です」と返すまでに三秒ほどの間があっている。暁の中でルールの検索が走り、該当なしの結果が返り、消去法で許可が出るまでの時間。三秒は暁の処理速度からすれば長い。数式の問題を三秒で方針立てできる暁が、「撫でていい?」の処理に三秒かかっている。数式には判断基準がある。桐生の問いかけには暁の中に判断基準がない。

 しかし回を追うごとに、その間が縮まっていった。三秒が二秒になり、一秒になり、やがて暁は桐生の問いかけが終わる前に頷いていた。「撫で、」まで聞いた段階で暁の首が動いている。ルール検索が省略されたのだ。暁の中で「桐生が撫でていいと訊いたら頷く」が手順として自動化されている。暁はそのことに気づいていない。

 ある日、暁は桐生が声を掛ける前に、桐生がこちらを見た段階で、頭をわずかに前に傾けていた。首が少し下がる。頭頂部が桐生の方に向く。撫でやすいように。暁はそれを意識的にやっているわけではない。暁の身体が先に動いて、頭の角度が桐生の手のひらを受け入れる形になっている。

「……暁」

 桐生の声に笑いが混じっていた。暁にはなぜ笑っているのかわからない。

「まだ何も言ってないけど」

「……はい」

 暁は自分の身体が何をしていたのか気づいていない。ただ桐生が見ただけだ、と暁は思っている。しかし、暁の頭はすでに前に傾いていて、桐生の手のひらを待つ姿勢になっていた。暁の身体が暁の意識より先に、答えを出している。

「撫でていい?」

「……はい」

 既に桐生の問いに対する暁の返答に間はない。ゼロ秒。訊かれる前に頭が傾いていて、訊かれた瞬間に声が出る。暁はそのゼロ秒の中に、意志があるのか、反射があるのか、どちらなのか、区別できない。しかし、完全に普通であればその問い自体を省略してしまってもいいほど形式化されている。暁の返答に「はい」以外の選択をするルートが消滅しているのだから。

 撫でられている間の暁は、毎回同じ反応を見せた。目を伏せる。呼吸がゆっくりになる。肩の力が抜ける。手袋をはめた手が膝の上で緩く握られて、ときどき指先が小さく動く。暁の意識の処理速度が落ちて、数式が走らない時間が生まれる。施設にいた頃、暁が何も考えない時間は存在しなかった。暁の頭は常に動いていた。数式を解いているか、情報を処理しているか、そのどちらか。いま、桐生の手が頭の上にあるとき、暁の頭はゆるやかに止まる。思考が止まっているのに不快ではない。暁にとってそれは新しい状態だった。

 桐生の手が暁の頭の上を動く回数が増えていた。以前よりもゆっくりになっていることに暁は気づいていない。桐生の手が丁寧になっている。力の加減が変わっている。暁の髪を梳くとき、指の先が毛先まで届くようにゆっくり動いている。暁にとっては「撫でられている」という同じカテゴリの行為だが、桐生の手に含まれている情報量は増えている。暁はその差を身体で受け取りながら、言語化する手段を持っていなかった。


 接触の面積は少しずつ広がっていった。頭から肩へ。ある春先にしては寒い日に暁が薄着で大学に来ていたとき、講義の後で桐生が暁の肩に手を置いた。

「寒くない?」

「……少し」

 暁は固まらなかった。もう固まらない。桐生の手が暁に触れることについて、暁のルール検索は完全に省略されている。桐生の手のひらの温度が暁の肩に入ってきて、肩甲骨の方へ広がっていく。背中の上半分が温かくなる。暁はその温度を受け取りながら、桐生と一緒にキャンパスを歩いた。桐生の手は暁の肩に乗ったまま、しばらく離れなかった。暁はそれを「触れられている」と認識していたが、拒否しない。温かいものを拒否する理由が暁にはなかった。

 別の日。桐生の部屋で本を読んでいたとき、暁がうとうとしかけた。ベッドを背もたれにしたまま暁の身体が横に傾いて船を漕ぐ。桐生が逆側に倒れそうな暁の背中に手を当てて支えた。

「暁。寝るならベッドで寝れば?」

「……大丈夫です。寝ていません」

 暁の声は寝かかっている。

「完全に寝てたよ」

 桐生は苦笑しながら暁の身体を起こした。

「……寝ていたんですか」

 暁は目を擦りながら姿勢を正した。桐生の手が暁の背中に触れている。背中。頭や肩よりも面積が広い。桐生の腕が背中に回っていて脇腹で手のひらが支えている、その温度が暁の身体を緩めていた。暁は姿勢を正しながらも、その温度が消えることにわずかな、暁の語彙にはない、何かを感じた。

「桐生さん」

 ふと、暁は呼びかけた。

「ん?」

「なぜ、支えてくれたんですか。倒れても怪我はしません」

 暁は純粋な疑問として訊いた。最近、暁の中に「なぜ」が浮かぶ頻度が上がっている。食べ物について訊き、本について訊き、いまは桐生の行動について訊いている。世界に触れるたびに知らないことが増えて、知らないことがあれば暁は桐生に訊く。その経路がもう暁の中で定着していた。

 桐生は暁の質問を受け取って、少し間を置いた。

「倒れたら起こすの大変じゃん」

「それは合理的です」

「そういうことにしといて」

 桐生が少し笑っている。暁にはその笑いの中に含まれている情報が読めない。合理的な理由を述べたのに、なぜ笑うのか。暁は首を傾げたが、追及はしなかった。暁はまだ、桐生の笑いの中に「本当の理由」が隠されていることを読む力を持っていない。


 ひとりでいるとき、暁は自分の頭を触るようになった。

 部屋のソファに座って本を読んでいるとき、ふと手袋をはめた手が自分の頭に乗る。後頭部を撫でるように動かす。桐生の手がいつも通る経路を、自分の手で辿っている。頭頂部から後頭部にかけて。暁はそれを無自覚にやっていた。自分の手で自分の頭を撫でている。しかし自分の手は自分の体温だった。暁が受け取りたいのは自分の体温ではない。暁の手は自分の頭の上で止まって、しばらくそのままでいた。足りない。何かが足りない。暁はその足りなさの正体を特定できないまま、手を下ろして本に目を戻した。

 手を下ろした後、暁の頭頂部には何もない。桐生の手のひらがあった場所が空いている。暁はいつの間にか「ある状態」を基準として記憶していた。「ない状態」がデフォルトのはずなのに、暁の身体は「ある状態」を期待している。暁はその期待を認識していない。


 次第に暁が桐生を呼ぶ頻度が増えていた。講義中に、数式について質問するとき。学食で、メニューの名前を訊くとき。図書館で、読んでいた本の一節を見せたいとき。暁が「桐生さん」と声に出す回数は、数週間前の三倍になっている。暁はそのことに気づいていない。

 ある日、暁が本を読みながらふと口を開いた。

「桐生さん」

「ん?」

「この本に出てくる人が……自分の気持ちを言葉にできないと言っています。気持ちを言葉にする、というのは、どういうことですか」

 暁はSFの文庫本を開いたまま訊いた。暁が物語の中の登場人物について質問するのは初めてだ。これまでの暁の質問は数式か、食べ物か、物理的な現象についてしかなかった。いま暁は「人間の内面」について訊いている。暁自身はそれが新しいカテゴリの質問であることに気づいていない。ただ、本の中に書いてあることの意味がわからなかったから訊いた。

 桐生の手が──ページをめくろうとしていた手が、止まっている。暁はその停止を検知する。

「……気持ちを言葉にするって、たとえば嬉しいとか悲しいとか、そういう感覚に名前をつけて言うことだよ」

「感覚に名前をつける」

 暁は桐生の言葉を鸚鵡返しにしたが、理解はできていない。

「うん。暁も味噌汁飲んで『温かい』って言ったでしょ。あれも一種のそれだよ」

「あれは温度の報告です」

 暁は即答した。文庫本を膝の上に伏せたまま、暁は桐生の方を真っ直ぐに見ている。暁にとって「味噌汁が温かい」は身体の状態を述べただけのことであり、それ以上の意味があるとは思っていなかった。桐生は暁の目を見返して、少しだけ首を傾げた。

「そうだよ。でも温度だけじゃなかったでしょ? 温かいって言ったとき、暁の顔、いつもと違ってたよ」

 暁も首を傾げた。自分の顔がどうなっていたか、暁にはわからない。鏡がない。暁は自分の表情を確認する手段を持っていない。

「……自分の顔は見えないので」

「知ってる。でも俺には見えてたよ」

 桐生の声が柔らかかった。暁はその柔らかさの中に含まれている意味を読めないが、桐生の声がいつもより少しだけゆっくりであることは検知している。


*****


 桐生の手が暁から離れた後、暁はその場所を無意識に手袋をはめた手で触る癖がついた。まだ温かい。桐生の温度が残っている。暁は残った温度を確かめながら、自分が何をしているのかには気づいていなかった。

 同じことを何度も繰り返した。頭を撫でられた後に、暁は自分の手で自分の頭を触る。肩に手を置かれた後に、暁はその場所を手袋越しに確認する。背中を支えられた後に、暁は桐生の温度の残りを身体の内側で追いかける。暁はそのすべてを無自覚にやっていた。桐生が触れた場所を自分の手で辿ることが、暁のルーティンの中に新しい手順として追加されている。暁はその手順を意識的に組み込んだのではない。暁の身体が勝手に覚えた手順だった。

 ある日の夜。暁は部屋のベッドに座って、桐生から借りた本を読んでいた。ページをめくりながら、暁の手袋をはめた右手が本から離れ、また自分の頭の上に乗った。後頭部を、ゆっくりと撫でるように動かす。桐生の手がいつも通る経路。頭頂部から後頭部にかけて。暁はその動作を無自覚にやりながら、本を読み続けている。

 しばらくして、暁の手が止まった。足りない。暁の手は暁の体温で、暁の手のひらの大きさで、暁の指の形をしている。桐生の手はもっと大きくて、もっと温かくて、指が暁の髪を梳くように動く。暁の手ではその動きを再現できない。暁は自分の頭の上で手を止めたまま、しばらく動かなかった。

 何が足りないのか。暁はその問いに、答えを出せなかった。暁の手と桐生の手の物理的な差異は明確に列挙できる。手のひらの面積、体温、指の長さ、力加減。それらが違うことは暁にもわかる。しかし「足りない」と暁が感じている──否、感じているのではなく、暁の身体が「足りない」と出力しているものは──物理的な差異の総和ではなかった。もっと別のものが欠けている。暁にはそれが何なのか特定できない。

 暁は手を下ろし、本に視線を戻した。しかし、暁のページをめくる速度はさっきよりも遅くなっている。暁はそのことに気づいていない。


 翌日の講義で、暁は桐生に訊いた。

「桐生さん」

「ん?」

 問いかけられた桐生は短い返事をする。声が柔らかいが、手はノートの上に数式を書き続けている。

「……人は、なぜ自分で自分を撫でても足りないんですか」

 桐生の手が止まった。シャープペンシルを持つ指が空中で静止する。暁は桐生の動作の停止を検知したが、なぜ止まったのかは読めない。

「暁、自分で自分の頭撫でてんの?」

「……はい。でも、足りないです」

 桐生が手を止め、数式の続きを中断し、暁の方を向いた。暁は事実を述べる。暁にとってはただの報告。しかし、桐生はその報告を受け取って、しばらく黙っていた。暁から見える桐生の表情に、明確な変化はない。ただ、桐生の目が暁を見ている時間が、いつもよりずいぶんと長かった。暁はその「長さ」を検知していたが、何秒が通常で何秒が長いかの基準がなく、確信は持てない。

「……足りないって、何が足りないかわかる?」

 しばらくの沈黙の後、桐生は暁にもわかる言葉で訊き返してきた。

「わかりません。温度と手の大きさと指の動き方が違うことはわかります。でもそれだけでは説明できません」

「そうだよな。……自分じゃ足りないんだよ。人に触ってもらうのとは違うんだ」

「なぜですか」

 暁の「なぜ」が出た。桐生は少し考えるような間を置いてから、ゆっくりと答えた。

「他の人の手は、自分の制御下にないからだよ。いつ触れて、いつ離れるか、自分じゃ決められない。その不確定性が──暁の言い方だと不確定性、でいいかな──あるから、違うんだ」

「不確定性」

 暁はその言葉を受け取った。不確定性。暁が制御できないもの。桐生の手がいつ暁の頭に乗るか、いつ離れるかは暁には決められない。その「決められなさ」が、暁の手で自分の頭を撫でるのとは異なる入力を生み出している。暁はその論理構造を理解した。理解したが、理解しただけでは「足りない」は解消されない。暁の身体が求めているのは理解ではなかった。

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