#3 定数と変数
その日は、いつもと同じ朝だった。
暁は同じ時刻にマンションを出て、同じ電車に乗り、同じ経路でキャンパスに入った。四月に始まった大学生活がいくつかの季節を越えて、暁の行動パターンは完全に固定されている。マンションから駅まで徒歩八分。電車で三駅。駅からキャンパスまで徒歩十二分。暁はこの導線を一ミリもずらさずに歩いていた。
講義棟の階段を上がり、いつもの教室に入り、最後列の壁際の席に座る。ノートとシャープペンシルを出して、講義の開始を待つ。
いつも桐生が座っている席を見た。空いていた。
暁は桐生がいないことを認識する。いない。いつもなら暁が席に着く頃には桐生はもう来ている。暁の斜め前方の、暁の視界の端に入る位置。あの席に、いつも髪の長い後ろ姿があるはずだった。暁は桐生がいるはずの席を見てから、教室全体を見渡した。暁にとってこの動作は異例である。暁が教室の中を見渡すことは通常ない。暁の視界は自分のノートと板書と、斜め前方の桐生の位置だけで構成されている。
それ以外の人間は環境の一部であり、個別に確認する対象ではない。暁がいま教室の中を見渡しているのは、桐生がどこかにいるかもしれないと──暁はその行動の意味を自覚していなかったが、探しているからだった。
──いない。
教室のどこにも桐生はいなかった。暁はノートの上に視線を戻した。ペンを持っている。紙の白さが目に入る。
講義が始まった。教員が板書を始める。暁はノートを開いてペンを動かしたが、いつもと同じ速度が出ない。ペンの先がノートの上で僅かに滑る。暁の視線が何度か斜め前方の空いている席を通過した。桐生が座る場所に誰も座っていない。空間があいている。暁はそれを繰り返し確認して、そのたびにノートに目を戻した。確認してから戻す。また確認する。また戻す。暁はその反復に気づいていない。
演習問題の時間になった。暁はいつものように式を書き始めたが、途中で手が止まった。表現論で持ち上げて、物理の基底に降ろす。暁がその経路を取るようになったのは、桐生に教えてもらってからだ。暁の手が式を書いている途中で、物理の基底を選ぶ段階になると、暁は斜め前方の空席を見た。いつもならここで暁のノートを覗き込んで「合ってる」と言ってくれる人がいない。暁は一人で式を完成させた。完成させたが、それが「合ってる」かどうかを確認する人間がいなかった。
講義が終わっている。暁は鞄にノートをしまって、教室を出た。
学食に行った。券売機の前に立つ。暁はもう自分でボタンが押せる。
カレーのボタンを押して、食券を受け取り、カウンターに出す。トレーに載ったカレーライスを持って、いつもの窓際の二人がけの席に座った。
向かいの席は空いている。桐生がいない。
暁はスプーンを手に取り、カレーを一口食べた。味はいつもと同じだった。辛い。温かい。にんじんの固さ。じゃがいもの崩れ具合。学食のカレーの味は暁の学習済みの範囲にある。暁は二口目を食べた。三口目。四口目。同じ味。同じ温度。同じカレー。いつもと同じ食事を、いつもと同じ場所で、いつもと同じ手順で摂取している。
なのに、何かが足りない。
暁はスプーンを止めて、トレーの上を見た。カレーライスがある。水がある。暁の前にあるものは全部揃っている。構成要素に欠落はない。暁はトレーの上の各要素を順番に確認した。白米。ある。ルー。ある。具材。ある。水。ある。全部ある。なのに「足りない」という信号が暁の中で消えない。
暁はその足りなさを分析しようとした。暁の頭の中で分解が走る。カレーの構成要素を変数として列挙する。カロリー。チェック済み。タンパク質。チェック済み。脂質。チェック済み。味覚。チェック済み。温度。チェック済み。全部チェック済みなのに、足りない信号が消えない。暁は変数の追加を試みた。塩分濃度? いつもと同じ。辛さの強度? いつもと同じ。食感? いつもと同じ。暁が分析可能な変数をすべて走査しても、「足りない」の原因が特定できなかった。
暁は向かいの空いている席を見た。誰も座っていない。いつもはそこに桐生がいる。
桐生が自分のカツ丼やラーメンを食べながら、ときどき暁のトレーをちらりと見る。「辛くない?」と訊く。暁が「大丈夫です」と返す。桐生が暁の箸の動きを見て「今日は食欲あるな」と言う。暁が「食欲、とは」と訊き返す。そういうやり取りが、暁はそれを意識していないうちに食事の一部になっていた。カレーの構成要素には含まれていないが、暁の食事の構造には含まれていたもの。
暁の分析モデルでは桐生の行動は変数として処理できる。撫でる、教える、食事に誘う。入力があれば暁は応答できる。しかし桐生の存在そのものは、暁が気づかないうちに定数になっていた。あまりにも当然にそこにいるから、暁はそれを意識しない。定数は走査対象にならない。そして定数が抜ければ、変数は発動しない。桐生がいなければ、撫でられることも、「合ってる」と言われることも、起きない。暁はカレーの変数を全部走査して足りなさの原因を探したが、足りないのは変数ではなく、変数を成立させていた定数の方だった。暁にはそれが見えない。
暁はカレーを全部食べた。トレーを返却口に持っていった。いつもと同じ動作。いつもと同じ手順。暁の中にある「足りない」は消えなかった。消えないどころか「足りない」は暁の中に増えている。
午後の講義にも桐生はいなかった。暁は最後列の壁際に座って、ノートにペンを走らせた。式は書ける。解ける。暁の頭は動いている。ただ、暁の視線がときどき斜め前方の空席を通過する頻度は、午前中よりも上がっていた。暁はそのことに気づいていない。
帰り道。暁はコンビニに寄った。カロリーメイトを買うためではない。暁は何を買おうとしているのか自分でもわからないまま棚の前に立って、店内を歩いる。飲料の棚を通過し、菓子の棚を通過し、暁の足が一か所で止まった。
駄菓子コーナーの金平糖の前だった。透明の袋に色とりどりの粒が入っている。黄色と、ピンクと、白。暁はその袋を見ていた。暁が池袋で買った金平糖は黄色い柚子味。桐生に渡した。桐生が「おいしい」と言って笑い、暁の口に一粒、入れてくれた。
暁はその記憶をたどりながら、棚の前に立っている。金平糖を買おうとしている、のだろうか。暁にはわからなかった。
「……柚子」
暁の唇が動いた。棚に並んだ袋の中に柚子味を探している自分に気づいて、暁の手袋をはめた手が宙で止まった。暁は自分が何をしようとしているのか把握できないまま、棚の前に立っている。金平糖を買って、誰に渡すのか。桐生は今日いない。暁はひとりだ。
ひとりで金平糖を食べても、あの味はしないだろう。
暁の中にその予測が走った。金平糖の味は砂糖の結晶で構成されている。柚子のフレーバーが加わっている。物理的な味は同じはずだ。しかし暁は知っている、桐生に口に入れてもらったときの金平糖は、試食のときの金平糖と味が違った。変数は一つしかない。桐生の指が唇に触れたこと。暁がひとりで食べれば、その変数がない。だから味が違う。暁はそこまで分析して、金平糖を買わなかった。
暁は何も買わずに店を出た。なぜ金平糖の前で足が止まったのか。暁はその理由を、もう一つだけ特定できなかった。金平糖の棚の前に立っていたとき、暁の胸の奥が、わずかに、締まったのだ。カレーの「足りない」と同じ場所で、同じ種類の信号が出ている。暁はその信号を受け取ったが、信号の名前がつけられなかった。
部屋に帰って、ベッドに座った。暁は手袋をはめた手で自分の唇に触れる。桐生の指が触れた場所。金平糖が入ってきた場所。暁の指先が唇の上を撫でる。桐生の指の温度は再現できない。暁の指は暁の体温で、桐生の指の太さとは違い、桐生の指の触れ方とは違う。足りない。暁はまた「足りない」の中にいた。
*****
翌日。
暁が最後列の席に座ると、斜め前方の席に桐生がいた。髪の長い後ろ姿。ノートを開いて、シャープペンシルを回している。
いつもの位置にいつもの桐生がいる。暁の中で、何かが戻った。
何が戻ったのかを暁は特定できないが、昨日から消えていたはずのないものが戻ってきた感覚。いや、消えていたのだ。何かが確かに消えていて、それが戻った。暁は昨日と今日の差分を走査する。カレーの味は同じ。講義の内容は違うが、暁の中の「足りない」に影響する変数ではない。天気、気温、暁の体調、暁の分析可能な変数はすべて同じか誤差の範囲に収まっている。唯一違うのは、桐生がいることだった。
暁はその相関に気づかない。暁の頭は因果関係を特定する力を持っているが、暁は「人の存在」を意識的に変数に含めていない。検索対象にないものは検索にかからない。
講義が始まった。暁はノートを開いてペンを取る。ペンが軽い。昨日と同じ講義のはずなのに、暁の手が滑らかに動く。
昼休みに桐生と一緒に学食に行った。カレーを食べた。昨日と同じ学食のカレー。同じ味。同じ温度。「足りない」は消えていた。
「暁、昨日も来た?」
桐生がカツ丼を食べながら訊いた。
「はい。カレーを食べました」
「一人で?」
まるで放っておいたら食事もしないとでも言いたげな確認を、桐生はする。
「はい」
「カレー、美味かった?」
暁はその質問に少し間を置いた。昨日のカレーは美味かったか。味は同じだった。同じカレーだった。でも「足りなかった」。暁はその足りなさを正確に言語化する道具を持っていない。
「……同じ味でした。でも、何かが違いました」
「何が?」
穏やかなまま、桐生は暁の異変を訊ねる。
「わかりません」
暁は正直に答えた。わからない。暁の頭では特定できなかった変数がある。暁はそのことを報告として述べた。桐生の箸が止まった。カツ丼の上で箸が空中に浮いたまま、一秒ほど静止している。暁はその停止を検知したが、なぜ桐生の箸が止まったのかは読めない。
桐生は何も言わなかった。箸を動かし直して、カツ丼を食べ続ける。暁も自分のカレーを食べた。今日のカレーにはスプーンが止まらない。昨日と同じカレーなのに。暁はそのことに気づいていなかった。
学食で暁が席に着いたとき、暁の椅子はいつもよりもわずかに桐生の方に寄っていた。テーブルの下で暁の膝と桐生の膝の距離が縮まっている。暁はそれを意識していない。暁の身体が、暁の知らないところで、桐生の近くを選んでいる。暁の頭はその選択の理由を分析できないが、暁の身体はもう答えを知っていた。




