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見えない閾値  作者: 灯屋 いと
第3章 相転移の苦み

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#4 未来の仮確定

「神保町の古書店街行かない? 暁も本好きでしょ」

 講義後の教室で、桐生が何気なく誘ってきた。暁は神保町の古書店街を知らないが「本がある場所」という情報として受け取った。本がある場所に行く。暁にとってそれは十分な理由だった。

「……はい。行きます」

 暁は頷いた。桐生が「じゃあ明日の午後」と日時を決めて、暁はそれを覚えた。桐生にとってこれは二人で出かけるということであり、暁にとっては本がある場所に移動するということ。互いの認識のズレを暁は気づけない。

 翌日の午後。本郷三丁目の駅で合流して、丸ノ内線に乗る。金平糖を買いに行ったときに一人で乗った路線。あのときは池袋に行った。今日は淡路町で降りる。電車の中で暁と桐生は隣り合って座った。暁の右肩と桐生の左肩が触れている。暁はもうそれを気にしなかった。桐生と肩が触れることは暁の日常に含まれている。

「桐生さん」

 暁が電車の中で訊いた。

「古書店街というのは、本が並んでいる店が複数あるということですか」

「うん。百軒以上。数学も物理も哲学も文学も、なんでもある。でも新しい本ではない。古い本を買い取って売ってる」

「百軒……古い本」

 暁はまず数字を処理した。百軒の本屋。暁がこれまで入ったことのある本屋はゼロだった。暁の本は全部、桐生が持ってきてくれたものか、大学の図書館のものだ。本屋という場所に暁はまだ行ったことがない。百軒。暁の中で「百」という数字が暁の知的好奇心の何かに触れていた。

 そして、古い本。暁の知っている限りの古い本は桐生に借りた本の中のいくつかしかない。古いの基準が不明瞭だ。施設から支給された教材も、大学の教科書も図書館の本も新品か共有で使用しているための劣化で、古さの基準が暁には確立不能。しかし、本であることに変わりはない。

「全部入れますか」

「一日じゃ無理だよ」

 百軒の本屋という理解可能な言葉に暁はまず反応した。隣で桐生が少し笑って答える。

「なぜですか」

「物理的に」

 桐生が穏やかな顔に悪戯めいた含みで短く言う。暁には「物理的に無理」の意味が、日常語として完全には結合しない。百軒の店に入って、棚を見て、本を確認する。一軒あたり十分とすれば千分。約十六時間。一日では確かに終わらない。暁はその計算を頭の中で完了させて「確かに無理です」と答えた。桐生の笑いが少し大きくなる。暁にはなぜ笑われているのかわからなかった。

 淡路町で降りて、地上に出て、歩く。桐生が先導して細い路地を抜けていく。暁は桐生の半歩後ろを歩いた。路地を抜けると、通りの両側に古書店が並ぶ景色が現れる。暁は足を止めた。

 看板に「古書」と書かれた店が、右にも左にも、通りの先までずっと続いている。店の前にワゴンが出ていて、文庫本や雑誌が段ボール箱に入って積まれている。ガラス越しに店内の書棚が見える。天井の近くまで伸びた棚に本が隙間なく詰まっていて、通路は人がすれ違うのがやっとの幅しかない。暁は通りの先を見た。次の店。その次の店。その先にも店が並んでいる。まだある。本が、こんなにたくさんある。

 暁の目の色が変わった。

 暁の表情はこれまで「不快」の方向にしか明確に動いたことがない。定食屋でまずいものを食べたときに眉が歪み、口元が引きつった。快の方向には、わらび餅を食べたときに肩の力が抜けた程度で、顔の表情としては明確な変化がなかった。しかしいま、暁の目が見開かれている。瞳の中に光が入っている。虹彩の色がいつもより明るい。

 暁はすでに一番手前の店のワゴンに早足で向かっていた。手袋をはめた手で本の背表紙を指先そっと辿る。数学。物理。哲学。文学。歴史。地理。暁が施設で触れることのなかったジャンルの本が、全部ある。

「桐生さん、これは何ですか」

 暁がワゴンの中から一冊取り出した。古い装丁の本。表紙の文字が旧字体で書かれている。

「ああ、それは戦前の数学の教科書。ガロア理論の古いやつじゃないかな」

「ガロア理論」

 暁は日焼けしたページを慎重に開いた。手書きの数式が印刷されている。活字ではなく、人間の手が書いた式。暁は数行読んだ。暁が知っている定理の証明が、暁が学んだのとは異なるアプローチで書かれている。暁はその差異に目を止めた。

「……同じ定理なのに、証明の経路が違います」

「古い本だからね。当時の記法も違うし、アプローチも今とは違う」

「なぜ変わったんですか」

「パラダイムシフト」

 暁はその単語に反応した。桐生が貸してくれた本に出てきた概念。正しいと信じていた枠組みが変わる。数学でも、それが起きるのか。暁は本を閉じて棚に戻し、次の本を手に取った。集合論。位相空間論。代数幾何学。暁の手が止まらない。

 一軒目を出た。二軒目に入る。三軒目。暁は店を出るとすぐ次の店に向かった。三軒目では哲学の棚を見た。クーンとポパーの原著があった。

「桐生さん。これ、桐生さんが貸してくれた本の原典ですよね」

「うん。英語だけど」

「読めます」

 暁はページをめくった。原典の文章は入門書よりも密度が高い。暁はその密度に惹かれて立ち読みを始めた。桐生は暁の後ろに立って、暁が本を読んでいるのを嬉しそうに見ていた。暁は気づいていない。桐生の目が暁を見ている時間がいつもより長くなっていることを。暁が本を読んでいるときの目の動き、ページをめくる手袋をはめた指の丁寧な動き、暁の全身から放たれている何かを、桐生が見ていた。暁にはそれが見えなかった。暁は本を見ている。桐生は暁を見ている。

 四軒目は文学の古書が専門だった。暁は棚の前をゆっくりと歩いた。

「桐生さん、文学の本は、なぜ読む前に内容がわからないんですか」

 棚のタイトルをひとつずつ確かめながら、暁は桐生に訊ねる。

「タイトルからじゃわかんないってこと?」

「はい。数学や物理の本はタイトルから構造が推測できます。文学はできません」

 暁は棚から一冊抜いて表紙を桐生に向けた。手袋をはめた暁の指が表紙の文字をなぞる。桐生はその手元を見てから、肩の力を抜くように息を吐いた。

「それが文学のいいとこだよ。読んでみないとわかんない」

「……それは、不確定性ではないですか」

 桐生がぷっと吹き出した。暁は自分が何かおかしなことを言ったのかと首を傾げたが、桐生の笑い方に悪意がないことはわかっていた。桐生がこの笑い方をする頻度が増えている。暁の言葉に対して声を出して笑う回数が増えている。暁はそのことを検知できるが、なぜ増えているのかは分析の範囲外だった。

 五軒目を出たあたりで、暁の膝がふらついた。

 暁は店の前の壁に手をついて身体を支えた。足が重い。施設の中で暁の運動量は極めて少なく、体力はほとんどなかった。暁の身体にとっては、限界に近い。

 桐生の手が暁の腕を掴んできた。桐生の手のひらが暁の二の腕をほぼ一周している。暁の腕は細く、桐生の手は暁の手よりずっと大きくて、暁の腕を簡単に包んでしまう。暁の腕をつかんだ桐生は手に繋ぎ直し、ふらふらの暁を休める場所まで連れて行った。

「座って」

 暁は桐生に支えられて、近くのベンチに座った。暁が座ると桐生は立ったままで、暁は桐生を見上げる形になる。桐生の身長が暁より高いことを、暁はこの角度で改めて受け取った。桐生の手が暁の手を繋いだまま離れない。温かい。暁はその温度を手全体で受け取りながら、古書店の並ぶ通りの先を見ていた。まだ店がある。

「まだ、見たい、です……」

 暁の声は息切れしていた。暁が自発的になにかしたいと口にすることは、これまでほとんどなかった。

「逃げないから。本は逃げないよ」

 桐生がくすりと笑って言った。暁は桐生を見上げた。

「……逃げない?」

「うん。ここにある本は明日もある。来月もある」

「……なくならないんですか」

「なくならない。また一緒に来ればいいよ」

 暁は黙った。手袋をはめた片手が膝の上で小さく握られている。また来ればいい。暁の中に「未来」の概念が実感として芽生えていた。一度終わったものを、もう一度始めることができる。

「……また、来ていいんですか」

「当たり前でしょ」

 暁の口元が動いた。ほんの少しだけ。唇の端がわずかに上がる。

 暁は笑い方を知らない。施設で笑った経験がない。だから暁の笑顔は不完全だ。口元がほんの少し動いただけで、目は変わらず、眉も動かない。笑顔と呼ぶには足りない。しかし暁の口元が、定食屋で眉が歪み口元が引きつったのとは反対の方向に動いている。暁自身はそのことに気づいていない。鏡がないから確認のしようがない。

 しかし、桐生は暁の顔を見ていた。

 桐生が固まった。一瞬。暁の口元が動いた瞬間に、桐生の全身の動きが止まる。暁は桐生を見上げていて、桐生の目の中の光が変わるのを検知した。何かが変わっている。前にも見たことのある変化だが、今回はそれが大きい。桐生の目の中にあった「観察者の光」が、別のものに変わっている。暁にはそれが何なのかわからなかった。驚きなのか、困惑なのか、それとも別の何かなのか。暁にはその差を識別する経験がない。

 桐生は二秒ほど固まってから、目を逸らした。暁ではなく、通りの向こうの古書店の看板を見ている。暁は桐生の横顔を見ていた。桐生の顔に何があるのか、暁には読めない。


*****


 帰りの丸ノ内線。行きと同じく暁は桐生の隣に座っていた。窓の外は暗い。

 地下鉄のトンネルの壁面がぼんやりと流れていく。暁の腕と手に、さっき桐生に掴まれた温度がまだ残っている。

「桐生さん」

 暁は電車の中で声を出した。

「ん?」

「今日は……本が、たくさんありました」

 声に反応し、覗き込むように顔の角度を変えた桐生に、暁はぽつりと報告した。

「うん。多かったね」

 桐生は暁の横顔を見ながら頷く。暁の目は車窓の向こうのトンネルの壁を追っているけれど、焦点は壁面にはなく、もっと遠いどこかを見ている。暁の手袋をはめた手が膝の上で何度か開いたり閉じたりしていた。

「百軒は無理でした」

 暁の報告は続く。

「だから言ったでしょ」

 ふふ、と笑う桐生に暁は少し間を置いた。本の話をしている。暁の口は本の話をしている。しかし暁の身体が覚えているのは、ガロア理論の手書きの式でもクーンの英語の活字でもなかった。腕を掴まれた場所の温度。手を繋いだ温度。「座りな?」の声。「また来ればいい」の一言。暁の頭と暁の身体が、別のものを記憶していた。

「……桐生さん」

「ん」

「……ありがとう、ございます」

 暁はそう言った。暁が感謝の言葉を使うのは珍しい。施設では「ありがとうございます」は暁の語彙に含まれていなかった。暁に何かをしてくれる人間がいなかったからだ。暁がこの言葉を使い始めたのは、桐生と一緒にいるようになってからだ。学食で食券を代わりに買ってもらったとき。本を貸してもらったとき。金平糖を一緒に食べてくれたとき。暁はそのたびに「ありがとうございます」を言ったわけではない。ほとんど言わなかった。暁の中に感謝の感情があるのかないのか、暁自身にもわからない。しかしいま、暁の口からその言葉が出てきた。

 桐生は暁をじっと見た。暁のことを、いつもより長く見ている。暁はそれを検知していたが、何秒が「いつもより長い」のかの基準がない。

「どういたしまして」

 桐生はそう返してきた。穏やかな声。しかし、桐生の声の中に、暁には検知できない程度の変化があった。声がいつもよりほんの少しだけ柔らかくなっている。暁はそれを意識の表面では受け取れなかった。ただ、暁の身体のどこかが、桐生の声の温度を、記録していた。

 桐生は暁の隣に座って、窓の外を見ている。暁は気づいていなかったが、桐生の視線は窓の外ではなくガラスに映った暁を見ていた。暁の口元がさっき、ほんの一瞬だけ、動いたことに桐生はまだ内心動揺している。桐生の手がジーンズの膝の上で軽く握られている。暁の方に伸ばしかけて、止まっている。暁はその手に気づいていない。

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