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見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第7章 見えない閾値

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#9 境界条件の書き換え

 暁が草に触れても枯れないことを確認してから数日が経った頃、ウッドデッキに座って木々を眺めていると、視界の端で何かが動いた。

 茶色と白のまだら模様。痩せていて、毛が少し汚れている。野良猫だった。山奥のこの場所に人間はいないけれど、猫はいるらしい。猫は庭の端にある大きな石の上にちょこんと座って、五メートルほどの距離から暁を見ていた。黄色い目で、じっと。暁も猫を見ていた。

 暁には猫の目が読めなかった。暁が表情を読めるのは桐生の顔だけで、猫の黄色い目が何を考えているのかはわからない。けれど猫も暁を見ている。二つの目が向き合っている。暁は手を出さなかった。猫は哺乳類だ。心臓があり、血液が循環していて、神経系が全身に走っている。虫よりもずっと人間に近い構造を持つ生き物だった。暁の手が触れたら死ぬかもしれない。

 猫がしばらく暁を見てから、石の上から降りて、庭の奥へ消えていった。暁はその後ろ姿を見ていた。尻尾がゆらゆらと揺れていて、草の間を縫うように歩いていく。暁の心臓がまだ速い。──猫が暁を見ていた。暁の素手がここにあるのに、猫は怖がらなかった。

 翌日も同じ猫がいた。同じ石の上。同じ姿勢。

 けれど距離が少し縮まっている。四メートルくらいだろうか。暁はウッドデッキに座ったまま動かなかった。猫も動かなかった。山の午後の光が庭に差し込んでいて、猫の毛の茶色い部分が金色に光っている。暁はその色を見ていた。施設では見たことのない色だ。生き物の毛が光を受けて色を変えるということを、暁は知識としては知っていたが、目の前で見るのは初めてだった。

 三日目。猫がウッドデッキの端まで来た。暁が座っている板の上に猫の前足がかかっている。暁の手元まであと一メートル。暁は呼吸が浅くなっていることに気づいている。手を出さなかった。出せなかった。

「来てるね」

 桐生の声が後ろから聞こえた。窓越しに暁と猫を見ていたらしい。暁はうなずいた。

「……はい。毎日、少しずつ近づいてきます」

「暁は?」

「触れません」

 暁の声は小さかった。木や草には触れた。虫は暁の手の上を歩いた。けれど猫は違う。猫の身体は暁の手のひらより大きくて、体温があって、心臓が動いている。暁の手が触れたら猫の心臓が止まるかもしれない。暁にはその可能性を否定するだけの根拠がない。

「触らなくていいよ」

 桐生はそれだけ言って、窓の向こうに消えた。触らなくていい。桐生は暁に触ることを求めない。暁が触らないと決めてもそれを否定しない。暁が自分で決めるのを、桐生はいつも待っている。


 五日目の夕方のことだった。

 山の稜線に日が沈みかけていて、庭の木々の影が長く伸びている。暁はウッドデッキに座っていた。猫がいつもより早い時間に来ていて、暁の足元をうろうろしている。暁は両手を膝の上に伏せて置いていた。手のひらは膝の側に押し当てられて、手の甲が上を向いている。触れない。触れない。暁はそう思いながら猫を見ていた。

 猫が暁の膝のそばに丸く座った。暁の手まで十センチもない距離。猫の黄色い目が暁の顔を見上げている。それから猫は、ゆっくりと、暁の手の甲に頭をこすりつけた。

 暁の素手に猫の頭が触れた。

 暁は息が止まった。触れたのは暁ではない。猫の方から来た。暁の手がそこにあったから、猫がすりついてきた。暁にはそれを止める方法がなかった。桐生が暁の頭を撫でてもいいかと訊いたあの最初の日、暁のルールには「触れられてはいけない」がなかった。猫の接触も同じ構造だった。暁から触れたのではない。猫の方から来た。

 猫がさらに頭を低くして、暁の手の下にもぐり込んだ。暁の手のひらが膝の表面から浮いて、猫の頭の上に乗る形になっていく。下から押し上げてくる小さな力で、暁の手の位置がゆっくり動かされている。

 猫の毛の感触が暁の手のひらにある。柔らかいけれど、少しごわついていて、毛の下から猫の体温が暁の皮膚に入ってくる。暁の手のひらの下に猫の頭蓋骨の丸い形がある。小さい。桐生の頭を撫でたときより、ずっと小さくて軽い。猫が頭を押しつけてくる力は弱くて、けれどはっきりとそこにかかっていた。

 猫の喉から低い振動が聞こえた。暁の手のひらにその振動が伝わってくる。

「ゴロゴロ言ってるね」

 穏やかな声。桐生がいつの間にか暁の隣に座っていた。暁の右手のすぐ脇に桐生の左手があって、指の側面が暁の指に触れている。いつからいたのだろう。暁は気づかなかった。猫と暁の手のひらのあいだで起きていることに、暁の全部が集中していたから。

「猫がリラックスしてるときに出す音だよ」

「リラックス」

「気持ちいいんだと思うよ」

 暁は猫をじっと見ていた。暁の手が毒なら猫は苦しむはずだ。嫌がるはずだ。逃げるはずだ。猫は逃げていない。暁の手に頭をすりついて、喉を鳴らしている。暁の手のひらの下で、生きている。暁の手を、気持ちいいと感じている……らしい。

 猫がしばらく暁の手にすりついてから、ふいに立ち上がった。暁の手からするりと離れて、庭の方にゆっくりと歩いていく。草の上を歩いて、木の根元に座った。暁から五メートルの距離。最初に猫が石の上にいた距離に戻っている。

「……生きてます」

 暁の声がかすれた。

「うん」

「一回だけでは何も言えませんけれど……でも」

「明日も来るかもね」

 桐生の声には力が入っていなかった。暁がそこから何を導くかを桐生は待っている。

 翌日も猫が来た。暁の手にすりついて、喉を鳴らして、しばらくして庭の方に帰っていった。その翌日も来た。その翌日も。

 暁は毎朝、ウッドデッキに座って猫を待つようになっていた。検証として待っているのか、猫に会いたくて待っているのか、暁自身にもわからない。毎回猫は暁の手にすりついて喉を鳴らして、生きたまま帰っていく。

 ある朝、暁は猫の身体をよく見た。猫は痩せている。肋骨の形が毛の上から透けて見えるほど細くて、毛は絡まっていて汚れている。この山奥にろくな餌がないのだろう。暁は猫の身体を見て、ふと桐生が暁のために食事を作ってくれたことを思い出していた。暁がカロリーメイトしか食べなかった頃に、桐生が学食に連れていってくれたこと。暁がカレーと言ったら、桐生がにんじんを切って、カレーを作ってくれたこと。暁の食事は桐生が変えてくれた。

 暁は桐生を振り返った。桐生はキッチンで朝のコーヒーを入れているところだ。窓から差し込む朝の光が桐生の横顔を照らしていて、コーヒーの湯気が桐生の指先のあたりで揺れている。

「桐生さん」

「ん?」

「猫にご飯をあげてもいいですか」

 桐生がマグカップを置いて暁を見た。暁が猫にご飯をあげたいと言っている。暁が一方的に決めていた頃の暁ではなかった。猫にご飯をあげるという小さなことを暁は一人で決めずに桐生に訊いている。検証の一環なのか、猫が心配なのか、暁自身にもわからなかった。けれど暁は桐生に訊いた。

「いいんじゃない」

 桐生が軽く返した。

「少し、待っててくれますか」

 膝の上の猫に暁は初めて話しかけた。言葉が通じないことはわかっていても、膝の上でリラックスしている猫を除けてしまうことに抵抗感があった。痩せ細った猫にご飯をあげたい。だから「待ってて」という言葉になった。

 暁は施設が届けた食料の中から桐生に訊きながら猫が食べられるものを見つけて、皿に移してウッドデッキに置いた。猫がそろそろと近づいてきて、暁の手のすぐそばで食べ始めた。猫の顎が動くたびに耳がぴくぴくと動いていて、暁はその動きを見ていた。食べている。暁が出したものを食べている。猫は暁を管理する存在でもなく、暁が管理する対象でもない。ただそこにいて、暁が出したものを食べているだけだった。

 それが日課になった。暁が毎朝、ウッドデッキに皿を出す。猫が来る。食べる。暁の手にすりつく。喉を鳴らす。しばらく暁の膝のそばで丸くなって、帰っていく。暁はその時間を毎朝過ごすようになっていた。


*****


 日が経つにつれて、猫が変わっていった。

 毛の絡まりがほどけてきた。汚れが減った。身体に肉がついてきて、肋骨の形が見えなくなった。毛艶がよくなって、朝の光を受けると猫の毛が柔らかく光る。暁が毎日餌をやって、暁の手が毎日猫の背中を撫でている。暁の手が触れているものが死に向かっていなかった。暁の手の下で、猫は太って、毛が綺麗になって、生きている。

 桐生が暁の隣に座った。暁の肩に桐生がもたれかかってきた。猫の背中の毛をしばらく見てから、桐生が口を開く。

「暁。この模様、何だと思う?」

 桐生の指が、猫の背中の茶色と白の境界をなぞった。茶色の斑が点在していて、白の地に不規則に分布している。境界線は直線ではなく、湾曲していて、けれど完全な円でもない。斑の大きさは小さいものから少し大きいものまであり、間隔にも疎密がある。

 暁は猫の毛を見ていた。境界の形。色の分布。斑の間隔。

 暁の頭が動いた。

「……反応拡散方程式の解、です」

 指先が猫の背中に置かれたまま、声だけが出ている。

「∂u/∂t = Du·Δu + f(u,v)。∂v/∂t = Dv·Δv + g(u,v)。二つの物質が反応しながら拡散する系です。抑制側の拡散係数 Dv が活性側の Du より大きい場合、均一な状態が自発的に破れて、不均一なパターンが立ち上がります。縞、斑点、まだら」

「そう。チューリングパターン」

 桐生は短く呟いた。

 間があった。猫の喉の振動が暁の手のひらに伝わっている。桐生が一度息を吸って、吐く。

「暁が紙に書いて俺に見せた式、あれと同じ構造だよ」

 暁の手が止まった。

 頭の中で猫の背中の模様と、暁がキッチンのテーブルの上で桐生のために書いたグラフとが、重なる。dC/dt = −k_e·C + Σ D_i·δ(t − t_i)。dT/dt = α·C − β·T。二つの変数が互いに影響しながら時間発展する系。チューリングの方程式と、構造が同じだった。暁が書いていたのと同じ構造で、自然はすでに動いていた。猫の背中の上で。

「……知っています」

 暁の声がかすれる。

「チューリングパターン。知っていました」

 長い間があった。

 暁は何も言わない。猫の喉だけが鳴っている。山の朝の光が、暁の手と猫の背中の上にまだ落ちている。暁の指先が、無意識に、模様の境界をなぞった。茶色と白の境を、暁の指がたどっている。

「……なぜ気づかなかったんですか」

 暁の声は静かだった。叫んでいない。問いかけの形をしているが、桐生に向いていない。暁が自分自身に訊いている。

 桐生はしばらく答えなかった。猫の背中を見ている。それから一度だけ言った。

「知ってたんだな」

 それ以外は言わなかった。

 暁の頭の中で計算がほどけていく。桐生の中毒は医学の問題だと、暁はずっと思っていた。施設で習った身体のメカニズム、薬理学の範囲、医師の領分。暁の数学の外側にある──そう暁は決めていた。だから自分の知っている数式を、その問題に当てはめる選択肢が、暁の手順の中になかった。

 暁の中の数学が、桐生に届かなかったわけではない。暁が桐生の問題を、数学の射程に入れていなかった。

 施設は暁に「お前の体質は医学的に特殊なものだ」と教えた。教えたことで、暁の中に区切りができた。暁の数学はこちら側のもの、暁の体質はあちら側のもの。施設の仕切りが、暁の数学の境界線を引いている。

 チューリングパターンは暁が知っていた数学だった。猫の背中の模様も、桐生の体内の濃度の波も、暁が教科書で読んだ反応拡散の同じ式で記述できる。暁が、それを使えると思っていなかっただけだった。

 暁の指がまだ猫の毛の上にあった。

「桐生さん、猫が太りました」

「うん。暁がご飯あげてるからね」

「……僕の手が触れている生き物が、弱るのではなく、元気になっています」

 桐生は暁を見ていた。桐生の目の中に暁が以前は読めなかったものがある。いまは少しだけわかる。桐生が暁を見ているときの目の温度。暁がそこに到達するのを桐生はずっと待っていたのだろう。


 ある朝のことだった。

 暁がウッドデッキに座って猫の背中を撫でている。猫の毛が最初に来た頃よりずっと柔らかくなっていて、暁の素手が猫の背中の上をゆっくり動くたびに猫の喉が鳴る。山の朝の光がウッドデッキに差し込んでいて、暁の手と猫の背中を一緒に照らしている。風が木々を揺らしていて、遠くで鳥が鳴いている。暁の手のひらの下に猫の温度がある。桐生の温度とは違う温かさだった。けれど温かい。暁の手が受け取れる温度がこの世界には一つではないことを、暁はいま手のひらの上で知っている。

 暁の目が滲んだ。

「……僕の手は、全部を殺すわけじゃない」

 声がかすれていた。十八年間、暁の手は全部を壊すものだと信じていた。施設がそう教えた。暁はそう信じて手袋をはめて、素手で何にも触れずに十八年間を過ごした。いま暁の素手が猫の背中にある。猫は死んでいない。死ぬどころか太って毛艶がよくなって、暁が触れるたびに喉を鳴らしている。暁の手が殺さなかった生き物がここにいる。暁の手の下で、生きている。

 桐生が暁の隣に座った。暁の涙を拭わなかった。暁が泣いているとき、桐生はいつもそうする。そばにいて、暁の涙が止まるのを待つ。止めない。拭わない。ただそこにいる。桐生の手が、猫の背中に置かれていない方の暁の手の上に、そっと重ねられた。重さは加わらない。ただ重ねられているだけの手だ。

「暁」

「……はい」

「聞いてないのと、存在しないのは違うよ」

 暁は桐生を見た。涙がまだ頬にあるまま、桐生の目を見た。

 聞いてないのと、存在しないのは違う。暁は施設で「お前の手は毒だ」と聞いた。けれど「お前の手が安全に触れられるものもある」とは聞いていない。聞いていなかったから存在しないと思っていた。暁の数学では定義されていないものは使えない。定義にないものは存在しない。暁はそう判断してきた。けれど桐生が言っていることは違う。定義されていないだけで存在しないとは限らない。

 施設が暁に教えなかっただけで、暁の手が安全に触れられるものはこの世界に存在していた。施設が暁に渡した前提の外側に、暁がまだ知らない変数があった。

 暁の手が猫の背中にある。猫が喉を鳴らしている。暁の涙が頬を伝って顎を通り、手の甲に落ちた。けれど暁の手のひらには猫の温度がある。暁の手が壊さなかったものの温度が、暁の手のひらの上にある。

「……僕の毒は、人間にだけ効くのかもしれない……」

 暁はそう言った。声は静かだった。十八年間信じていたことが変わっている。「僕の手は全部を壊す」ではなかった。暁の手は木を枯らさない。草を殺さない。虫を殺さない。猫を殺さない。猫を太らせた。暁の手が安全に触れられるものがこの世界にはあった。全部ではなかった。

 暁は自分の手を見た。十八年間何にも触れなかった手。いまこの手は樹皮のざらつきを知っている。風の温度を知っている。虫の脚のくすぐったさを知っている。猫の毛の柔らかさを知っている。暁の手が触れられるものがこの世界にある。全部ではない。人間に触れれば毒となる。桐生にも。それでも暁は桐生に触れている。触れることを選んでいる。

 猫が暁の膝の上で丸くなった。暁の素手が猫の背中を撫でている。猫の喉が鳴り続けている。暁の手のひらにただ温かいものがある。

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