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見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第7章 見えない閾値

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#10 ∀ε>0,∃T>0:t>T ⟹ |A(t)-K|<ε

 桐生が血を飲んだ後、暁の中で何かが変わった。

 暁の手が桐生に触れているとき、暁の指先に以前はなかった感覚がある。桐生の体温だけではない。桐生の身体の内側にある何かを暁の指先がかすかに感じ取っていて、それは数値ではなかった。暁の頭が出す計算結果とは別の回路で、暁の身体が桐生の状態を読んでいる。

 暁はその新しい感覚をまだうまく扱えなかった。完全な制御ではない。桐生の中にある毒の濃度を暁の指先が「なんとなく」感じ取っている。「なんとなく」暁がこれまで使ったことのない言葉。暁の頭は「なんとなく」を信用しないが、暁の指先は確かに何かを受け取っている。

「なんか違う?」

「……わかりません。でも、指が何か拾っている気がします」

 指先に受け取っている「何か」を解析しようとしていたとき。桐生に訊かれて暁は素直に答えた。桐生がくすりと笑う。

「気がする、って暁が言うの珍しいな」

「自分でも変だと思います」

 暁は呟いて自分の手を見た。自分の素手。十八年間手袋の下にあった手。この手で所長の手首を掴み、この手でナイフを握り、この手で自分の前腕を傷つけた。同じ手が桐生に触れている。同じ手が桐生の温度を受け取っている。暁の手の用途が変わっている。

 道具としての手から、感じるための手に。

 暁はその変化を言語化できないが、暁の指先がそのことを知っている。


*****


 閉じた世界の日常が続いている。

 朝、暁が目を覚ます。桐生が隣で眠っている。布団の中で、桐生の腕に暁の腕がもつれていて、暁の素肌に桐生の素肌が触れている。何も隔てるものがない。暁はその状態のまま目を覚ますことに、最近少しずつ慣れてきている。桐生の顔を見る。

 桐生の顔色を確認していいるが、以前は計算で行っていた管理を暁はいま感覚で行おうとしている。

 肌の色、目の下の影の有無、呼吸の深さ。暁はそのすべてを桐生の寝顔から読み取ろうとしている。桐生の目の下の影が薄くなっている。暁の指先が確認するまでもなく、暁の目がそれを見ている。血を飲んだ後から桐生の身体が安定してきている。震えの頻度が減っている。体温の揺れ幅が小さくなっている。完全には治っていない。治ることはないだろう。けれどゼロには向かっていない。それどころか、いまは──かなり健康に近い。

 暁の素手が桐生の額に触れる。体温を確認している。暁が発熱した日に桐生が暁の額に手を当てたのと同じ動作で、あのとき暁は「施設のモニターとは違う」と感じていた。いま暁が桐生にしていることもモニターとは違う。暁の素手が桐生の額に触れ、暁の指先が桐生の体温を受け取る。

 数値ではなく温度として。暁はそれを計算ではなく感覚で判断しようとしている。まだ計算が走ろうとする。暁の頭が自動的に数値を出そうとする。しかし暁はそれを止めようとしている。止められないこともある。暁の頭は十八年間そう訓練されてきており、数値への変換は暁の身体に刻み込まれている。けれど暁は止めようとしている。そのことが変化だった。

「桐生さん。今日はどうですか」

 暁は目を覚ました桐生に訊く。聞いている。暁が桐生の状態を桐生に訊いている。以前は訊かなかった。暁が一方的に判断して一方的に管理していた。いまは違う。暁は桐生に訊く。桐生の意志を確認し、桐生がどう感じているかを桐生に聞く。暁はまだ聞くことに慣れていない。聞くことは暁にとって計算を手放すことであり、暁の安全圏を出ることだ。

 数値は暁を裏切らない。

 感覚は不確かだ。桐生の言葉は暁の計算と一致しないことがある。暁はその不一致を受け入れなければならない。それが暁にとっては怖い。けれど暁は訊いている。

「ん。悪くない」

 桐生がまだ半分眠りながら答える。暁はその「悪くない」を受け取る。もう少し触れていていい。桐生がそう言っている。暁はその言葉を受け取って、素手を桐生の背中に回してもう少しだけそこにいた。暁の指先が桐生の温度を感じている。昨日より少しだけ下がっている。暁の指先がそう言っている。暁の頭はまだ三十七度一分という数字を出そうとしているけれど、暁は指先の感覚の方を信じようとしている。

「暁の手、あったかくなった」

 ゆるりと暁の頭を撫でながら桐生が柔く言った。

「……そうですか」

「前はもっと冷たかった。施設出たばっかのとき」

 桐生の声はまだ眠りの中にあった。暁は桐生の背中に回した手を離さずに、言葉を受け取っていた。施設を出たばかりの頃の自分の手。暁にはその記憶がデータとしてしか残っていなくて、桐生がそれを温度の記憶として持っていることが暁の中で何かを揺らした。

「覚えてるんですか」

「覚えてるよ」

 桐生の声は眠そうだった。桐生がまだ半分眠っている声で暁の手の温度の変化を覚えていると言っている。暁は施設を出たばかりの頃の自分の手の温度を覚えていなかった。暁にとって自分の手の温度は計測対象であって記憶対象ではなかったからだ。桐生は暁の手の温度を記憶している。暁にとってはデータだったものを桐生は記憶として持っている。

 二人で調整している。一方通行ではない。暁が決めて桐生が従う構造から、暁が聞いて桐生が答える構造に変わっている。完全ではない。暁はまだ「聞く」ことに慣れていない。暁の頭はまだ計算をしたがり、暁の指先が「なんとなく」の感覚を出しても暁の頭はそれを数値に変換しようとする。けれど暁は桐生に訊くことを覚えた。暁の中に「桐生の意志を聞く」という手順が追加されている。

 暁は朝食を作った。味噌汁と白ごはんと卵焼きとお浸し。暁の卵焼きは甘い。桐生が好きだと言ったから砂糖を多めに入れている。暁は砂糖の量を計算で出したが、桐生に「どのくらいの甘さがいいですか」と訊いた。桐生が「もうちょい甘い方が好き」と答えて、暁はその「もうちょい」を砂糖の量に変換した。計算はまだ走っている。けれど入力に桐生の言葉が含まれている。暁の計算の入力が、暁の観測データだけではなく桐生の言葉も含むようになっている。

 食事の後、二人で並んでウッドデッキで座っている。暁の素手が桐生の手を握っている。指と指のあいだに何もない。暁の指の温度と桐生の指の温度が直接触れている。以前は手袋越しだった。いまは隔てるものが何もなく、温度がそのまま入ってくる。暁はその温度を少し大きいと感じた。手袋越しに受け取っていた温度よりも、素手で触れる温度は暁の中に以前よりも深く入ってくる。

「……温かいんですね」

 暁はそう呟いた。味噌汁を初めて飲んだときと同じ言葉。暁にとって温度の発見は何度あっても新しいらしい。暁は同じ言葉で同じ感覚を繰り返し発見している。けれど毎回少しだけ深い場所でその温度を受け取っている。手袋越しの温度よりも素手の温度が深い。暁の温度の受容器が暁の身体の奥に向かって広がっていっている。

「お前も温かいよ」

「僕もですか」

「うん。最初は冷たかったけど」

 桐生が少し笑った。暁は桐生の笑顔を見ている。桐生の笑顔は暁の中で特別な位置にある。暁が表情を読めるようになったのは桐生の表情を通してであり、桐生の笑顔は表情の原点だった。その笑顔を見て、暁の口元がわずかに動いた。暁の笑顔はまだ不完全だ。口元の動きが左右で少しだけずれていて、暁自身はそのことを知らない。


*****


 ある夜、食事を終えて暁と桐生がソファに並んで座っていた。暁の素手が桐生の手を握っていて、暁の指先が桐生の体温を受け取っている。穏やかな時間。完成していない。完全ではない。毎日が手探りだ。昨日大丈夫だった接触時間が今日も大丈夫とは限らず、離れすぎれば桐生に離脱症状が出るし、触れすぎれば中毒が進む。見えない閾値を暁は毎日探っている。数値ではなく感覚で。まだ感覚だけでは足りず、暁の頭が補助的に計算を走らせることもある。けれど計算だけではなくなっている。暁の指先が、暁の身体が、桐生の状態を数値ではない何かとして受け取っている。

 だが、桐生が血を飲んだのを境に安定した状態と接触時間の上限がはるかに安定したのも事実だ。血を飲んだことで暁が桐生の状態を「なんとなく」わかるようになったのは副次的な作用だろう。暁はその副次作用を想定もしていなかった。数式でも医学でも説明しようのない状態。けれど、その状態も暁は素直に受け取る。

 暁はふと、自分がしてきたことを振り返った。

 桐生に手袋越しで頬に触れた。「触ってもいいですか」映画館で「好き」を知り、告白して、キスをして、桐生に自分の体質を伝えた。離れようとして逃げた。桐生が追わなかった。暁が限界を超えて戻った。手首に巻かれたものを踏み砕き、手袋を捨て、所長を脅した。閉じた世界に来て管理した。桐生に施設の話をして、「同じだ」と言われて、図を描いて前腕を傷つけて「嫌なんです」と叫んで泣いた。桐生が自分の意志で暁の血を飲んでくれた。──リスク完全に除去できなかったが、セックスを、した。

 暁はその全部を振り返って、暁の中に一つの疑問が浮かんだ。暁がしてきたことの全部は何だったのか。「好き」だから前腕を傷つけたのか、「好き」だから叫んだのか、「好き」だからセックスをしたのか。「好き」では説明がつかない。暁は映画で「好き」を取得し、他人の恋愛を観測して自分の感情と照合した。「好き」は他者から借りた語彙だ。けれど暁がしてきたことの中には借りた語彙では説明できないものがある。

 前腕を傷つけたことは「好き」では説明できない。「嫌なんです」と叫んだことも「好き」では足りない。暁の行動の全部を覆う言葉が暁にはなかった。

 暁の中で何かがゆっくりと形を取り始めている。暁がしてきた全部のこと。桐生のために暁が使った全部の手段。暁の図、暁の血、暁の涙、暁の「嫌」全部が一つの名前に向かって収束していく。暁はその名前を外部から取得するのではない。暁の中に、暁の行動の中に、最初からあったものを暁がいま認識しようとしている。

 自然と暁の頭の中に計算式が浮かんだ。まだ、暁にとっては言葉よりも数式の方が早く感覚を表現してしまう。

 暁は桐生の手を離した。ソファの前のローテーブルにあったペンを取り、ノートではなくメモ用紙に浮かんだ数式を書いた。


 ∀ε>0,∃T>0:t>T ⟹ |A(t)-K|<ε


それだけ走り書きすると、暁はペンを離しまた桐生の手を握った。桐生の肩に猫のように頭を擦り付けた。

「……誠さん」

 まだ呼びなれない呼び方。暁がどうしても伝えたいことがあるときに呼ぶ呼び方。けれど、暁の声は穏やかに柔かった。

「ん?」

「……これが、愛してる、ですか」

「そうだよ」

 桐生は短く答えた。即答。

 それだけだった。暁のメモ用紙の式も見ていない。長い説明も定義もなく、ただ「そうだよ」と二文字で。暁が自分で辿り着いた場所を桐生が肯定している。桐生が先に「それは愛だよ」と教えなかった。暁が訊いて、桐生が「そうだよ」と応えた。暁が自分で見つけたから桐生は肯定できる。外から定義を押しつけるのではなく、暁が到達したものを受け取る。桐生がいつもしてきたことと同じ構造。

 ──この世界は、本当に閉じているだろうか。

 ふと、暁は思う。桐生がそばにいて、木々があって、草花があって、葉が風に揺れている。沢の水が流れていて、虫が鳴いて、毎日猫が餌を食べに来ている。暁が触れられるものが施設にいた時よりも、大学に通っていた時よりも、ずっと増えている。それでもこの世界は閉じているだろうか。


 見えない閾値は見えないまま。


 暁と桐生はまだ閉じた世界の中にいる。暁はこの世界を閉じていると定義していいのか迷っている。けれど、閉じた世界の定義も宙に浮かせたまま。

 毎日が手探りだ。暁の指先が桐生の状態を感じ取って、桐生に「今日はどうですか」と訊いて、桐生が「悪くない」と答えて、暁がもう少し触れて、少し離れて、また触れる。完成しない。完全にはならない。暁はそのことをもう知っている。知った上でここにいる。暁が選んだ場所、暁が選んだ人。暁の意志でここにいる。

 暁の素手が桐生の手を握っている。何も隔てるものがない。指と指が直接触れて温度が行き来している。暁の温度が桐生に、桐生の温度が暁に。一方通行ではない。行き来している。暁の手は冷たくない。桐生の手も冷たくない。二人の温度が混ざっている。どちらの温度がどちらのものか、暁にはわからなくなっている。暁の指先が受け取っている温度が暁のものなのか桐生のものなのか。境界が曖昧になっている。暁はその曖昧さを怖いと思わなかった。頭はまだ境界を引こうとしている。暁の温度と桐生の温度を分離して計測しようとしている。けれど暁の指先はもう分離していない。混ざっている。不完全に。

「暁」

「はい」

「なんでもない。呼んだだけ」

 桐生が暁の手を握ったまま穏やかに笑った。暁は桐生の笑顔を見ている。暁もかつて桐生の名前を用件なしに何度も呼んだ。呼ぶだけで何かが満ちた。桐生が同じことをしている。暁の口元がわずかに動いた。

「……変な人ですね」

「お前に言われたくないよ」

 窓の外には木々がある。山の緑が暗がりの中にあって、鳥はもう鳴いていない。暁の視界には桐生がいる。暁の手には桐生の温度がある。暁の中には名前のついたものがいくつかあり、「好き」と「嫌」と「愛してる」暁が持っている言葉はまだ少ない。けれど暁はもう空ではない。暁の中に桐生が入れてくれたものと暁が自分で見つけたものが混在していて、暁はその混在を整理しようとしない。整理しなくていい。暁の中にあるものは暁のものだ。不完全で、曖昧で、数値化できない。暁はそのことを受け入れ始めている。

 桐生の手が暁の手を握り返した。暁が握っていた手を桐生が握り返して、二人の指が絡んでいる。暁の指のあいだに桐生の指がある。桐生の指のあいだに暁の指がある。どちらが握ってどちらが握られているのか、暁にはわからない。どちらでもある。

 暁は桐生の手を握ったまま、目を閉じた。

 暗い。暁が目を閉じると暗い。施設で天井を見ていた頃、暁は目を閉じても何も感じなかった。いま暁は目を閉じても桐生の温度を感じている。暁の指先に桐生の温度がある。暁の肩に桐生の肩が触れている。暁の耳に桐生の呼吸が聞こえている。暁は目を閉じても一人ではなかった。暁の中に桐生がいる。暁の指先に桐生がいる。見えない。見えないけれど、いる。

 見えない閾値を暁は探し続ける。毎日、指先で。完全には見つからない。見つからないまま、暁は桐生の手を握っている。不完全な温かさの中で。


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数学や物理の言葉が、主人公の感情の輪郭を描くために使われているのがとても印象的で、定数、変数、閾値、境界条件といった言葉が、単なる雰囲気づくりではなく、彼が世界を理解するための言語として機能していて、…
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