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見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第7章 見えない閾値

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#8 スコープ外の解

 桐生が玄関の扉を開けたのは、ある晴れた朝のことだった。

「暁。外の空気、吸おうよ」

 暁はソファの端に座って桐生の数式のノートを眺めていた。桐生の声が聞こえて顔を上げると、桐生は玄関の引き戸に手をかけていて、引き戸の隙間から木の匂いがする風が流れ込んできていた。

「外、ですか」

「ずっと中にいるだろ。ここ、外あるじゃん」

 暁はこの山小屋に来てからほとんど外に出ていなかった。それこそ、先日桐生が外に出て真希を割ると言い出すまで、外に出るという選択肢が暁の中に存在しなかったからだ。施設にいた十八年間、暁の世界は建物の内側だけだった。都内のマンションに移ってからも暁が外に出たのは大学に行くためと食料を買うためで、目的のない外出は暁の手順にほぼ含まれていない。ここに来てからも暁は室内にいた。桐生の接触時間を管理して、食事を用意して、桐生のそばにいた。窓の外に木々が見えていることは知っている。けれどそこに出ていこうとは考えなかった。

 桐生が引き戸を開けた。暁の前に外の空間がある。

 木があった。暁が知らない種類の木が何本も立っている。幹の太さも枝の広がり方もばらばらで、施設の廊下のような均一さがどこにもない。空が見えた。天井ではなく空だった。施設では天井しか見たことがない。マンションの窓からは隣の棟のベランダしか見えなかった。大学では空を見上げようという発想がなかった。ここには空がある。高くて、端がない。鳥の声が聞こえている。吹き飲んでくる風が暁の髪を揺らした。

 桐生が先に出て、振り返った。暁を待っている。手を差し出してはいないけれど、桐生の身体が暁の方を向いている。いつもの構造だった。桐生が先に行って、暁が来るのを待つ。

 暁は一歩外へ踏み出した。素足に地面の冷たさが触れる。土の湿り気が足の裏に伝わってきた。暁の素手が体の横にある。手袋はもうない。暁の手は空気に触れている。

 桐生の隣に行くと手が暁の背中の真ん中に軽く触れて、すぐに離れた。押す力ではない。「ここにいる」と暁の身体に伝える程度の重さ。

 風が暁の指のあいだを通り過ぎた。

 暁の身体が硬くなった。暁の手に触れたものは害を受ける。十八年の施設の刷り込みがそう言っている。けれど風は生き物ではない。暁の指のあいだを抜けて、そのまま通り過ぎていった。暁の指先には何の変化もない。風にも何の変化もない。

「……風は、何もしないんですね」

「うん」

 桐生の返事は短かった。暁にとっては当然ではなかった。暁の手に触れたものが無事であることは、確認が必要なことだった。

 暁は翌日から外に出るようになった。

 最初は山小屋のウッドデッキに座っているだけだった。ウッドデッキに腰を下ろして、目の前の木々を見ている。施設では見たことのない景色だった。光が木の葉を通り抜けて地面に模様を作っている。暁はその模様を見ながら、自分の素手を見ていた。

 三日目の朝、暁は桐生に言った。

「桐生さん。検証したいことがあります」

「何の?」

「僕の素手が生き物に何をするか。知りたいんです」

 桐生が暁を見た。暁のノートを初めて覗き込んだときと同じ光が桐生の目の中にある。何かの構造を読もうとしている目。

「どうやって?」

 短く訊ねられた。声が初めて桐生に話しかけられた時のように軽やかだった。

「まず触れても害のないと思われるものから始めて、段階的に対象を変えていきます。石や水のような生命のないものを最初に、次に植物、それから動物」

 暁は安全な方法を整理しながら呟くように言葉を紡ぐ。桐生は少し考えてから口を開いた。

「暁。それ、比較対象は? 触れたものだけ見ても、触れなくても同じ変化が起きてたら区別つかないよ」

「……確かに」

「あと、何回触れたら結論にする? 一回だけだと偶然かもしれない」

 暁は桐生をじっと見ていた。桐生が暁の検証を否定していない。検証の精度を上げようとしている。暁の数学と桐生の物理が、同じ対象に向いた。施設では暁の数式を読む人間は誰もいなかった。ここには桐生がいて、暁が設計した検証に参加しようとしている。

「比較対象として触れていないものを隣に置きます。回数は……一回では足りないですね」

「足りなくても仮説は立てられる。完璧なデータが揃うのを待ってたら何も始まらない」

 暁は桐生を見た。桐生の物理が、暁の数学とは別の場所から出発している。

「数学では不完全な前提から結論を出しません」

「だから暁だけだと進まないんだよ。不完全な仮説でも置いて、観測して、修正する。そういうやり方もある」

 暁はその言葉を受け取る。不完全な仮説を保留したまま先に進む。暁の数学にはない操作だ。けれど桐生の言うことはわかる。それを体現しているのが桐生という存在だ。暁がいま触れようとしているのは数式ではなく現実であり、現実には完全なデータは存在しない。


*****


 翌日、ウッドデッキの外に出た暁はしゃがみこんで素手で石を握った。

 手のひらの中に石の重みと冷たさがある。三十秒ほど握って、手を開いた。石は石のままだった。色も変わらず、形も変わらず、暁の手のひらの上にある。

 山小屋の近くの沢の水に手を浸した。山から流れてくる水は冷たくて、暁の指先がきゅっと縮む。水は暁の指のあいだを通って流れ続けている。暁が手を引き上げても、水は同じように沢を下っていく。

「石と水には何も起きません」

 ほっとして、暁は呟いた。

「そりゃそうだよ」

「桐生さんには当然でも、僕には確認が必要です」

 桐生はそれ以上何も言わなかった。暁が石を握って確認する行為を、桐生は笑わない。暁にとってこれは必要な手順であることを桐生は理解している。

 けれど桐生が地面を指さした。

「暁。さっき石を拾ったとき、土にも触ったよね。昨日、外に出た時は素足だったし」

「……はい」

「土って、微生物の塊だよ。肉眼で見えないけど、生き物がたくさんいる」

 暁の手が止まった。暁の指先は石を拾うときに土に触れていた。今日は靴を履いているが土の中にいる微生物がどうなったか、暁には確認する手段がない。山小屋には顕微鏡もなく、土を培養する設備もない。

「……確認できません」

「うん。でも土は変色してないし、腐ってもない。目に見える範囲では変化がない」

「……目に見えない範囲では確認できません……」

 無機物からと段階を決めていた暁には微生物であろうとも生き物であることには変わりない。

「だから保留するんだよ。確認できないものは結論を出さない。次の段階で絞り込む」

 暁はその言葉を受け取った。保留する。暁の数学では証明できないものは使えなかったが、桐生の物理では仮説として置いておくことができる。暁の中に新しい操作が加わっている。完全ではないデータを持ったまま、次に進む。

 山小屋の横に大きな樫の木がある。

 暁はその木の前に立った。石や水とは違う。木は生きている。幹の中を水が通り、葉が光を受け、成長している。暁の手が触れたら枯れるかもしれない。暁はそう思って、手を伸ばせなかった。

 一日目。暁は木の前に立ち、手を伸ばそうとして、やめた。手が体の横に戻っていく。暁の指先が震えている。木の幹まで三十センチ。暁の手は三十センチを越えられなかった。

 二日目。暁はまた樫の木の前に立った。今日は指先が幹に十センチまで近づいた。暁の呼吸が浅くなっている。施設で十八年間かけて刷り込まれた「触れたら壊す」が暁の手を止めている。暁の頭では「石に触っても何も起きなかった」とわかっている。わかっているのに、暁の身体が止まる。頭と身体のあいだにまだ距離がある。

 三日目。桐生が暁の隣にいた。何も言わない。「触ってみたら」とは言わなかった。桐生の手の甲が暁の手の甲に並んでいる。触れているけれど、握ってはいない。暁が手を引きたければ引ける距離だった。暁は引かなかった。桐生は暁が自分で決めるのを待っている。いつもそうだったように。暁がカレーのボタンを押すのを待っていたときと同じように。

 四日目の朝。暁は樫の木の前に立って、息を吸って、手を伸ばした。

 樹皮に触れた。

 暁の全身が硬くなった。指先に樹皮の感触がある。ざらざらしている。施設の壁は滑らかだった。桐生の肌も滑らかだった。樹皮は全く違う。凹凸があって、乾いていて、暁の指先がその起伏の全部を受け取っている。冷たくもなく温かくもない。暁の体温とは異なる、けれど無機物の冷たさとも違う温度。木が持っている温度。

 暁は手を離した。手を見た。暁の指先には何の変化もない。木を見た。木は立っている。葉は揺れている。風が吹けばさっきと同じように枝が揺れている。

 桐生が幹に近づいた。指で枝の付け根をなぞって、それから上を指した。

 暁も顔を上げる。幹から太い枝が二本に分かれていて、その先がまたいくつかに分かれている。さらに細い枝に分岐して、葉のついた末端まで、同じ分かれ方が繰り返されている。

「……フラクタル構造です」

 暁は呟いた。桐生への説明ではない。自分の中で確定させるための声だ。

「D=log N/log(1/r)。N個の自己相似な部分に、r分の一のスケールで分割される。木の枝の分岐次元は、だいたい一・五から二のあいだに収まります」

「そう」

 桐生は短く返した。それ以上は言わない。

 暁の目はまだ枝の分岐を追っていた。同じ構造が繰り返されている。暁はこの構造を知っていた。教科書の中で、ノートに手書きで写した式の中で、計算機が描き出したマンデルブロ集合の図の中で。何度も見ている。けれど、木の枝の中に見たことはなかった。

 翌朝、暁は樫の木を見に行った。枯れていない。暁が触れた場所の樹皮が変色してもいない。その翌日も見に行った。その翌日も。

 一週間が経った。暁の手が触れた木は死んでいない。

「……枯れていません」

「うん」

「でも、この木だけかもしれません」

「じゃあ別の木でも触ってみたら?」

 暁は別の木にも触れた。草にも触れた。草は木より弱いはずで、暁の手が触れたら枯れる可能性が高いと予測していた。けれど草も枯れなかった。暁が触れた草は翌日も緑のままだった。

 桐生がウッドデッキの前の草むらの方にしゃがんだ。

「これ、見て」

 桐生が一本の草を指差した。細い茎の周りに、葉が螺旋状に並んでいる草だった。下から順に葉が出ていて、一枚ずつ少しずつ位置がずれている。

「何度に見える?」

 桐生が訊いてきた。

 暁も屈んで、葉の根元を覗き込んだ。隣り合う葉と葉のあいだの角度を、目で測る。施設で空間幾何の訓練を受けていた暁の目は、角度の見当をつけることに慣れていた。

「……百三十七・五度、くらいです」

「黄金角だよ。フィボナッチから来てる」

 桐生はそれだけ言って、立ち上がった。

「……φ=(1+√5)/2。黄金比です。フィボナッチ数列──一、一、二、三、五、八、十三、二十一……の、隣り合う項の比は、項を進めるとφに収束します。三百六十度に1−1/φを掛けると、ちょうど百三十七・五度になります」

 暁の声に説明の温度はない。記憶の式を口に出して確かめているだけの声だ。

「そう」

 桐生は短く返した。

 暁の目は草の上にある。黄金比の話は施設で習った。フィボナッチ数列はもっと前から知っている。ヒマワリの種の螺旋を撮った写真も、教科書で見たことがある。けれど、暁が今しゃがんで覗き込んでいる、名前も知らないこの小さな草の茎の上に、その数列が並んでいることを、暁は考えたことがなかった。

 ある日、暁が木の幹に手を当てたまま動かないでいると、右手の甲に何かが止まった。小さな虫だった。

 暁は動けなくなった。

 虫は神経系を持っている。暁の毒は神経系に作用する。施設でそう教わった。この虫が暁の手の上で死ぬ。暁の中でその予測が走っている。呼吸が止まる。指先が震えている。払い落とすべきなのか。でも払い落としたら暁が虫に触れたことになる。虫の方から止まったのだ。暁は触れていない。触れられた。

 虫が暁の手の甲を歩いた。六本の脚が暁の皮膚の上を移動していく。くすぐったかった。暁が知っているくすぐったさは桐生の指が触れたときのものだけだ。施設では暁の素手に何かが触れたことがない。虫の脚が暁の手首の方に向かって歩いていく。

 虫が手首の端まで歩いて、飛んだ。暁の手から離れて、木の葉の方に消えていった。生きている。暁の手の上を歩いて、生きたまま飛んでいった。

「……死にませんでした」

 暁の声がかすれていた。

「一匹だけでは何も言えません。でも」

「虫にも心臓があるし、血管もある。神経系だってお前の思ってる通りある。それでも死ななかった」

 桐生の手が暁の肩に置かれている。重さは加わっていない。ただそこに置かれているだけの手だ。桐生の声は穏やかだった。結論は言わない。データを提示しているだけだ。暁がそこから何を導くかは暁に任せている。

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