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見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第7章 見えない閾値

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#5 ゼロ除算の涙

 暁は泣いていた。床に座り込んで、膝を抱えるようにして泣いていた。

 素手が自分の膝を掴んで、指の関節が白くなるほど力が入っている。暁の前腕の内側から血がまだ滲んでいて、ローテーブルの上にグラフの紙とノートとノートでは足りずに暁が写し書きした紙の束がある。暁の足元にペティナイフが落ちている。桐生が暁に果物の皮の剥き方を教えたときのナイフが、暁の足元で金属の光を返している。暁の全部がここにあり、暁が暁の全力で桐生に差し出したもの。

 桐生が何も言わずに暁を見ている。

 桐生はソファに座ったまま暁を見ていた。暁が床に崩れ落ちてから桐生は動いていない。暁の涙を、暁の前腕の傷を、暁が描いたグラフを、暁の震えている手を。全部を見ていた。桐生の目は暁から離れていない。桐生の手は膝の上に置かれていて、かすかに震えている。桐生の身体の震えではない。桐生がこらえている何かが指先に出ている。

 暁は泣いている。暁はまだ言葉を探している。「嫌なんです」と言った。「誠さんが死ぬのは嫌なんです」と言った。「これしかできないんです」と言った。それしか出てこない。暁が持っている語彙の全部を使っても暁の中にあるものを外に出しきれず、暁はいま言語の壁の前にいる。「好き」では足りない。「嫌」だけでは足りない。暁はその二つしか持っていない。その二つのあいだに、暁がまだ名前を持っていない巨大なものがある。

 暁の泣き声が小さくなっていった。叫ぶ力が暁の中から消えていって、暁の声は嗚咽だけになっている。肩の震えが残って、暁の身体が泣き疲れていく。暁は膝を抱えたまま顔を伏せている。髪が額にかかっており、暁の素手の指先が自分の腕を握っている。

 傷のある左前腕に右手が重なっていて、血が暁の指のあいだから滲んでいる。血は時間経過で凝固する。出血を止めてはいけないと無意識のうちに暁は身体に止血させないよう動いていた。傷は刺し傷で、ごく小さい。放っておけばすぐに血が凝固する。指先が傷口の縁を繰り返し搔きむしっていた。止められない。

 ──静かになった。

 暁の嗚咽が止まった。涙はまだ流れているけれど、声は止まっている。暁の身体の震えがゆっくりと収まっていく。暁は顔を伏せたまま動かない。疲れている。全部を出し尽くした後の静けさ。暁の中は空っぽだった。計算も、分析も、管理の論理も、全部が暁の涙と一緒に流れ出ていった。頭の中に数字がない。初めてのことだった。暁の頭から数字が消えている。

 桐生が立ち上がった気配がした。

 ソファから立って、暁の前に来た。暁が床に膝を抱えて座っていて、桐生が暁の前にしゃがんでいる。桐生の膝が床につく。暁の目の高さに桐生の顔があるが、暁はまだ顔を伏せていた。桐生の気配を感じているけれど顔を上げない。顔を上げたら桐生の目を見なければならず、その中にあるものを見たら暁は何をしていいのかわからない。

 桐生の手が暁の左手に触れた。暁の傷のある方の手。暁が自分の腕を握っている右手をそっと外して、桐生の手が暁の左手首を持った。桐生の手の温度が暁の手首に伝わる。暁の指先が冷えていて、桐生の手の温度が暁の冷たい指に入っていく。

 桐生が暁の手首を持ち上げた。暁の前腕の傷口が桐生の顔の高さになった。暁はまだ顔を伏せている。けれど暁の視界の端で、桐生の動きが見えている。桐生が暁の手首を自分の方に近づけている。

 桐生の唇が暁の前腕に触れた。ざらりとした舌の感触。

 暁の目が見開かれ、顔を上げた。桐生の顔が暁の左腕にある。桐生の唇が暁の傷口に触れている。桐生の目は閉じていて、伏せられている睫毛が影を落としている。桐生の唇が暁の前腕の傷に密着していて、血を舌で舐めている。

 暁は何が起きているのか一瞬わからなかった。暁が「飲んでください」と差し出したのに「同じだ」と否定されて暁が泣いた。その後に、桐生が自分の意志で暁の手首を取って自分の口をつけている。暁が一方的に差し出したのではない。桐生が自分で暁の手首を取った。桐生の手が暁の手首を持っている。桐生の唇が暁の傷口にある。桐生の選択。桐生の意志。桐生が自分で決めて、自分で手を伸ばして、自分で口をつけた。

「誠、さん……」

 暁の声がかすれている。泣いた後の声で、喉がまだ痛い。暁は桐生を見ていた。桐生の睫毛が伏せられていて、桐生の唇が暁の前腕にある。桐生の顔が近い。暁の前腕に桐生の息がかかっていて、桐生の唇と舌の温度が暁の傷口に伝わっている。痛い。けれど痛みの向こうに桐生の温度がある。施設で注射針を刺されたときの痛みとは違う。あの痛みは冷たかった。この痛みは温かい。

 桐生の唇が暁の前腕から離れた。桐生の唇にほんのわずかに暁の血が残っている。桐生の目がゆっくりと開いた。桐生の目が暁の目を見ている。

「……飲むよ」

 桐生が呟いた。飲んでから言った。行動が先で言葉が後。暁が桐生の頬に「触ってもいいですか」と訊く前に手が動いたのと同じであり、桐生も行動が先のタイプだった。桐生は暁に訊かれる前に自分で決めて自分で動いた。暁が一方的に差し出したものを桐生が一方的に拒否したのではなく、桐生が自分のやり方で受け取り直した。

「間違いじゃないよ。やり方が違っただけだ」

 桐生は少し笑っていた。視線が柔さを含んでいる。

「……やり方」

「お前が全部一人で決めたことが駄目なんだよ。やることは同じでいい。でも俺に聞け」

 桐生の柔い目が暁を見ている。暁は桐生の目の中に何があるのかを見た。暁が以前は読めなかったもの、暁が桐生の目の中で「変化」としてしか検知できなかったもの。いま暁にはそれが何なのか少しだけわかる。桐生の目の中にあるのは暁と同じものだ。暁の中にある名前のないものと同じものが桐生の目の中にもある。

「暁が全部やったんだろ。図も描いて、ルート潰して、たくさん論文読んで、計算式を書いて、痛い思いして。俺はそれ受け取るだけだよ」

 桐生の声は穏やかだった。いつもの温度。暁はその声を聞いて涙が止まらなくなった。今度の涙は子どもの涙ではなかった。暁の涙が変わっている。処理の問題ではなく、決壊でもなく、悔しさでもなく、子どもの泣き声でもない。受け取ってもらえた涙だった。暁が暁の全部を差し出して、桐生がそれを全部受け取ってくれた。暁のやり方は間違っていた。けれど暁が差し出したものは間違っていなかった。暁が桐生を守りたかったことは間違っていなかった。桐生がそれを肯定してくれている。暁が泣いている。温かい涙。施設にいた頃の暁は泣かなかった。桐生に出会ってから暁は何度も泣いた。そのたびに涙の種類が変わっていく。暁の涙が暁の成長の記録のように変化していく。

 桐生が腕を伸ばしてきて、暁を抱きしめた。床に座り込んでいる暁を、桐生がしゃがんだまま抱きしめている。暁が桐生を抱き返す。手袋がない、素手で。暁の手が桐生の背中に直接触れていて、指先が桐生のシャツを通して桐生の体温を受け取っている。何も隔てるものがない。布地一枚を挟んではいるけれど暁の手は素手だ。暁の手はもう施設のものではなく暁のもので、その手で桐生を抱きしめている。

 暁の素手が桐生の背中に触れている。暁の指先が桐生の温度を受け取っている。温かい。桐生の体温はまだ普通より高い。暁の指先がそれを検知している。けれど暁はいま計算をしていない。暁の頭の中に数字がない。暁の指先が桐生の温度を受け取っていて、それだけだ。数値に変換しない。計算に入力しない。ただ温かいと感じている。

「……ありがとうございます……」

 桐生の肩に顔を埋めたまま暁の声が零れた。かすれた声。喉がまだ痛い。けれど声には温度が戻り始めている。暁の凍った声が少しずつ溶けている。桐生の体温が暁の声を溶かしている。

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