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見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第7章 見えない閾値

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#6 認められない後件肯定

#6 認められない後件肯定


 夜が来た。

 ベッドで暁は桐生の隣で横になっている。寝室の電気は消えていて、窓の外の山の暗さがそのまま部屋の中に入ってきている。桐生の呼吸が暁の左側にある。深く、ゆっくり、規則的。桐生は眠っている。先に眠った。暁の隣で寝息を立てている。

 暁は眠れなかった。目を閉じても暁の頭の中で計算が走っている。桐生が暁の左前腕から血を飲んだ。経口摂取。胃の消化酵素にさらされ、小腸で吸収され、血流に乗って全身に広がる。皮膚接触よりも吸収効率が高い。ピーク濃度は摂取から二時間から四時間後。──暁の頭の中で時計が回っている。桐生が血を口に含んだのが午後八時を少し回った頃。いまは深夜零時半。あと三十分から一時間で桐生の体内の濃度がピークに達する。

 暁の指先が桐生の手首に触れていた。脈を数えている。一分間に七十二。普通の値だ。呼吸は一分間に十六。これも普通。皮膚の温度はいつもの桐生より少し高いように感じるが、誤差の範囲内かもしれない。暁は自分の指先の感覚を疑った。暁は怖くて、温度を高く検知してしまっているのかもしれない。

 桐生がわずかに動いた。暁の手が反射的に引っ込みかけて、止まる。桐生の眉が寄っている。暗い部屋の中で、桐生の表情が変わっているのが暁に見えた。桐生の呼吸が少し浅くなった。

「……桐生さん」

 小さく呼んだが、返事はなかった。桐生はまだ眠っている。しかし眠りが浅くなっている。暁の手が桐生の額に触れた。熱い。さっきまでより明らかに熱い。暁の頭の中で計算が一段階進む。発熱の上昇。経口摂取によるピーク反応。

 桐生が目を覚ましたのは一時を回った頃だった。

「……あき」

 桐生の声がかすれている。喉が渇いている声だった。暁は身体を起こして桐生の顔を覗き込んだ。桐生の額に汗が浮いている。目を開けているけれど焦点が定まっていない。眩暈の症状が出ている。

「動かないでください」

 暁は枕元の水を取って桐生の上半身を起こし、口元に運んだ。桐生が少し口を開けて、水を飲む。半分ほど飲んで、唇を結ぶ。桐生の喉が動いて、それから止まる。胃の方に手をやっている。吐き気が来ているのが暁にはわかった。

「洗面器、持ってきます」

 桐生の体勢を楽にして戻すと暁は寝室を出て、台所から洗面器を持って戻る。手順は施設で教わったものではない。桐生の中毒症状を診た医者がいつか暁に教えた対症療法の手順だった。暁の頭はその手順を再生している。発熱には水分補給と冷却。眩暈には体位の安定。吐き気には洗面器と背中をさする手。──暁の身体は迷わなかった。台所と寝室を行き来する暁の動きには無駄がない。

 桐生はすぐには吐かなかった。

 洗面器を顔の横に置いて、桐生は目を閉じたまま深い呼吸を続けている。吐き気は来ているけれど、吐く一歩手前で止まっている。桐生の手が暁の手首を握っていた。いつ握ったのか暁にはわからない。暁が桐生の額に保冷剤を包んだタオルを置いた時には桐生の手はもう暁の手首にあった。

「だいじょうぶ」

 桐生のかすれた声が零れた。

「副反応だろ。読み通りだよ」

「大丈夫ではありません」

 返事した暁の声が低かった。感情ではない。暁は今、感情に名前を貼る余裕がない。ただ事実の訂正だけが出ている。桐生の体温三十八度二分。脈拍は九十を超えていた。呼吸の数も増えている。暁の手首を握る桐生の指先がわずかに震えている。──これは大丈夫の数値ではない。

「副反応が出ることは、計算に入れていませんでした」

 暁は肩を落とした。桐生の体内で血の濃度がピークに達することまでしか暁は計算できていなかった。暁が参照した方法にはいずれも副反応の項がない。副反応自体は暁も知っている。施設でワクチンを打たれて発熱した時、技師が無感情に「副反応だ」と言っていた。

「入れてなくても、出るときは出るよ」

 桐生が目を閉じたまま、唇だけで返してくる。

「皮膚接触と経口摂取で吸収率が違うことは僕の予測に入っていました。それでも僕は副反応の項を立てませんでした。立てれば、僕は止めていました」

「止めなくてよかったんだよ」

 桐生がそう言って、暁の手首を握る指の力を少し強める。暁は朝までそばにいた。

 隣で桐生の呼吸が深くなったり浅くなったりするのを、暁は数値に変換しないで聞いていた。保冷剤とタオルを替えて、水を飲ませて、洗面器の位置を直して、桐生の額に手を置いて。暁の手順は止まらなかった。けれど暁の頭の中の数式は黙っていた。桐生が死ぬかもしれないという、計算ではない何かが、暁の頭の計算を黙らせていた。

 明け方、桐生の熱が下がり始めた。窓の外の山が薄く青くなっていく。鳥が鳴き始める。桐生の呼吸が深く落ち着いていって、指先の震えが止まった。額の汗が引いている。脈が七十台に戻っていく。桐生はまだ眠っていた。

 暁は桐生の隣に座ったまま、桐生の呼吸を聞いていた。一晩がとてつもなく長かった。

 ──翌朝、桐生は普通に起きてきた。

「腹減ったー」

 寝室の方から声がした。暁が桐生の朝食を作っていたところに、桐生が寝室から出てきている。伸ばしっぱなしの髪が寝癖で跳ねていて、Tシャツがよれている。けれど顔色はいい。昨夜の発熱の名残が桐生の表情にない。

「……起きて大丈夫なんですか」

「うん。眩暈もないし」

「桐生さんの体温を測ってもいいですか」

「いいよ」

 暁が体温計を持ってくる。桐生が脇に挟んで、キッチンの椅子に座る。片手でコーヒー豆をミルに入れて、桐生がハンドルを回し始めた。昨日の夜、副反応で起き上がれなかった人間と同じ身体が、いまコーヒー豆を挽いている。

 体温計が鳴る。三十六度六分。暁の中で何かが引っかかった。

 暁の既知モデルでは、副反応の後の回復には最低でも二日かかるはずだった。発熱が一晩で完全に下がり、翌朝に通常体温に戻るパターンは、暁の式の係数の範囲を超えている。

「既知のモデルより早い回復です」

 体温計の数値を見つめながら暁は呟いた。

「元気だから?」

 桐生がコーヒーをドリッパーにセットしながら振り向く。

「いえ、回復の速度には個体差以上の幅があり得ません。少なくとも僕が立てた式の中では」

「式の方が間違ってるんじゃないの」

 桐生が軽く笑う。コーヒーの香りがキッチンに立ち始めている。

 暁は何も返さなかった。式の方が間違っている──桐生は事実として述べただけだ。けれど暁の頭の中でその一文が動かない。


*****


 三日が経った。

 桐生は普通に動いている。コーヒーを淹れて、暁が作った朝食を食べて、本を読んで、夕方には外の薪を割ろうとして暁に止められて、結局ウッドデッキで日向ぼっこをしていた。暁の予測モデルでは桐生の回復期はまだ続いているはずで、安静が必要なはずだった。けれど桐生は安静を必要としていない。

 まだ暁は毎朝桐生のバイタルを測っている。体温、脈拍、呼吸数、皮膚の色、目の充血の有無。全部の数値が正常範囲に収まっている。一度の例外もなく、正常範囲に。

 接触時間を延ばしても桐生に変化が出ない。

 暁の手の素手が桐生の手の甲に触れている時間が、以前なら警戒の対象だった時間を超えている。手を繋いだままウッドデッキに座っている時間は三十分を超え、それでも桐生の手にオーバードーズ反応は出ない。眩暈もない。吐き気もない。桐生の身体は暁の毒に対して、以前とは違う閾値で動いている。

「……誤差の範囲を超えています」

 暁はウッドデッキで桐生の手を握ったまま呟いた。

「ん?」

「桐生さんの身体の応答が、僕のモデルから外れています。中毒の進行という変数は入力していました。免疫的な順応の仮説も僕は立てていました。それでも、説明できる範囲を超えています」

「いや、単純に良くなってるだけでしょ」

 桐生は読みかけの本を膝に置いて、暁の方を見た。暁はまっすぐ前を見ていて、その視線はどこかぼんやりとしている。


 その夜、暁はノートを開いた。キッチンのテーブルの上に、暁が血を飲ませるまでの計算を書き連ねたノートが広げられている。中毒の進行曲線、皮膚接触時の毒素移動量、経口摂取時の吸収効率、桐生の体重と肝機能の推定値、ピーク濃度の予測。暁が「飲ませた方が結果として桐生の負担が減るかもしれない」と判断したときに使った全部の式が、そこにある。

 暁はその式を一行ずつ確認していた。前提条件のリスト、用いた近似、外挿の範囲。──桐生がコーヒーを淹れている。暁の背中越しに、いつものコーヒーの匂いがしている。桐生がマグカップを二つ持ってきて、片方を暁の手元に置いた。それから暁の向かいに座り、自分のコーヒーを飲み始めた。

 暁はノートの上で手を止めた。桐生が回復した。早い回復だった。暁の予測の上限を超える速度で。接触時間が延びても応答が変わらない。──結果としては、暁が下した判断が桐生を生かしている。暁は数日前まで、その結果に安堵してよかったはずだった。安堵してよかったのに、暁の頭はそこで止まらない。

 暁は息を吸って、声を出した。静かな声だ。

「……後件肯定です」

 桐生のマグカップが少しだけ動きを止めた。

「結果が正しかったことは、証明になりません。n=1です。交絡変数の除去ができていません。たまたまかもしれない」

 暁の声には抑揚がない。だが、暁の中では何かが激しく回っていた。回転の方向が正しくない、と暁は思った。普段の暁の思考は、問題から結論に向かってまっすぐ進む。今は、結論があった場所に向かって暁が戻っている。戻って、結論を取り消そうとしている。

「桐生さんが元気になったことは、僕のモデルが正しかったことの証明にはならないんです」

「……俺が回復したのに?」

 桐生の声は穏やかだった。問いの形をしているけれど、暁を責めていない。

「『AならばB。Bが真。ゆえにAが真』──これは論理学では誤謬として知られています。後件肯定。僕のモデルが正しいなら桐生さんは回復する。桐生さんは回復した。だから僕のモデルは正しい。──この推論は成立しません」

「うん」

 桐生は短く返した。理解の「うん」だった。桐生は暁の推論の構造がわかっている。物理にも同じ概念がある。

「僕は、物理的アプローチで動きました」

 暁の声が一段下がる。

「僕は数式の上で答えを確定させずに、桐生さんに血を飲ませました。『かもしれない』で僕は動きました。証明できていない答えを出しました。数学では、それは答えとして認められません」

「お前が数学者なのは、変わらないよ」

「……変わります」

 暁は桐生を見た。見たが、暁の黒い目には桐生が映っていない。

「証明なしに動いた人間は、数学者ではありません。僕は、僕が何者なのか、いまわからないんです」

 桐生は何か言いかけて、口を閉じた。暁の言葉の続きを待っている顔だった。暁の指先がノートの端にあった。

 数式の並んだページの上で、暁の指が止まっている。暁の頭の中の回転がだんだん遅くなっていく。結論を出そうとして、出せない。回転が止まる場所が見つからない。

「……でも、桐生さんは生きています」

 声が小さくなった。どうしてそうなっているのか不明だが、コップが溢れてしまいそうだと感じる。桐生はしばらく黙ってから、答えた。

「そうだよ」

 桐生の声には説明がなかった。ただの事実として、桐生は「そうだよ」と返した。生きている。それだけが暁に渡された。

 暁はノートを閉じた。ページを閉じて、表紙を撫でて、それから手を止める。閉じたノートの上に暁の素手が置かれたまま、動かなくなった。暁の指の関節が白くなるほど力が入っているわけではない。ただ動かない。閉じたノートの上に置かれた暁の手が、それ以上どこにも行かない。

 桐生は何も言わずに暁を見ていた。テーブルの向こうから、コーヒーのマグカップを両手で包んだまま、暁を見ていた。桐生の目は穏やかで、暁を急かしていなかった。けれど桐生は何かを言いたそうにしていた。暁の頭の中の回転が止まる場所を、桐生はもう知っているような目をしていた。

 暁の手がノートの上にあった。

 桐生のコーヒーから湯気が立っていた。

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