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見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第7章 見えない閾値

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#4 信号対雑音比

 暁は調べられる限り調べた論文を書き写したノートと、ノートのページ数が少なくなり手を伸ばした紙の束、それから昨晩のグラフに新たに数式を書き込んだ紙を抱えて椅子を立った。そのまま桐生のそばへは行かず、先にキッチンに向かう。

 暁はキッチンの引き出しを開けた。包丁がある。桐生が暁の部屋で最初にカレーを作ったとき、桐生がこの包丁を使った。暁が隣で桐生の手元を見ていた包丁。桐生がにんじんを切りながら「こうやって、猫の手にするんだよ」と暁に教えてくれた包丁。暁がその後に自分で料理を覚えるとき、同じ包丁で同じ切り方を再現した。暁と桐生の食事を作ってきた道具。

 暁は包丁の横にあるペティナイフを手に取った。暁の素手が包丁の柄を握る。桐生に果物の剥き方を教わったときと同じ握り方。暁の手は震えていない。暁はナイフで何をするかを決めていて、躊躇いはなかった。

 桐生が料理を教えてくれた道具が、桐生を生かすための道具になる。暁はその転換に何も感じていない。道具は用途によって意味が変わる。暁の手は道具であり、暁の手袋は封印であり、暁の血は毒であり薬だ。ナイフもまた、切る対象が変わるだけだ。にんじんや果物から暁の前腕に。暁はその転換を感情なしに処理した。施設の中で暁が自分の身体に対して持っていた認識がそのまま出ている。暁の身体は暁のものであると同時に道具であり、暁はその道具を必要に応じて使用する。痛みは信号であり、血液は資源であり、前腕は供給源。暁はそのように自分の身体を分類していた。

 キッチンを出る時に部屋の明かりをつけた。暁は桐生が座るソファへと向かう。静かに。

 ひとりでソファで本を読んでいる様子だった桐生は二人掛けのソファにリラックスして横になっていた。

 桐生の顔色が昨日より白い。目の下の影が濃い。桐生の手が微かに震えていている。朝、寝起きに接触した後、暁は調べものに時間を忘れ、桐生への接触をしていない。「足りない」のだ。暁が抱えるノートと紙の束、それからナイフを握る手に力が入る。桐生の身体が弱っている。暁の計算が裏付けている。時間がない。

 暁は床に膝をついて、ローテーブルの上のノートと紙の束を広げる。桐生に見せようとして、言葉から入ろうとした。暁の仕草にリラックスした様子だった桐生はソファに深く座り直した。

「桐生さん。これを飲めば……依存が……安定、して……」

 言葉が詰まった。暁の口が動かない。暁には核心的な説明を言語で伝えることがまだ難しい。暁の語彙では足りず、中毒のメカニズム、血の効果、依存の安定化、全部を言語に変換しようとすると言葉が途切れる。

「……紙……図を、見てください」

 暁は図と数式でいっぱいの紙を桐生の前に差し出した。図。横軸、縦軸、二本の曲線。その横に微分方程式の解の挙動。暁が昨晩からさっきまでかけて完成させた推論。グラフの横に小さく「推定」と書かれた但し書き。

 桐生は暁に差し出されたグラフと数式を見た。桐生の目がグラフの上を走る。一瞬で読んでいる。暁が描いた図と数式。桐生は暁が言葉で伝えられなかった全部をグラフと数式の推論から読み取っている。二人だけの言語。暁が数式で書いて桐生が物理の直観で読む。桐生の目が「推定」の但し書きで一瞬止まった。暁の数式にはいつも但し書きがない。桐生はそれを知っている。

「なにかを摂取しなかったら俺が死ぬってこと?」

「……はい」

「で、摂取したらこの振動。安定はしないけど、ゼロにはならない」

「はい。……かもしれません」

 桐生の指がグラフの振動する曲線をなぞった。目が数式を追っている。暁が書いた微分方程式の解の挙動を、桐生は数式の挙動を直観で読み取っている。暁の「かもしれません」が紙の上の「推定」の但し書きと重なっているはずだった。桐生の指先がわずかに震えているが、それは恐怖ではなく計算をしている手だった。

「この振幅、どのくらいの周期?」

「……わかりません。個人差があって。でもゼロにはなりません。……ならないと、思います」

 桐生がグラフを見つめている。桐生の指がグラフの曲線をなぞっている。暁と桐生のあいだで言語ではない言語が機能していて、暁が描いた図を桐生が読んでいる。暁の返答にいつもはない「かもしれません」と「思います」が混じっていることを桐生は聞き取っているはずだ。暁の計算が初めて不確実性を含んでいることを、桐生は暁の言葉の揺れから読んでいる。

「何を摂取するの」

「……僕の、血です」

 暁はそう言った。いつもの声で、平坦な声。暁は淡々としている。解が出たから実行する段階に移行しているだけで、暁にとっては数学の証明と同じ手順だった。けれど今回は証明ではなく推論であり、暁の手順の中に初めて「うまくいかないかもしれない」が含まれている。前提があり、仮説があり、推論があり、結論がある。結論は桐生に暁の血を飲ませること。暁はその結論を実行する。不確実な結論を。

 暁はテーブルの上に置いていたナイフを取った。桐生が暁に果物の剥き方を教えたナイフ。暁の素手がナイフの柄を握っている。果物の皮を剥くときと同じ手つきで、暁はナイフの先端を自分の左前腕に当てた。

 躊躇いがなかった。

 暁の手は震えていない。暁の表情は変わっていない。暁の呼吸は乱れていない。暁は自分の身体を道具として扱っている。暁の腕は暁のもので、暁の血は暁のもので、暁がそれを桐生のために使うことに暁の中で障害はない。痛みはあるだろう。暁はそれを身体の信号として受け取るだけだ。施設で検査のたびに注射針を刺されたときと同じように。暁の身体は痛みを信号として処理する回路を持っていて、施設がその回路を暁の中に構築した。暁はいまその回路の上で自分の左前腕にナイフの先端を当てている。

 ──施設で暁は道具だった。暁の身体は暁のものではなく施設のものであり、施設が暁の身体を使い、暁の血を抜き、暁のデータを取った。暁はいま自分の意志で自分の身体を使っているつもりでいる。けれど暁が自分の身体を「道具」として扱う思考回路そのものが施設の産物だった。暁は施設の思考を使って桐生を救おうとしている。暁はそのことに気づいていない。

 ナイフの先端が暁の左前腕に触れた。ぐ、と力を入れて尖った先端を押し込む。痛い。暁の前腕にナイフの先端が埋まり、血が伝う。暁はその血を見た。暁の血。暁の毒であり暁の能力であり、施設が暁から奪おうとしていたもの。暁はその血を、自分の意志で桐生に差し出す。不確実な推論の上で。暁が初めて「かもしれない」に賭けて行動している。突き刺したナイフをすぐに抜いた暁の顔は無表情のままだった。痛みの信号が暁の腕を走っているが、暁の表情には反映されていない。施設で暁が痛みを表情に出さなかったのと同じだ。施設では暁の痛みは誰にも見られなかった。暁は痛みを隠す方法を教わったのではなく、痛みを表に出す方法を教わらなかった。

「飲んでください」

 暁の声はいつもの口調のまま、いつもの温度。暁が桐生にカレーを勧めるときと同じ声で、暁は自分の血を差し出している。暁にとっては同じ構造だった。桐生に必要なものを暁が用意して差し出す。カレーと血のあいだに暁は優先度の差をつけていなかった。どちらも桐生が必要としているもの。どちらも暁が用意できるもの。暁はただ効率的に、最適な手順で、桐生に必要なものを供給している。施設の技師が暁に必要な栄養を計算して供給していたのと同じ構造で。

 けれど暁の手順の中に初めて不確実性があったが、暁はそれを先に桐生に伝えた。「かもしれない」を桐生に渡した。暁が確実な答えを出せなかったことを、暁は隠さなかった。

 桐生が暁を見ていた。

 暁の左前腕から血が滲んでいる。暁の素手がペティナイフを持っている。ローテーブルの上にグラフが載った紙がある。暁の声が「飲んでください」といつもの声で言った。暁の全部がそこにあり、暁が暁の全部を使って桐生に差し出している。暁の顔は無表情で、手は震えていなくて、声はいつもの温度で、暁の全部が施設の技師のように正確で、暁は自分の左前腕から血を流しながらカレーを勧めるのと同じ声で「飲んでください」と言っている。

 桐生の表情が変わった。暁にはその変化が読めなかった。桐生の目の中にある温度が暁の見たことのない温度になっている。怒りではない。悲しみでもない。暁の知っている表情のどれにも分類できない。桐生の目が暁の前腕を見て、暁の顔を見て、テーブルの上の紙を見て、暁の無表情を見た。桐生の指先が震えている。桐生の身体の震えではなく、感情の震えだ。

「暁」

 桐生の声が静かだった。暁が知っている桐生の声の中で、いちばん静かな声。

「お前が自分の身体を道具みたいに使って俺のために差し出すって、それ──暁がずっと嫌だったことと同じじゃないのか」

 その言葉に暁の思考が止まった。

 暁がずっと嫌だったこと。暁が施設で十八年間されてきたこと。暁の身体を道具として扱われたこと。血を抜かれたこと。意志を聞かれなかったこと。暁の痛みを誰も見なかったこと。暁がずっと嫌だったこと。嫌だった。暁は「嫌」を知らなかった。施設にいた頃は「嫌」を持っていなかった。けれど桐生と出会って、桐生に触れられて、桐生の温度を知って、暁の中に「嫌」が生まれていた。施設でされたことが嫌だったと暁が認識できるようになったのは桐生のおかげだった。その暁が、いま、自分の身体を道具として使って桐生に差し出している。暁がずっと嫌だったことと同じことを、暁が自分自身にしている。

「施設とは……違います」

 小さな声で反論した。声が少し高くなっている。口調は保たれているが、暁の声の温度が変わっている。

 暁は何が違うのか言おうとした。──施設は暁を道具として使った。暁は自分の意志で血を桐生に差し出している。それが違い。けれど暁の頭がその反論を組み立てようとするたびに反論が崩れていく。暁は桐生の意志を聞いていない。暁が一方的に決めている。接触の量も、離れるタイミングも、血を飲ませるかどうかも。桐生の意志を聞かずに暁が全部決めている。それは暁がされてきたことと同じ構造だ。

「好きだから、です」

 暁は言った。「好き」暁が映画で取得した語彙。暁が桐生を好きだから桐生のために差し出している。施設は暁を好きではなかった。暁を道具として使った。暁は桐生が好きだ。だから違う。けれど「好き」と言った瞬間に暁自身が感じていた。「好き」では足りない。「好き」では暁がしていることの全部を説明できない。自分の腕を傷つけて血を差し出すことを「好き」では説明しきれず、もっと先の言葉が必要だった。暁はその言葉を持っていない。

「暁。お前、俺に図描いて全部説明して、腕突き刺して、血飲めって言った。全部お前が決めたよな」

「……はい」

「俺に聞いた?」

 暁の口が開いて閉じた。暁の腕から滲んでいる血が暁の指先を伝ってテーブルの上に一滴落ちた。暁はその赤い点を見つめていた。桐生の問いに対する答えを暁は持っていない。聞いていない。暁は桐生に聞いていない。暁の頭がその事実を認識して、胸の中で何かが冷たくなった。

「聞いてないよな」

 桐生の声はまだ静かだった。責めていない。暁を追い詰めようとしていない。桐生の言葉は暁に届いている。暁が全部決めた。図を描くことも、腕を傷つけることも、「飲んでください」と差し出すことも、全部暁の判断で暁が一方的に実行した。桐生に聞いたのは結果の承認だけだ。暁がされてきたことと同じ構造。

「暁はさ、施設の話してくれたよな。技師が全部決めてたって。暁が触れる時間も、離れる時間も、血を抜くのも、全部技師が決めてたって」

「……はい」

「いま暁がやってること、それと何が違う?」

 暁の中で何かが壊れかけている。桐生の言葉が暁の構造の芯に触れている。暁が一生懸命やったことの全部。全ルートを潰して図を描いて自分の腕を傷つけたことを、桐生に「同じだ」と言われている。

 ──同じなのか。暁がやっていることは施設と同じなのか。暁の頭がその問いに答えようとして答えが出ない。論理では解けない。暁の論理が暁の行動の構造を分析して、構造的に同じだという結論を出しかけている。暁の感情はそれを否定したいが、感情で否定する言葉を暁は持っていない。

 暁の中で何かが割れた。

「……嫌なんです」

 暁の口からその言葉が出た。

 暁自身が驚いている。「嫌」暁がその言葉を自分の意志として発したのは初めてだ。映画で取得した「好き」とは違う。誰にも教わっていない。外部インプットではない。暁の内側から、暁の中の最も深い場所から出てきた。施設で十八年間押し込められていた場所から。暁の中にずっとあったのに名前を知らなかったもの。施設でされていたことに対して暁が感じていたもの。暁はそれを感じていた。十八年間感じていた。けれど名前がなかったから、暁はそれを認識できなかった。いま名前が出てきた。嫌だった。全部嫌だった。

「わかっています。施設と同じだって。でもほかに方法がないんです」

 暁の声が大きくなっている。暁が声を荒げたのは初めてだ。暁の声の枠組みがきしんでいる。十八年間維持してきた平坦な声の構造が内側から圧力を受けて壊れかけている。声量が上がり、暁の身体全体から声が出ている。喉だけではなく、肩が震えていて、手が震えていて、暁の全身が震えている。

「誠さんが死ぬのは嫌なんです……!」

 暁の声が叫び声に近かった。ずっと言えなかった呼び方をしていることを、暁は自覚していない。

 生まれて初めて暁が叫んだ。暁は施設で一度も叫ばなかった。叫ぶ理由がなかった。叫ぶ対象がなかった。いま暁は桐生に向かって叫んでいる。暁の声が身体の奥から出てきていて、喉を引き裂くようにして外に出ていく。

 暁は泣いていた。涙が暁の頬を伝っている。けれどこの涙はこれまでの涙とは違う。処理が追いつかなくて溢れた涙ではなく、逃亡のストレスが限界に達して噴き出した涙でもない。これは子どもの涙だった。

 子どもの涙。

 暁は子どもだった。十八年間施設の中で、誰にも泣かせてもらえなかった子どもだった。暁は泣き方を知らなかった。暁が泣いたのは桐生の前でだけであり、桐生の前で初めて泣いたとき暁は泣き方を知らなかった。いまも、暁は泣いている。一生懸命やったのに伝わらなかった子どもの涙を流している。

 自分自身の全部を使って桐生を守ろうとして、図を描いて腕を傷つけて「飲んでください」と差し出して、暁の全力だった。暁に持てる手段の全部を使った。暁が施設で学んだ全部の方法を使った。計算して、分析して、数式にして──初めて仮説を立て知らない知識を補い、実行した。暁にできることの全部をやった。なのに「同じだ」と言われる。暁が嫌だったことと同じだと言われる。暁は嫌だった。施設が嫌だった。道具にされるのが嫌だった。なのに暁自身が同じことをしている。暁は施設から逃げたのに施設の方法しか持っていない。暁には他の方法がない。

「……僕のしたことは、全部、間違いですか……」

 暁は桐生に訊いた。暁の声がかすれている。涙と叫びで暁の喉がかれかけている。暁の足元に紙がある。グラフが描かれた紙。暁の腕から血が滲んでいて、暁の頬に涙が流れている。全部が暁なりの精一杯だった。施設で教わった方法しか知らない。施設の言語しか持っていない。数式と計算と管理。暁が桐生を守るために使える道具の全部が施設から来たものだ。暁は施設から自由になったつもりでいたのに、暁の中にある道具は全部施設が作ったものだった。

 暁の膝が折れた。暁は崩れ落ちるようにして床に座り込んだ。暁の素手が自分の膝を掴んでいる。指の関節が白くなるほど力が入っている。肩が上下している。息が荒い。泣きながら呼吸が乱れていて、暁の全身が子どもの泣き方をしている。声を上げて、肩を震わせて、息を乱して、涙を流して。十八年間泣けなかった子どもが、いま全部を出している。

「僕は、僕には、これしか、できないんです」

 暁の声が途切れ途切れに出ている。暁の言葉が壊れている。いつもの丁寧な口調が崩壊していて、暁の声は裸だった。暁が十八年間かけて構築した平坦な声の壁が全部崩れて、暁の声の中身がむき出しになっている。その声の中身は子どもだった。暁の声の奥に十八年間閉じ込められていた子どもが、いま声を上げて泣いている。

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