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見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第7章 見えない閾値

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#3 非自明な解

 朝、目を覚ますと桐生の腕の中にいる。暁は桐生の温度を心地いいと感じながら、頭では桐生のバイタルをチェックする。体温、心拍、呼吸。体温がやや高いが、おおむね安定していることを確認し終えると、暁は安心する。

 眠っている間、寝返りを打ったのだろう。もしくは桐生が暁を引き寄せたかもしれない。いずれにせよ、睡眠中の接触時間は不明だ。──だが、いまの桐生に明確な異常は見られない。いくら暁が覚醒中に接触量の調整をしていても、意識のない時間までは計測できない。桐生の「足りない」には眠っている間の接触時間も付加され、オーバードーズの閾値が高くなっているとも考えられる。だからといって今更、暁は桐生と同じベッドで眠らないという選択に思い至ることすらできない。

 暁にとって桐生のそばは心地よく、自分の毒性さえなければいくらでも触れていたい。その温度を感じていたい。そのことが気持ちいい。頭と理性が暁の毒性を理解して接触を制限しているのみで、暁に自分の体質に対する知識や理解がなければ子どものように無尽蔵にそばにいただろう。だが、そんな「もしも」はない。そしてその「もしも」の無知は桐生を殺す。

 目が覚めた時の暁は、桐生の腕の中でバイタルチェックをしながら心地よい温度に身を委ねてもう一度眠ってしまいたい誘惑を振り払うことから始まる。本当は、まだこのままいたい。暁は誘惑という言葉でその感情を表現できないが、気持ちと身体が暁の持ち得ない言葉を先に習得している。


*****


 暁が一人で考える時間が長くなった。

 夜になると桐生は先に眠る。小康状態とはいえ中毒状態は続いており、時々、過剰接触のため発熱や震えが出る。特に桐生が「足りない」と口にしてからは頻度が増した。病院の医師に教わった対処療法しか暁に取れる手段はない。桐生の状態が悪くなるたび、暁は不安になる。対処療法の処置を知っていても暁が慣れることはない。泣かなくなった。手際が良くなった。しかし、暁の内心の恐怖はその回数が増すごとに膨れ上がる。桐生の死が近づいているのではないかと怖くなる。

 桐生が先に眠っている間、暁はキッチンのテーブルに座って紙を広げていた。暁の素手がペンを握っている。核心的な内容を伝えるとき、暁は数式と図に戻る。暁には言語で伝えきれないものがあり、一番信頼できる言語は数式であり、桐生が数式を読めることを知っている。

 新しい計算を走らせている。いままでの計算を全て破棄し、前提条件を変更し、環境変数を含めた計算。

 最初の計算は「離れれば桐生は助かる」だった。暁の毒は蓄積型、不可逆、追加の接触を断てば毒量は増えない。その結論は崩壊した。二度目の計算は「全ルート潰れた桐生の死」だった。離れても離脱症状で死ぬ。触れても毒で殺す。接触量の調整は暗闇の中の最適化であり一度の失敗が致命的。解なし。

 暁の頭はそこで止まっていた。けれど桐生が病院で意識を取り戻してから暁の頭が再び動き始めた。暁の計算は解のない方程式の前で止まっていたが、頭は止まったまま別の方向を探し始めていた。暁のモデルの外に変数があるのなら、モデルそのものを拡張する必要がある。

 暁は毒物動態の一般論から再構築を試みた。施設が与えた毒性の情報は断片的だったが、暁は大学の図書館で毒物学の教科書を何冊か読んでいた。桐生との接触を計算するために暁が自分で調べた知識だった。用量反応関係、半減期、蓄積と排出の動態。その一般的な毒物学の枠組みを暁自身の体質に当てはめて推論した。

 暁の毒が桐生の体内で何をしているか。蓄積型であり、桐生の身体の恒常性に組み込まれている。離脱すると恒常性が崩壊する。ここまでは二度目の計算で確認した。では、恒常性を維持するにはどうするか。毒源を完全に断つのではなく、一定量の毒を定期的に供給し続ければ、離脱は起きない。しかし、接触による供給は暁の制御が困難であり、接触量の微調整は暗闘の中の最適化になる。

 暁の思考がここで分岐した。接触以外の経路で暁の毒を桐生に供給できないか。

 毒は暁の体内から発生している。暁の皮膚、暁の体液。暁の血液。暁の血液の中に暁の毒の成分が含まれているはずだった。一般的な毒物動態において、毒素は血流に乗って全身に分布する。暁の毒が皮膚の接触で伝わるのであれば、暁の血液にはより高い濃度の毒素が含まれている可能性がある。

 暁は推論を続けた。桐生が暁の血液を経口摂取した場合、消化管から暁の毒の成分が吸収され、桐生の血流に入る。皮膚接触よりも経口摂取の方が吸収効率が高いか低いかは暁にはわからない。けれど暁の推論では、血液中の毒素濃度が皮膚表面より高いならば、少量の血液摂取で相当量の毒を供給できる可能性がある。定期的に少量の血液を摂取すれば、桐生の体内の毒量を致死量以下かつ離脱閾値以上の範囲に維持できる。

 かもしれない。

 暁の思考がそこで止まった。「かもしれない」暁の計算は常に結論を出してきた。最初の計算の結論は明確だった。二度目の計算の結論も明確だった。けれど新しい計算の結論は「かもしれない」で終わっている。暁の推論は一般的な毒物動態モデルからの類推であり、暁自身の毒が一般的な毒物動態に従う保証はどこにもない。暁の毒は施設が管理していた特殊なものであり、教科書の枠組みがそのまま適用できるかどうか暁にはわからない。

 暁は「かもしれない」の上に立っている。暁がこれまで行動の根拠としてきたのは計算の結論であり、結論は常に確定的だった。「離れれば助かる」は確定的な結論だった。間違っていたが、暁がそれを信じたときは確定的だった。いまの暁の手元にあるのは確定ではなく可能性であり、暁はこれまで可能性の上で行動したことがない。暁の全ての行動は計算結果に基づいていた。計算結果が「かもしれない」だったことは一度もなかった。

 暁は紙の上にグラフを描いた。新しい計算の出力。

 横軸に時間を取った。縦軸に桐生の中毒の深度を取った。二本の曲線を描く。一つ目の曲線は血を飲まなかった場合で、時間とともに曲線は下降していきゼロに収束する。ゼロ。桐生が死ぬ。

 二つ目の曲線は血を飲んだ場合。曲線は振動している。上がって下がってを繰り返し、ゼロにはならない。桐生は死なない。けれどこの曲線は暁の推論に基づく近似であり、実際の軌道がこの通りになる保証はない。暁はグラフの横に「推定」と書いた。暁がグラフに但し書きをつけたのは初めてのことだった。暁の数式には但し書きがない。証明には但し書きがない。けれどこの図は証明ではなく推論であり、暁はその違いを認識していた。

 暁はその図を見つめた。二本の曲線のあいだに暁と桐生の未来がある。なにもしなければ桐生は死ぬ。暁の血を飲めば桐生は生きるかもしれない。暁の計算ではこの二つのルートしかなかった。全部のルートを潰した。接触量の調整は限界に達していて、離れれば桐生に離脱症状が出る。閾値を探り続ける方法は暁一人では限界がある。暁が桐生の中毒を安定させるには血を飲ませるしかない。

 暁はグラフの横に計算過程を書いた。微分方程式の解の挙動。安定な不動点が存在しないこと。振動解が唯一の非自明な解であること。暁は証明を完成させるように、桐生の生存条件を数学的に記述した。けれどこの証明の前提には「暁の血液中の毒素が経口摂取で桐生の体内に吸収される」という未検証の仮定が含まれている。そして、その経口摂取する血液量も「少量」という曖昧さで厳密な量は不明なままだ。暁の字は小さくて正確で、暁が施設で書いていた数式と同じ字だった。施設のレポートを書くときと同じ手つきで、暁は桐生の生存のための推論を書いている。証明ではなく推論。暁が初めて不確実性の上で答えを出そうとしていた。

 暁はペンを置いて紙を見た。完成した図と推論。暁の中に感情はなかった。計算が終わった。解が出た。不確実な解が。暁の思考は施設で実験プロトコルを確認していたときと同じ状態にあった。手順を確認し、リスクを計算し、実行に移る。けれど暁の手は施設のプロトコルを実行するときとは違っていた。施設のプロトコルは検証済みの手順であり、結果が予測可能だった。暁がいまから実行するのは未検証の手順であり、結果が予測できない。

「……まだだめです。推論だけでは実行できません。リスクが高すぎる。せめて……類似例がなければ。毒物学は本で読んだだけの知識。対処療法は病院の医師に教わった知識。僕の推論は、中毒値を下げながら安定させる方法。なにか、既存の医学で類似例があるはず……」

 暁が模索しているのは桐生の中毒の緩和と進行を鈍化させること。もちろん、推論だけで桐生を納得させることができるとは思わない。だが、現在の医学の中になにか類似例に近しいものは存在するはずだ。暁が病院の医師に教わった対処療法を知らなかったように、まだ知らない知識は山のようにある。暁のモデルは数学に最適化されており、欠けているものが多い。大学ならば図書館があった。図書館にはあらゆる学問の本があり、手を伸ばせば新しい知識に触れられた。だが、ここでは未知の知識に触れることができない。暁はずっとそう思い込んでいた。

 どうにかして現在の推論により説得力を補うための知識が欲しい。山小屋から街に降りるのは暁自身にも桐生にもリスクがありすぎる。この山小屋にはテレビもない。ふと暁はキッチンのテーブルから自分たちだけの閉ざされた居住空間を見回した。スマホは必要ないと置いてきてない。桐生も特に気にした様子もなくあっさりと解約していた。だから、この山小屋には暁と桐生が持ち込んだ何冊かの本しかないはずだった。

 だが、いままで気にもしなかった居住空間の隅。部屋の角。窓と窓の間の影になる場所。

 そこに小さな机と椅子があった。その上にはそっけなくノートパソコンが置かれている。

 暁は所長に干渉しないことを条件とした。ノートパソコンを見つけた暁は、先に警戒した。いままで気付いていなく電源も入れていないのであればただの電子基板の集合体に過ぎない。だが、なんらかの形で隠しカメラなどがついていて施設に暁と桐生の暮らしが監視されていたら? 屋根に残っているアンテナの土台が機能していたら? この暮らしは結局施設に管理された偽物ということになる。

 いくら考えても暁には答えが出せなかった。時間も遅く、かすかな眠気に判断力も低下している。

 その夜は、思考を中断して暁は桐生の眠るベッドにもぐりこんだ。やはり同じベッドで眠るのに、触れない距離を維持したまま暁は目を閉じる。しかし、眠気に飲み込まれてしまうと無防備になった暁の身体は桐生の方へと寝返りを打つ。温かい温度へと手を伸ばす。


 朝になって暁が目を覚ますと、先に桐生は起きていた。起きていて、暁の頭をゆっくりと撫でている。接触時間を制限しないと体調に変化が出ることを知っていても、桐生は躊躇いなく暁に触れる。気にしていないと言い切る。久しぶりに桐生の手に撫でられていると暁も緩んでしまう。身体だけではなく気持ちまで。

「……おはようございます」

 桐生の手に撫でられたまま暁が小声でいうと「おはよう」と返された。抱きしめられていて、暁が触れるまでもなく体温と心拍が伝わり桐生が安定していることがわかる。眠っている間に桐生に手を伸ばし、すぐに離してしまわなくても身体に伝わる安定した桐生のバイタル。

「珍しいな? 暁の方が起きるの遅いの」

「昨日、眠るのがいつもより遅くなってしまって」

「考え事?」

 何気ない問いかけに暁は桐生の腕の中で頷いた。

「桐生さん。朝食の後に、見てほしいものがあるんです」

 それが「頼る」ということになるかどうか暁には明確に判別がつかなかったが、思い切って口にした。暁にはまだ推論を桐生に渡せるだけの裏付けも確証もない。だから知識で推論を補強したい。そうなると昨夜見つけたノートパソコンを使っても安全かどうか判断しなければならなく、暁にはその判断がつかない。だから桐生に「見てほしい」と要求した。

「ん。いいよ。まず、起きてコーヒーいれようか。急ぐようなこともないし、暁もなにも焦ることないよ」

 桐生はそう言って暁を撫でていた手と抱きしめていた腕を離し、頬にキスをしてから先に寝室を出ていった。暁が止めない限り、桐生は暁に手を伸ばす、抱きしめる、キスをする。キスは唇に触れるだけ。暁の不安を煽るようなことはしない。体調の変化も隠さない。恐らくそれが桐生の暁への向き合い方なのだ。

 暁はベッドの上にぺたりと座り込んだまま桐生の出ていった寝室のドアを見ていた。

 ──桐生は嘘をついていないのかな、と暁は思う。粘膜が触れたキスをして、桐生の体調が急変したときにも「大丈夫」を繰り返してひとつも暁を責めなかった。それは本当に、桐生が暁に触れたい純粋な欲求だったから暁の責任を問わなかったのかもしれない。だが、それは暁の推論であり事実ではない。推論で導き出すものは仮定でしかない。どうなのか、と桐生に聞かないことには暁は事実を確かめられない。世界には不確定なものが多すぎる。ぼんやりと暁はそのことに気づき始めていた。

 施設を出てすぐの暁は世界に適応することで精一杯だった。知らないことが多すぎた。購買行動ひとつするのにまず観察が必要だった。桐生との交流をきっかけに、暁の世界はものすごいスピードで拡大していった。桐生がいたからだ。桐生が暁に世界を教えた。定義できないものをそのまま仮定することも桐生から学んだ。

「……でも。仮定で進めていい種類のものではありません。せめてもっと、仮定を補強できるものがないと……」

 暁は小さく呟く。頭の中では昨晩展開した計算が繰り返し流れている。しかし、その計算は仮定の上でしか走っていない。例えるなら現実を走っていない、仮想空間のレールの上の存在だ。仮定がレールを仮想空間に置いている。だから、暁はそのレールをできる限り現実へと引き戻さなければならない。

 キッチンの方からふわりとコーヒーの香りが漂ってきた。暁はベッドを降りて寝室を出る。

 居住空間の方へと向かうと、キッチンで桐生にマグカップのカフェオレを「はい」と渡された。桐生のいれたカフェオレ。桐生の好きな味に最適化されている。暁はそのカフェオレを飲むたびに嬉しいと感じる。一口飲むたびに桐生の味覚の好みが暁の中に蓄積されていく過程が「嬉しい」そしてそれを再現しようと試みることが「楽しい」

 桐生の体調面への懸念はあるが、暁には桐生に対する好意が強く存在しており、その好意が暁の原動力でもある。

 キッチンのテーブルで向かい合って寝起きのままカフェオレを啜っている。朝のゆっくりした時間。暁は桐生の腕の中で目覚めたが、眠っている間の接触時間を計測できない以上今日の上限を差し引くしかない。それでも心中はいつもよりも穏やかだった。その差異の要因を暁は特定できない。

 朝食後に暁は昨日発見したノートパソコンが使っても安全かどうかの判断を桐生に託した。施設にいた頃からつけていたスマートウォッチになんの疑問も抱けなかった暁には、施設の用意したものの判断ができない。しかし、桐生は電源を入れ、いくつかの操作をした後、あっさりと「大丈夫だよ」と言った。

「大丈夫、とは」

 疑心暗鬼が過ぎたのか、暁が思わず聞き返すと桐生にくすりと笑われた。

「変な監視ソフトとか入ってないよ。普通のノートパソコン。ネット接続もできる。だから、暁がそんなに警戒しなくても大丈夫」

「……通常の検索を行っても、問題ありませんか」

「ないよ。暁はなにを調べたいの」

 ぽん、と桐生の手が暁の頭に乗った。恐らく、単純な桐生の疑問。

「推論しかできませんでした。論拠を補強したいんです」

「仮説」

 桐生がぽつりと言った。

「はい。まだ仮説です。ですから、まだ僕も納得しきれません。納得できる段階になったら、桐生さんに見て欲しいんです」

「うん。わかった」

 なぜか桐生は嬉しそうに暁の頭を撫でながら返事をして、テーブルの上の本を取るとひとりソファに落ち着いた。暁の中に些細な違和感が残る。桐生の嬉しそうな顔。ソファにひとりで本を読む姿。その正体を暁は知っているはずだ。しかし頭の中を数式がずっと走っており、思い出すのに邪魔をする。最優先事項は桐生の中毒症状の緩和及び進行の鈍化。暁のモデルのリソースがほとんどその計算に使用されており、記憶領域への余裕がない。暁は記憶領域への検索を諦め、ノートパソコンの前の椅子に座った。

 暁の発想は毒物学から展開した。数学でも物理学でもない。全く暁にとっての未知の領域。ウェブブラウザを開き、検索を実行する。いくつかの検索ワードは暁がノートパソコンを発見した時点で浮かんでいた。


 ──検索。

 dose response curve pharmacology

 ──結果。

 用量反応曲線。

 ──検索。

 toxin tolerance small doses

 ──結果。

 ミトリダテス化。

 ──検索。

 allergen desensitization

 ──結果。

 脱感作。

 ──検索。

 oral tolerance immunology

 ──結果。

 経口寛容。

 ──検索。

 opioid maintenance

 ──結果。

 依存症治療。

 ──検索。

 drug addiction maintenance therapy

 ──結果。

 メタドン維持療法。


 複数の検索結果に共通項。受容体ダウンレギュレーション。暁の毒への慢性暴露によって桐生の体内の受容体数が減少し、供給を前提とした状態に最適化される現象。毒が断たれると受容体活性が著しく低下し、離脱症状が出る。桐生の「足りない」は、この状態の主観的な体験だ。

 暁は検索結果に基づいて推論の補強になりそうな論文を精読し、ノートに書き移していった。検索結果は医学分野であり、暁にとっては未知の学問のため情報の取捨択一は後に回す。まず暁にとっての未知を補う必要があった。何ページにもわたり、ノートに暁は英語のまま論文を書き写す。和訳しないのは原文の精密性を維持するためだ。

 検索は繰り返され、情報の深部へと潜っていく。

 いくつかのキーワードが暁の中に候補として自然とソートされていく。更に情報の核心へと暁は手を伸ばす。メタドン維持療法。低用量置換で離脱抑制する。ミトリダテス化。少量毒で耐性獲得する。経口免疫寛容。経口抗原で免疫を「敵ではない」と身体に学習させる。

 次に暁は昨晩書いたグラフの紙を広げた。グラフの横に書いた「推定」の余白部分に更に数式を書き加える。ふたつの時間軸を定義し、桐生の体内毒濃度と耐性レベルをそれぞれC(t)とT(t)とする。u(t)を経口投与量、C_wを離脱閾値、C_maxを過剰摂取閾値とする。三つの数式群がグラフの横に書き加えられた。


dC/dt = -k_e · C + u(t)

条件:C_w < C(t) < C_max

 τ ≤ ln(C_peak / C_w) / k_e


dT/dt = α · C - β · T

定常状態:T_ss = α · C_ss / β

E(C, T) = E_max · C / (EC_50(T) + C)


(D < D_L)


 暁は続けてグラフの横にも数式を書き加える。ゼロに収束する線の横に


dC/dt = -k_e · C, u(t) = 0

→ C(t) = C_0 · e^(-k_e · t) → 0


 不安定ながらもゼロにはならず揺れるグラフの横に


dC/dt = -k_e · C + Σ D_i · δ(t - t_i)


 デルタ関数。t_i の瞬間にだけ値を持ち、それ以外はゼロ。定期的な間欠投与を、暁は数式の言語に変換した。 

 数式は暁が一番理解しやすい形態だ。医学の概念を暁は数式に変換して理解した。最初に桐生に話しかけられた時に「現実では使えない」と言われた方法を暁は再び選択している。ここには桐生と同じように暁に医学的アプローチを教えてくれる相手はいない。結論だけ正しいことは間違いない。だが、やはり桐生には「使えない」と言われるのだろう。暁の数式は仮定のレールの上しか走っていない。

 決定的な不確定要素が残ったままだ。暁はそれでも実行する。「かもしれない」しかない以上、「かもしれない」の上で動くしかないからだ。あとは実行するだけだ。

 書ける数式を全てグラフの横に書き込んでしまって、暁はようやく深く息を吸い込んだ。時間の感覚が麻痺している。どれだけ集中していたのかわからない。桐生は相変わらずソファで本を読んでいるが、暁が検索し、論文を書き写し、いくつもの数式を書いていた間になにかしていたかもしれない。暁にはわからない。もう外は暗くなりかかっている。

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