#3 臨界点突破
暁が桐生を避け始めて何日目かわからなくなっていた。
──西門からキャンパスに入った。足が重い。眠れていない。カロリーメイトの味がしなくなり、暁の身体が閉じていっている。施設にいた頃の暁に戻りつつあるが、戻りきれない。施設にいた頃の暁は何も感じなかった。いまの暁は全部感じているのに何もできず、ただ足が重い。
桐生がいる。西門の植え込みの横、同じ場所。けれど姿勢が違っていた。桐生は携帯を見ていない。植え込みの縁に腰を下ろしていて、背中が丸まっている。桐生の顔色が白い。五十メートル先からでも暁にはそれが見えた。桐生の目の下に、以前にはなかった影が落ちている。手が膝の上で組まれているけれど、桐生の指先はかすかに震えている。暁はその震えを検知して、不安とは別の信号が走った。桐生の身体に何かが起きている。
暁の足が止まった。暁の意志で止めたのではない。
暁の足が、頭とは別のところで止まっている。暁の身体が暁の頭を追い越したのだ。桐生の頬に初めて触れたとき、暁の手が暁の頭より先に動いた。あのときと同じことが起きている。ただし今回は手ではなく足で、暁の足が止まり、暁の身体が桐生の方を向いた。
暁は桐生を見ていた。二十メートルほどの距離。桐生の顔色の悪さが距離が縮まるにつれて鮮明に目に焼き付く。暁の頭が「動け」と言っている。講義棟の方に、桐生のいない方向に。しかし、足が動かない。
「……もう、無理です」
暁は呟いた。暁の声が暁自身に向かって出てきたもので、理性で封じ込めようとしても、もう無理だった。暁の判断が暁の身体を止める力がなくなっていた。何日も何日も桐生を見て通り過ぎて、毎日毎日足を止めて、暁の中の全部を使って桐生から遠ざかり続けた。もう暁の中に力が残っていない。暁の頭は「行くな」と言い、暁の身体は「行く」と言い、暁の頭と暁の身体が戦い続けて、暁の身体が勝った。
──暁の足が動いた。
講義棟の方向ではなく、桐生の方向に。暁の足が暁の意志とは別に桐生に向かって歩き始めている。一歩、二歩、三歩。暁は自分の足が動いているのを見ながら、止められないし、止めたくない。もう限界だった。避ける限界、足を止める限界、桐生を見て通り過ぎる限界。暁の中に蓄積されてきた全部の「避けたくない」が足を動かしている。
十歩、十五歩。距離が縮まっていく。歩く速度が速くなる。桐生の姿が大きくなる。近づくほどに桐生の顔色の悪さがはっきりと見える。桐生の頬の血色が薄い。唇の色が以前より淡くなっている。桐生の手の震えは近くで見ると確実にあって、指先がかすかに揺れている。暁はその全部を目で拾いながら早歩きになる。
桐生がふと顔を上げた。暁が近づいてきているのに気づいて、桐生の目が暁を見ている。桐生の手が、膝の上に組んでいた手が解かれて、桐生の全身が暁に向いている。暁はその目を見ながら走り出していた。ほんの数メートル。暁は桐生の目の中に何があるのか読もうとしていない。いまの暁に余裕はなく、暁の身体は桐生に向かっている。それだけが暁の全部だった。
暁は桐生の前に立った。一メートル。暁の手が届く距離。
座らなかった。座る余裕がなかった。暁は立ったまま、桐生に向かって倒れ込むように抱きついた。がさっと音がして、桐生ごと暁は植え込みの中に倒れ込んだ。桐生の背後に樹木がなかったのが幸いで、芝生に受け止められている。
暁の手袋をはめた両手が桐生の背中に回る。暁の顔が桐生の胸に押しつけられ、暁の全身が桐生に密着する。細い暁のどこにそんな力があったのかというほど力任せにしがみついている。暁の指が桐生のシャツの背中を掴んでいて、手袋越しだが力が入り、布地が引きつれるほどの力。暁の身体が震えている。腕が、指が、暁の全部が震えている。
桐生の身体が違った。
暁が顔を桐生の胸に押しつけた瞬間、暁の身体が桐生の異変を拾った。桐生の体温が高い。暁が記憶している桐生の体温より明らかに高く、桐生の胸からシャツ越しに伝わってくる熱が暁の頬を灼いている。暁が桐生の腕の中で眠った朝の温度とは違う温度だった。あのときは温かかった。いまは熱い。暁の頬に触れている桐生の胸が熱を持っていて、その熱は桐生の身体の内側から来ている。
桐生の心臓が速い。暁の耳が桐生の胸の奥の鼓動を拾っている。以前暁が桐生の腕の中で聞いた心臓の音は穏やかで規則的だった。いまの桐生の心臓は速くて、暁が知っている桐生の安静時の心拍より明らかに速い。走った後のような速さで、けれど桐生は走っていない。植込みの縁に座っていただけだ。暁がしがみつく前から桐生の心臓はこの速さで動いていたのだ。
桐生の背中が濡れている。暁の手袋をはめた指が桐生のシャツの背中を掴んだとき、布地が湿っていた。汗だ。桐生の背中にシャツを通して汗が滲んでいる。六月の朝で、気温はそれほど高くない。桐生は座っていただけなのに、背中に汗をかいている。暁の指先が布地越しに桐生の汗の湿度を感じている。
暁が知っている桐生の身体と違う。暁の中にある桐生のデータと照合して、全部が逸脱している。体温が高い、心拍が速い、発汗がある。桐生の身体が正常値から外れている。暁は桐生にしがみつきながら異変を全身で受信していて、恐怖が別の種類の恐怖に変わっていることに気づいた。
「離れなきゃ、いけないのに……」
暁の声が桐生の胸に吸い込まれていく。普段の口調をかろうじて保っているけれど、言葉と言葉のあいだに呼吸が入り、暁の声が震えている。
「桐生さんを、壊したくないのに……」
暁の声がさらに小さくなる。桐生のシャツの布地が暁の涙で濡れ始めていた。
はたはたと涙を零しても暁は声を上げなかった。泣き叫ばなかった。ただ震えながら桐生にしがみついて、静かに涙を流している。桐生の身体が熱い。桐生の心臓が速い。桐生の背中が汗で濡れている。暁がしがみつくほどに桐生の異変が暁の身体に伝わってくる。
逃げてきた日々の全部が暁の中から噴き出している。避けたかった。避けたくなかった。桐生を見るたびに足が引かれて、暁が自分でその足を止めて、毎日毎日。カロリーメイトを齧りながら桐生の温度を思い出して、夜中に天井を見ながら桐生の声を聞いて、朝起きて桐生のいない部屋で手袋をはめた手を見つめて。暁の感情の全部が涙になって零れ出している。
「いいよ。離れなくていい。……それに、いま、少し楽になってるから」
暁の頭の上から桐生の声が降ってきた。静かな声。桐生の腕が暁の背中に回り、緩い力で暁を抱き返している。
桐生の腕が暁を包むと、暁の震えがその腕の中でゆっくりと、少しずつ鎮まっていく。桐生の体温が暁の全身に入ってくる。高すぎる体温だった。暁が逃げていた間ずっと、暁の中で「足りない」と鳴り続けていたもの。それが桐生の腕の中で少しずつ満たされていく。けれど満たされながら暁は桐生の体温の高さを感じ続けている。この熱は桐生の正常ではない。抱き返す力が弱く、明らかに衰弱している。暁が満たされているのと同時に桐生が壊れている。
桐生は何も聞かなかった。なぜ逃げたのか、なぜ避けたのか。暁の体質のことを桐生は覚えている。暁が桐生を守るために逃げたことを。桐生は全部わかっていて、追わなくて、でもいて、暁が来るのを待っていた。
「ずっとここにいたんですか」
まだ泣き止めないまま、暁は訊いた。
「うん。毎日」
「……馬鹿みたいです」
「そうかもね」
暁の頭を桐生の手が撫でている。いつもの手、いつもの速度。けれど温度が違う。桐生の手が熱い。いつもの桐生の手は温かくて暁の力が抜けたが、いまの桐生の手は温かいを超えて熱を持っている。暁はその温度を受け取りながら、泣き止むまでの時間を桐生の腕の中で過ごした。
長い時間をかけて、暁は泣き止んだ。
まだ桐生の腕の中にいる。暁の顔は桐生の胸に押しつけられていて、暁の手袋をはめた手が桐生の背中を掴んだまま。暁の呼吸がゆっくり落ち着いていき、震えは止まっている。涙も止まっている。疲れている。逃げていた日々の疲労と、泣いた後の脱力が暁の全身にかかっている。
暁は桐生の腕の中で動かなかった。離れたくない。いま離れたら暁は壊れる。桐生の体温の中にいて、桐生の心臓の音が暁の頬に伝わっている。暁は桐生の心臓の音を聞いていた。桐生は生きている。暁が逃げている間も桐生は生きていた。桐生の心臓が動いていて、暁の頬にその振動が伝わっている。速い。まだ速い。暁が戻ってきても桐生の心拍は落ち着いていない。けれど、先ほど桐生は「いま、少し楽になってるから」と言っていた。矛盾している。桐生の主観からくる錯覚の可能性もある。
暁の呼吸が落ち着いてくると、暁の身体がゆっくりと桐生の胸から離れた。完全に離れたのではない。暁の手はまだ桐生のシャツの前を掴んでいて、桐生の腕もまだ暁の背中にある。けれど暁の顔が上がった。暁の目が桐生の目を見ている。涙の跡が暁の頬に残っていて、暁の睫毛がまだ濡れている。桐生の目が暁の目を見ている。至近距離。
暁の手袋をはめた手が桐生のシャツの前を掴んで、桐生の方にわずかに引き、押し倒している身体をほんの少し上にずらした。暁が顔を桐生に近づけている。暁の身体が暁の頭を追い越す動作がまた起きていて、暁は自分が何をしようとしているかを暁の身体の方が先に知っている。桐生の唇が暁の唇に近づいている。暁の目が閉じかけている。
暁の唇が桐生の唇に触れた。
手袋越しではない。布地を挟んでいない。暁の唇の皮膚と桐生の唇の皮膚が直接触れている。桐生の唇が熱かった。以前のキスの温度ではなかった。桐生の唇から伝わってくる温度が高くて、暁の唇が桐生の微熱を直接受信している。暁の身体の中を桐生の温度が走る。唇から入ってきた温度が暁の胸の中に落ちていく。何日も何日も足りなかったものが暁の中に流れ込んでくる。けれどその温度は暁が記憶しているものより高い。
短いキスだった。数秒で暁の唇が離れる。暁の目が開いて桐生を見ている。暁の頬が赤い。暁の手はまだ桐生のシャツを掴んでいる。桐生の目が少し見開かれていて、それから桐生の表情がゆっくりと緩んだ。
「おかえり」
桐生が小さな声で言った。暁の頭の中で桐生の言葉が鳴った。おかえり。暁はその言葉を受け取って、暁の喉から小さな声が出た。
「……ただいま、です」
暁が告白した後と同じ空気が戻ってきた。暁が「好きです」と言って桐生が受け取った後の二人であり、暁が桐生から逃げて戻ってきた後の二人だった。暁は桐生の隣にいたくて逃げていた。桐生を壊したくないから離れていた。けれどいまここにいる。桐生の温度の中にいる。暁の唇がまだ桐生の温度を残していて、その温度が高すぎることを暁は知っている。暁はその温度を失いたくなかった。
暁は桐生にくったりと身体を預けた。桐生の肩に暁の頭が乗っている。桐生の腕が暁の肩を抱いている。暁の手袋をはめた手が桐生の腕に添えられている。植え込みの外側に暁と桐生の足だけが放り出されていて、植樹の合間の芝生の上で暁が桐生に抱きついた勢いのまま重なり合っている。
朝の大学の構内で、他の学生がまばらに通り過ぎていく。暁はそのことを気にしなかった。以前の暁なら他者の視線を警戒したけれど、いまの暁には他者に向ける力が残っていない。暁の全部が桐生に向いている。大学の構内で暁が桐生を押し倒している体勢になっていること自体は、性別による社会規範を持たない暁には意味をなさない。
力の限りで桐生に抱きついていた暁は背中に回した腕を解いて桐生の肩に頭を乗せたまま手のひらをぺたりと胸の上に乗せている。心臓の上。
桐生の手が暁の肩を抱いている。その手を暁の視界の端で捉えたとき、暁は桐生の手の温度が高いことを確認した。いつもの桐生の体温より高い。暁は桐生の体温を知っている。肩に触れたとき、手を繋いだとき、額に手を当てられたとき。暁はその全部を身体が記憶していて、いまの桐生の手の温度が高い。しがみついたときに感じた熱と同じだった。桐生の全身が熱を帯びている。
暁の視線が桐生の手に行った。桐生の指先。震えている。かすかに。暁が近づくときに遠くから見た震えと同じ振動で、暁の肩に触れているのに震えが止まっていない。
「……桐生さん、手」
「ん?」
「震えてます」
「ああ、寒いんじゃない。朝だし」
桐生は流したけれど暁は知っている。六月の朝で、気温が低いわけではない。桐生の身体は熱を持っている。寒いのではない。暁の身体が桐生の震えの原因を桐生の言葉より先に読んでいる。暁がいない間、桐生の身体に何かが起きていた。暁がしがみついたときに感じた全部の異変。体温の高さ、心拍の速さ、背中の汗。暁の身体が桐生の正常値からの逸脱を全部記録している。暁はまだそれを正確には把握していないが、暁の中にある不安がかたちを持ち始めている。
暁は桐生の肩に頭を預けたまま、桐生の手を見ている。桐生の指先の震え。桐生の顔色の白さ。桐生の目の下の影。暁が逃げていた間に桐生の身体に蓄積されていった何か。暁はそれをまだ言語化できないが、暁の身体が拾っている信号がある。桐生が壊れかけている。暁が逃げることで桐生を守ろうとしていたのに、逃げたことが桐生を壊しかけている。
暁は桐生の肩から顔を少し上げて、桐生の横顔を見た。桐生は目を伏せていて、暁が見ていることに気づいているのかいないのか。桐生の顔は穏やかだったけれど、頬の線が暁の記憶より細くなっている。
「暁。大丈夫だよ。さっき、少し楽って言ったじゃん。本当に、楽なんだよ。暁が戻ってきたからかな」
冗談めかして言う桐生に、暁は桐生の上から身体を起こした。桐生は起き上がる力がないのか、まだ芝生の上に上半身を横たえている。少し離れた距離で、暁は改めて桐生の全体を見た。左手だけ、まだ桐生から離せないまま、緩く指を絡めている。暁の視界に桐生の手首が入った。桐生の左手首。暁の視線がそこで止まった。
暁の左手首にはスマートウォッチが巻かれている。手袋の上から。施設にいた頃からずっと身につけていたもの。暁はそれを時計だと思っていた。暁の手首とほとんど同じ位置に、桐生の手首を見ている。桐生の手首には何も巻かれていない。けれど暁の視線はそこにはなく、暁自身の手首に戻っていた。暁の左手首のスマートウォッチの小さな画面が光っている。暁はその光をいつも充電の表示だと思っていた。無意識のうちに暁の眉根が寄っていた。
上半身を少し起こした桐生の目が暁の視線を追った。暁が自分の手首を見ていることに桐生が気づいた。桐生の目が暁の手首のスマートウォッチに向いた。桐生の目がそこで止まる。
暁は桐生の視線に気づいた。桐生が暁の手首に巻かれたものを見ている。桐生の目の中に、暁には読めない何かが動いている。




