表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第6章 物理的存在論

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/41

#4 偽装された首輪

 暁の部屋にいた。泣き疲れた暁を桐生が暁の部屋まで連れてきていた。朝、西門からキャンパスに入り、暁の全てが臨界点を超え、自戒も虚しく身体が桐生に向かい、抱きしめてキスをした。いま暁はソファに座っていて桐生が隣にいる。暁はまだ桐生のそばから離れておらず、暁の手袋をはめた手が桐生の袖を掴んだまま。暁が最初に桐生に触れたのも袖を掴む動作だった。暁の手はいつも桐生の袖に行く。

 講義にはひとつも出席せず、マンションに戻ってきてしまったが穏やかな時間が流れている。暁の呼吸は落ち着いていて、肩の力が抜けている。桐生がいる。暁の中にあった「足りない」が消えている。何日ぶりだろうか。暁は数えていなかった。数える余裕がなかった。逃げている間は「足りない」が暁の全身を覆っていて、暁は数える力さえ「足りない」に削られていたのだ。

 桐生の手が袖を掴んでいる暁の手の近くにある。暁はちらりとその手を見た。桐生の指先がまだわずかに震えている。大学で見たときと同じ震え。暁の部屋に来てからも止まっていない。桐生の額にうっすらと汗が浮いている。六月だが、暁の部屋のエアコンは入っていて暑くはないはずだった。桐生の身体の温度が内側から上がっている。暁はその変化を見ていた。桐生は気づかれていないと思っているのか、気づかれてもいいと思っているのか。──暁にはわからない。

「桐生さん」

 暁は静かに呼びかけた。まだ、暁は桐生の袖を離せない。

「ん」

「……ごめん、なさい。逃げて」

「いいよ。暁が暁のために走ったんでしょ」

 桐生の声には責めるものが何もなかった。暁は桐生の袖を掴んだまま、自分の指先に力が入っていることに気づいた。逃げた日々の間に暁の手が忘れかけていた布地の感触が、いま手袋越しに戻ってきている。

「……桐生さんのために、です」

 暁は俯いたまま言った。声は小さかったけれど、暁の指は桐生の袖を離さなかった。

「知ってるよ」

 桐生の声は穏やかだった。桐生は知っていた。暁がなぜ逃げたのか、暁が桐生を守るために離れたことを、暁が自分を犠牲にして桐生を生かそうとしたことを。桐生はそのすべてを理解した上で追わなかった。追わずに、待っていた。暁が来るのを待っていた。

「暁」

「はい」

 普段と変わらない声の温度で呼ばれ、暁は素直に返事した。

「ちょっとそれ見せて」

 桐生が暁の左手首を指さした。スマートウォッチ。暁が施設にいた頃からずっと身につけているもので、暁にとっては時計だった。朝起きたら時刻を見る。講義の時間を確認する。夜、眠る前に時刻を見る。暁のルーティンに組み込まれた道具。だが、先ほどそのスマートウォッチを暁は突然不審に思った。自分の腕にずっとあるもの。だが、桐生の腕にはないもの。それは、誰もが身に着けているものだと暁は思い込んでいたのだ。

 暁は何の抵抗もなくスマートウォッチを外して桐生に渡した。桐生が暁の身につけているものに触れることに抵抗はない。好きな相手に警戒する必要がない。暁は桐生を信頼している。信頼という語彙を暁は持っていないけれど、暁の身体がそうしている。

 桐生がスマートウォッチを手に取って裏返した。桐生の手が震えている。暁はその震えを見ている。手首に巻かれたものを裏返す桐生の指がかすかに揺れていて、暁はそれが寒さではないことを知っている。

 スマートウォッチの裏面。暁は桐生の手元を見ている。暁はスマートウォッチの裏面を意識して見たことがなかった。小さな光がある。暁はそれを充電の表示だと思っていた。施設で「充電してください」と言われて、暁は専用のケーブルでスマートウォッチを充電していた。充電のための光。それが暁の認識だった。

「暁、これ普通のスマートウォッチじゃないよ」

 桐生の声が静かだった。桐生が手首に巻かれていたものの裏面を暁に見せている。

「心拍センサーがついてる。体温計測もしてる。たぶんGPSやほかの機能も。なのに、画面の操作じゃ計測結果を見る画面に行けない」

 スマートウォッチを表面にして表示を操作しても日時表示の画面がロックされている。桐生が暁に見せながら説明した。

「え。ちょっと、待ってください……それって」

「うん。ずっと誰かが暁を見てた」

 暁は桐生の言葉を一つずつ受け取る。心拍センサー、体温計測、GPS、その他。暁の全てのバイタルデータ。施設では暁のバイタルはモニターで計測されていた。暁が施設を出た後もこのスマートウォッチで計測され続けていたことになる。暁は知らなかった。

「……心拍」

 暁は呟いた。──心拍。暁の心拍。暁が桐生にキスされて心拍が上がったとき、暁が泣いて心拍が乱れたとき、暁が桐生の腕の中で眠って心拍がゆっくりになったとき。全部が計測されていた。全部が送信されていた。暁のバイタルデータとして、暁の知らないところで。

「データ、どこかに飛んでる」

 桐生がまだスマートウォッチの設定を開こうとしているが、画面をタップしてもロックされたままだ。暁の側からは変更できない。常時接続。暁のバイタルデータが暁の知らないまま常に施設に送信されていた。それは暁の中で既に確信に近い。

「……それ、全部ですか」

「全部だと思う」

 その言葉で暁の中で全てが繋がっていく。時計だと思っていた。充電だと思っていた。施設が暁に渡したもの、暁がずっと身につけていたもの、暁の手首に巻かれていたもの。全部が監視だった。施設は暁を放逐したのではなく、暁を外に出してデータを取り続けていた。暁の心拍と体温と位置情報を追跡していた。暁がいつどこで何をしていたか、暁が桐生と接触した時間、暁の感情の変動データ。全部が施設に送られていた。

「……十八年、です」

 暁は呟いた。十八年間。施設で暁がこのスマートウォッチをはめていた時間、施設を出てからもはめていた時間。暁の人生の全部がこの小さな機械に記録されていた。暁の手袋も、暁の「人に触れてはいけない」という戒めも、暁に数学だけを与えた教育も、全部に裏がある。暁は管理されていた。道具として管理されていた。

「……返してください」

 暁の声は丁寧だった。静かだった。けれど暁の手袋をはめた手が膝の上で握られている。暁の顔には表情がない。表情がないこと自体が暁の怒りであり、暁の感情が凍りつつある現れだ。暁の声が凍てつくほどに冷たいが、その声が向かった先は桐生ではない。

 桐生がスマートウォッチを暁の手に返した。手袋をはめた暁の手がスマートウォッチを受け取る。暁の手のひらの上に、十八年間暁の手首にあったものがある。暁はそれを見つめていた。

 長い沈黙。

 暁はスマートウォッチを床に置いた。丁寧に。投げつけるのではない。暁はまだ丁寧だ。フローリングの上にそっと置いた。

 暁は立ち上がった。スマートウォッチを見下ろす。暁の足は素足だ。暁の白い足の裏が床に触れている。

 右足がスマートウォッチの上に乗った。

 静かに、無言で。叫ばない。泣かない。

 暁の素足の踵がスマートウォッチの画面の上に乗り、暁は自分の体重をゆっくりとその一点にかけた。重力と暁の身体の重さだけで。踏みつけるのではない。暁の体重が踵を通してスマートウォッチに伝わっていく。ぱき、と小さな音がして画面にひびが入った。暁の踵の下で硬いものが割れる感触が足裏に伝わる。暁はさらに体重をかけた。もう片方の足を床から浮かせて、全体重を右足の踵に乗せる。がしゃ、と中の基盤が潰れる音がした。暁はその感触を何も感じなかった。何も思わなかった。十八年間暁の手首にあったものが暁の足の下で砕けていて、暁はそれを見下ろしている。暁の素足の踵が、施設の首輪を踏み砕いている。暴力ではなかった。暁の体重が、暁という存在の重さが、施設の鎖を壊している。

「暁」

「はい」

「怒っていいんだよ」

「……怒ってます。すごく」

 静かに答えた暁に桐生は何も言わなかった。スマートウォッチを丁寧に床に置いたことも、叫ばなかったことも、泣かなかったことも、桐生は見ていた。暁の静かな怒りを、桐生は隣で見ている。桐生の手がソファの肘掛けを握っていて、その手がまだ震えている。桐生もまた怒っていた。暁のために。暁はそれに気づいていた。桐生の手の震えが寒さでも恐怖でもなく、怒りだとわかった。暁と同じものが桐生の中にもある。暁の十八年間を知って、桐生が暁のために怒っている。


 その直後。

 桐生がソファの肘掛けを握っていた手から力が抜け、身体が横に傾いた。暁がスマートウォッチの残骸の上から足を下ろして振り返ったとき、桐生の目が焦点を失っていた。桐生の身体がソファから滑り落ちるように崩れていく。暁は桐生の名前を呼ぶ前に桐生の身体を受け止めようとしていて、暁の手袋をはめた手が桐生の肩を掴んだけれど桐生の体重を支えきれず、二人とも床に落ちた。

 桐生の身体が床の上に横たわっている。暁は桐生の顔を覗き込んだ。桐生の目が半分開いていて、暁を見ているようで見ていない。桐生の唇が何かを言おうとして動いたけれど声にならなかった。桐生の額が濡れている。汗ではなかった。熱だった。暁の手袋をはめた手が桐生の額に触れたとき、手袋越しにでも桐生の体温の高さが伝わった。暁が知っている桐生の体温をはるかに超えている。

「桐生さん」

 暁は呼んだ。声はいつもの声だった。桐生が応答しない。桐生の目が暁の顔の上を漂うように動いていて、暁を認識しているのかわからない。意識が混濁している。桐生の呼吸は続いている。浅くて速い。桐生の手が床の上にあって、指がかすかに動いているけれど、それは意志のある動きではなかった。

 暁は桐生の前に膝をついたまま動けなくなった。

 暁の頭の中に他人に対する緊急事態プロトコルがない。施設は暁に数学を教えた。暁に手袋の着用を教えた。暁に三十分の閾値を教えた。暁に「人に触れるな」を教えた。けれど施設は暁に「人が倒れたときにどうするか」を教えなかった。暁のプロトコルの中に「目の前で人が意識を失ったときの手順」は存在しない。暁の頭が空白になっている。計算が走らない。

 暁の頭は計算する対象があるときに動く機械であり、対象が暁の持つモデルの外にあるとき暁の頭は止まる。桐生の意識混濁は暁のモデルの外だった。

 暁の手が震え始めた。手袋をはめた指先が小さく揺れている。暁の呼吸が速くなっている。暁の身体が先に反応していて、暁の頭がまだ追いついていない。桐生が壊れかけている。暁の目の前で。暁の手の届く場所で。

 暁の手が動いた。ポケットの中のスマートフォンを取り出す。暁の手は震えているけれど、スマートフォンの画面を操作する指は正確だった。暁は検索を起動し、画面に文字を打ち込んだ。

 意識混濁。対処。

 検索結果が並ぶ。暁の目が画面の上を走る。暁が情報を処理する速度はこんな時でも速い。施設で暁が大量のデータを読み込んでいたときと同じ速度で暁はいま検索結果を読んでいる。救急車。一一九番。意識がない場合は一一九番に電話する。暁はその情報を読み取って、電話アプリを開いた。

 一、一、九。

 暁の指が三つの数字を押した。コール音が鳴り始める。暁は桐生の横に膝をついたまま、スマートフォンを耳に当てた。手が震えている。声が出るだろうか。暁は一瞬それを考えて、出なければならないと判断した。暁の声が桐生を救う手順の一部であり、暁はその手順を実行する。

「はい、一一九番です。火事ですか、救急ですか」

「救急です」

 暁の声が出た。丁寧な口調。暁のいつもの口調そのままだった。暁が桐生に「好きです」と言ったときと同じ口調で、暁が所長に「ありません」と言ったときと同じ口調で、暁は一一九番に電話している。暁の声は震えていない。暁の手は震えている。けれど暁の声は普段の口調の形に支えられていて、声だけが震えずに出ている。

「同居人が意識を失いました。体温が高いです。呼吸はあります」

 暁は必要な情報を三文で伝えた。過不足がない。暁の言語は効率的であり、暁が施設で報告書を書いていたときと同じ構造で暁は桐生の状態を伝えている。状態の記述。バイタルの報告。暁がやっていることは施設の技師がやっていたことと同じだった。

 住所を訊かれた。暁は自分のマンションの住所と部屋番号を答えた。暁の声はずっと丁寧で平坦だった。電話の向こうの声が「すぐに向かいます」と言って、暁は電話を切った。

 暁はスマートフォンを床に置いて、桐生の横にへたりこんだ。桐生の顔を見ている。桐生の呼吸がまだ続いている。浅い。速い。けれど止まっていない。暁の手袋をはめた手が桐生の手に触れた。桐生の指が暁の手袋越しの指をわずかに握り返した。微かな力。本当であれば状態が悪くなるはずなのに、桐生は暁が手を握っていると、ほんの僅かだが呼吸が深くなった。どうして、という疑問を暁は受け取り切れず無意識の中で保留された。

 桐生の意識はどこかにまだある。暁は桐生の力を受け取って、桐生の手を握ったまま救急車を待った。


*****


 病院の廊下は白かった。

 施設の廊下と同じ白さだった。蛍光灯の光が壁に反射して、暁の目に入ってくる白さが施設の記憶と重なる。リノリウムの床ではなく病院の床だったけれど、暁の足音が響く感覚は似ていた。暁は廊下の長椅子に座っていた。手袋をはめた手を膝の上に置いて、壁を見ている。暁の顔には表情がなかった。

 桐生は処置室に運ばれていった。暁は中に入れず、廊下で待っている。暁が待つ側にいるのは初めてだ。施設では暁が待たれる側だった。検査のために連れて行かれ、戻ってくるまで誰も待っていなかった。暁を待つ人間は施設にいなかった。いまは暁が待つ側にいて、暁が待っているのは桐生だ。

 時間が経った。どのくらい経ったのか暁にはわからなかった。スマートウォッチはもうない。暁の手首には何も巻かれていない。時間を計測する道具を暁は自分の足で壊した。暁は時間の感覚を壁の白さの中で失っていった。

 処置室から医師が出てきた。──白衣。暁の視界に白衣の人間が現れたとき、暁の身体がわずかに強張った。施設の技師も白衣を着ていた。暁の身体が白衣に対して防御反応を出している。暁はその反応を意識的に抑えた。

 ここは施設ではない。この白衣は桐生を診た医師だ。

「付き添いの方ですか」

「はい。同居人です」

 医師に訊かれ、暁はうなずいて答えた。

 同居人。正しくない。嘘だ。だが、他にどう言えばいいのか暁にはわからない。大学の先輩──違う。好きな人。恋人。その方が正しい。けれど、暁は桐生の仕草から社会規範のようなものを少しだけ学んでいた。

「検査の結果ですが」

 医師は暁の顔を見ながら説明した。暁は医師の言葉を一つずつ受け取った。

「なんらかの中毒症状に類似する所見がありますが、原因物質が特定できません」

 暁の手袋をはめた手が膝の上でわずかに握られた。中毒症状。原因物質が特定できない。暁はその二つの情報を受け取って、暁の頭の中で計算が動いた。原因物質は暁だ。暁の毒だ。病院の検査機器で検出できる物質ではない。暁の体質が生成する毒は施設が管理していたもので、一般の医療機関のデータベースに存在しない。医師が特定できないのは当然だった。暁だけが原因を知っている。

「高熱が続いています。解熱剤を投与しましたが効きが悪い。点滴で水分を補給しています。意識はまだ戻っていません」

「……わかりました」

 暁は答えた。いつもの声で。暁の声はずっと平坦だ。症状を説明した医師は再び処置室に戻ろうとしたが、「あの」と暁が立ち上がって呼び止めた。口が先に動いていた。

「変な、ことを訊くかもしれませんが、ドラッグという毒性を持つ特異体質の人間のことを知っていますか」

 緊張で喉が渇いて、暁の声は僅かに震えていた。施設で暁はそう教えられた。一般の病院勤務の医師にどれだけの知識があり、理解が得られるかもわからない。暁はこのことを桐生以外に話したことはない。

「……噂レベルでは」

「そう、ですか」

 医師の返答に暁はそれ以上なにを期待したのだろうと、小さく頷いた。しかし、医師は処置室に向けた足を暁の方へと向け、ぽんと肩を叩いてきた。それだけでも暁はびくりと過剰なほどに怯える。

「少し話をしようか。──噂レベルでしかわかっていないから、これは医師としての診断ではないけれど、いいかい? まあ、座りなさい。君も酷い顔色をしているし」

 ──肩に触れられた。それだけで暁の心拍数は上がり、顔色が消える。手袋をはめた両手を握る力が強くなった。この医師にも触れただけのほんの数秒の毒が蓄積されたと暁の頭が医師の言葉より先に処理をしている。更に、肩を二度叩かれた。座ることを促されているとようやく判断するが、接触数が増えたと同時にカウントされる。

「僕に、触れたら、危険なんです」

「継続的に、一定時間以上と噂では聞いている。一時的な接触を気にしていたら、医師などやっていられないよ」

 どうしてだかわからないが、この医師はマスクの下で笑う。暁は気が抜けたように長椅子に座り直した。施設にいた技師とは違う人間なのだということしか、まだ暁にはわからない。

「君はなにを聞きたいのかな」

 先ほどよりも柔らかい、事務的ではない声で訊ねられた。暁は、深く息を吸って吐く。どうしてこの医師を呼び止めたのか。暁にはわからないこと、知りたいと思っても情報の提供先がないこと。それを医師ならば知っているかもしれないと考えたのだ。

「桐生さんが、回復したとして……また同じようなことが起きたら、どうしたらいいですか。離れた方がいいと思いました。でも、離れたら余計に悪くなったように、思います。ですから、そばにいます。そうしたら、同じことがまた起きます」

 喉が張り付いてしまうような錯覚で上手く言葉にできたか怪しいが、暁は自分のわかっている範囲の状況と知りたい情報を口にした。ドラッグという自分の毒性を開示したことを怖いとは思わなかった。この医師が質問の後にそれでも暁に触れたからかもしれない。どうしてかの判断はいま必要なものではなく、これから桐生といるためにどうしたらいいのかを知るために必死だった。

 医師は暁の隣に腰かけ、足を組み、片肘をつくと溜息を洩らした。

「一定時間以上の接触で中毒、物理的に離れると死亡。そんな感じだったね? 対処療法しかなくなるんだよ、そうなったら。接触時間の調整。離脱症状発症時の対処療法。いい方向に行くという話は、聞かない。食事をちゃんとする。吐き気があるようなら薬で緩和する。水分をこまめに補給する。こまめな検温。解熱剤の併用。震えが出た時には抗不安剤。……これは一般的な離脱症状への対処療法であって、彼にも当てはまるかどうか断言できない。現に、いまの彼は解熱剤の効きがあまりよくない」

 ゆっくりとした口調で話す医師は桐生とは違う種類の穏やかさを持っていた。

「……こんな話でも、少しは君の役に立ちそうかい?」

「はい。十分です。ありがとうございます」

 暁は医師の顔を直視できないまま返事をした。隣に座っていた医師は立ち上がり、処置室に戻っていくついでに暁の頭をするりと撫でていった。処置室から出てきて容体の説明のあと、少し話を聞いただけだったから医師も手袋をはめていたのが暁の視界の端に映った。だから、触れても平気だと判断したのだろうか。だが、それだけでは医師が処置室に戻る際に暁の頭を撫でていった説明にはならない。


 計算を撤回しなければならない。

 暁は病院の廊下の長椅子に座ったまま、頭の中で計算を走らせていた。

 最初の計算の結論は「離れれば桐生は助かる」だった。蓄積型、不可逆。追加の接触を断てば毒量は増えない。桐生は死なない。その結論は崩壊した。桐生は暁が離れた後に悪化して意識を失った。離脱症状だ。中毒化した身体から毒源を断つと離脱が起きる。暁が離れたことが桐生を壊した。

 暁の頭の中で全ルートが検証される。

 ルート一。暁が桐生に触れ続ける。接触量が増える。蓄積型であれば毒量は増え続け、いずれ致死量に達する。桐生は死ぬ。

 ルート二。暁が桐生から離れる。接触が途絶える。中毒化した身体から毒源を断つと離脱症状が出る。三日以上で死ぬ。桐生は死ぬ。

 ルート三。接触量を調整する。致死量に達しない範囲で接触を維持し、離脱症状も出さない。けれど暁にはその範囲がわからない。閾値の詳細を暁は知らない。用量反応曲線の形も半減期もわからない。暁が暗闇の中で最適解を探り続けることになるが、一度でも間違えれば桐生が死ぬ。

 全ルートが桐生の死に収束している。

 離れても死ぬ。触れても死ぬ。調整は不可能。暁の頭の中で全てのルートが潰れた。

 残るのは先ほどの医師が示した対処療法。死ぬことが避けられなくても、離脱症状が起きてしまった場合に暁でもできることが少しだけだがある。だが、その対処療法も桐生に効果があるかどうかまだ明確ではない。不確定要素かつ、根本的な解決にはならない。

 暁は長椅子に座ったまま、手袋をはめた手で自分の膝を握っていた。暁の指に力が入っている。暁の顔には表情がない。暁の目が壁の白を見ている。施設の壁と同じ白。暁は施設にいた頃と同じ顔で、病院の廊下に座っている。

 離れても離脱症状で死ぬ。触れても毒で殺す。詰み。桐生の生存の可能性は全ルート潰れた。

 暁の頭の中に結論が出た。それは結論ではなく行き止まりだった。暁の計算が初めて解を出せなかった。暁の数学は常に解を出してきた。施設で与えられた問題には全部解があった。暁は解のない問題を与えられたことがない。いま暁の頭の中にあるのは解のない方程式であり、暁の計算はその方程式の前で止まっている。

 暁は長椅子の上で身体を丸めた。手袋をはめた手で自分の膝を抱えている。暁の身体が小さくなっていく。施設のベッドの上で暁が身体を丸めていた頃と同じ姿勢。暁は桐生に出会ってからこの姿勢を取らなくなっていた。桐生がいると暁の身体が開くからだ。桐生がいない場所で暁の身体が閉じている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ