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見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第6章 物理的存在論

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#2 万有引力の法則

 桐生は追ってこない。暁が導線を変えても桐生は暁を追いかけてこない。

 暁の携帯に着信がある。桐生からだ。暁は出ない。メッセージも来ているけれど、暁は読まない。読んだら桐生の言葉が暁の中に入ってきて、暁の足が桐生のところに走っていく。暁はもうそのことを知っていて、暁の身体は暁の意志より先に桐生に向かう。暁にできるのは、桐生の言葉を暁の中に入れないことだけだった。

 ──追ってこない。けれど、いる。

 桐生を避けて三日目、暁が裏門からキャンパスに入ったとき、構内の向こう側のベンチに桐生が座っているのが見えた。五十メートルほどの距離がある。桐生は暁の方を見ておらず、膝の上に本を開いている。そのベンチは暁の導線の上ではないし、桐生がいつもいる場所でもない。けれど裏門から入ると、暁の視界の端に桐生の姿が入る位置だった。

 桐生の姿勢がおかしい。ベンチに座っているというより、ベンチに身体を預けていた。背中が丸まっていて、両腕が膝の上に落ちている。本は開いているけれど桐生の目は本の上を動いていない。ページがめくられていない。五十メートルの距離でも暁の目にはそれが見えていた。桐生の顔色が白く、額に汗が浮いている。六月の朝で、気温は高くない。桐生は座っているだけで汗をかいている。

 暁は足を止めなかった。視界の端に桐生を捉えたまま講義棟に向かって歩く。桐生は暁を追わない。暁が通り過ぎても立ち上がらない。立ち上がれないのだと暁は思った。桐生の身体がベンチから立ち上がる力を持っていない。桐生があの場所にいるのは暁を待っているからだけれど、桐生があの場所に座り続けているのは身体が立つことを許していないからだ。

「今日も来てるんだ」

 暁の後ろを通り過ぎた別の学生が、連れに向かって呟いたのが聞こえた。桐生のことではなかったかもしれないけれど、暁の足が一歩分だけ遅くなる。暁自身はそれに気づいていた。足が桐生の方に引かれている。暁がその引力に抗って歩いている。足の筋肉に力を入れて、桐生のいない方向に足を向けて、一歩ずつ体温を失うように歩いている。

「……行かない」

 暁は口の中で呟いた。誰にも聞こえない声。暁は自分に言い聞かせている。行かない。行けば触れる。触れれば桐生が壊れる。暁は桐生を壊さないために逃げていて、暁が桐生を守る唯一の方法が桐生から逃げることだった。


 四日目、暁が同じ裏門から入ると、同じベンチに桐生がいた。同じ姿勢で、本を開いている。けれど昨日より姿勢が崩れていた。桐生の上半身がベンチの背もたれに完全にもたれかかっていて、自力で背筋を支えられなくなっている。本を持っている手が微かに震えていて、ページの上に桐生の指先の揺れが影を落としている。桐生は本を読んでいない。読めないのだ。目は開いているけれど焦点が合っていない。頭痛が桐生の視界を歪めているのだろう。桐生の眉間にうっすらと皺が寄っていて、暁はそれを五十メートル先から検知した。

 追ってこない。でもいる。暁の導線の端に、暁の視界に入る場所に。近づかず、声もかけず、ただいる。立てない身体でベンチに座って、読めない本を開いて、暁を待っている。

 五日目も。六日目も。

 暁は桐生がいることを毎朝確認してしまう。確認したくないのに暁の目が桐生を探してしまい、裏門をくぐった瞬間に暁の視線がベンチに飛ぶ。いる。今日もいる。暁の中で安堵と恐怖が同時に走る。いるということは桐生が生きているということであり、桐生が大学に来ているということだ。けれど桐生の状態は日ごとに悪くなっていた。五日目には桐生の足元にペットボトルが転がっていて、桐生がベンチの横で嘔吐した痕跡があった。六日目には桐生の歩行がさらに不安定になっていて、ベンチの脇の植え込みに手をかけて身体を支えている姿を暁は遠くから見ていた。関節が痛むのだろう。桐生の膝の曲げ方が不自然で、足を引きずるように歩いている。微熱があるのだろう。桐生の頬が薄く紅潮していて、けれどそれは健康な血色ではなく熱による紅潮だった。

 暁の中で再計算の結論が完全に崩壊している。離れれば桐生は助かると判断したのは間違っていた。離れたら桐生は壊れていく。暁が離れるほど桐生の離脱症状が進行している。嘔吐、頭痛、関節痛、歩行の不安定、微熱。中毒の離脱症状が中期に入っている。暁の蓄積型モデルは正しかったかもしれないけれど、蓄積の結果として桐生の身体が暁の毒に依存してしまっている。依存した状態で毒源を断てば離脱が起きる。暁が離れることは桐生を救うのではなく桐生を殺す。

「……何が怖いんだろう……」

 暁は口の中で自分に訊いた。答えは出ている。桐生が壊れることが怖いのではなく、桐生に向かってしまう自分の身体が怖い。毎朝、暁は戦っている。桐生がいるベンチの前を通り過ぎるまでの数十秒間が、暁にとっては一日で最も長い時間だった。暁の足は桐生に向かいたがり、暁の頭がそれを止めている。足と頭の戦い。毎朝暁の頭が勝っているけれど、毎朝暁の頭が勝つために必要な力が少しずつ大きくなっている。しかも、暁の出した計算結果は間違っていることが日に日に証明されている。


*****


 暁は場所を変えた。裏門ではなく西門から入るようにする。裏門を通ると桐生が見え、見えると足が引かれ、引かれるのを止めるのに暁の全部を使わなければならない。暁はもうそれに耐えられなくなりつつあった。西門から入れば、桐生のいたベンチは視界に入らない。

 翌日、西門からキャンパスに入った。

 西門の近くの植え込みの横に桐生が立っていた。

 立っていた、というのは正確ではなかった。植え込みの縁石に腰を半分預けるようにして身体を支えていた。立っているのか座っているのか判然としない姿勢で、桐生の両手が膝の上に置かれていて、指が震えている。桐生の額に汗が浮いていて、顔色は蒼白だった。

 暁は足を止めかけたが、止めない。止めたら終わりだ。暁は桐生を視界の端に捉えたまま講義棟に向かって歩いた。桐生は携帯電話を見ていて、暁の方を見ていない。暁が通り過ぎた後、暁はちらりと振り返った。桐生はまだそこにいた。暁の背中を見ているのかいないのか、暁にはわからない。

「……なんで、わかるんですか」

 暁は口の中で呟いた。暁が場所を変えたのに、桐生がまたいる。暁の新しい導線の上に桐生がいる。暁の行動パターンが読まれている。施設で育った暁はルーティンで動くことが習慣づいており、場所を変えても新しいルーティンがすぐに固定され、同じ時刻に同じ場所を通る。桐生はそのパターンを読んで暁の新しい経路の上に現れている。──追わない。でも、いる。暁の視界から消えない。離脱症状の出ている身体で。嘔吐して、関節が痛んで、微熱があって、立つことすらままならない身体で、暁の導線の上に毎朝現れている。

 暁のストレスが積み重なっていく。毎日桐生を見て、桐生に向かいたくなって、それを止めている。止めるたびに暁の中で何かが削れている。暁がすり減っている。避けたいのではない。暁は桐生を避けたくない。桐生に会いたいし、桐生の隣にいたいし、桐生の声を聞きたいし、桐生に触れたい。でもそのすべてが桐生を壊す。暁はそのことを知りながら毎朝桐生を見て、知りながら毎朝足を止めて、知りながらすり減っている。


 十日目。

 暁が西門を通り過ぎようとしたとき、桐生の声が聞こえた。

「逃げてもいいよ。でも俺はここにいる」

 短い声だった。暁を追いかける声ではなく、暁を責める声でもない。暁がそばを通り過ぎるのに合わせて、桐生が声に出しただけ。衰弱していても桐生の声の温度はいつもと変わらなかった。暁が最初に数式の話をした日と同じ温度であり、暁が金平糖を渡した日と同じ温度であり、暁が泣いた夜に頭を撫でてくれた手と同じ温度。変わらない。桐生の温度は何も変わっていない。暁が逃げても追わず、暁が避けても怒らず、ただいる。手を差し出して暁が来るのを待っている。暁の心を開かせた同じやり方で。身体が壊れかけているのに、声の温度だけが変わらない。

「……聞こえてないことにして」

 暁は口の中で呟いて走り出したが、桐生の声はもう暁の中に入っている。「俺はここにいる」その七文字が暁の中に残っている。暁がいくら走っても桐生の声は暁の中から消えず、暁が避けているのは桐生の身体であって、桐生の声と桐生の温度はもう暁の中に入り込んでいて、暁がどこに逃げてもついてくる。

 暁は講義棟の階段を上がりながら、手袋をはめた手で自分の耳を塞いだ。意味がないとわかっていた。桐生の声は外から聞こえているのではなく、暁の中で鳴っている。暁が自分の耳を塞いでも止まらない。暁は階段の踊り場で足を止めて壁に背を預けたが、壁のコンクリートの冷たさが背中に伝わるばかりで、桐生の温度ではなかった。限界が近い。暁の判断が暁の身体を止めている力が、日に日に弱くなっている。桐生がいる。桐生が暁を待っている。壊れかけた身体で、嘔吐しながら、関節を痛めながら、微熱に震えながら、桐生が暁を待っている。暁の足がそちらに向かいたがっている。暁の頭がそれを止めている。頭と身体の均衡が崩れかけている。

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