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見えない閾値 ─ 僕の存在は毒だから ─  作者: 灯屋 いと
第6章 物理的存在論

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#1 存在の不在

 暁は導線を変えた。

 いつもの時刻にマンションを出て、同じ電車に乗り、同じ駅で降りる。けれどキャンパスに入ってからの経路が変わり、暁は正門ではなく裏門を使うようになった。いつまでも大学を休んでいるのは同じルーティンをこなすことが身に染みている暁にとってはストレスになった。単位を取得し、卒業することに目的は見出せないがルーティンが崩れることが暁のルールに反する。──そして、先日自宅近くで見かけた桐生のことも気になった。気にならない訳がない。

 大学に通うことを再開すると、毎回、暁は正門をくぐった先のベンチに桐生を見つけた。待っている。顔色が悪い。暁の導線は変わらない。暁の取っている講義の時間、教室の移動、昼食のタイミング。全て桐生と一緒に過ごしてきて把握されている。桐生が暁を待つ場所を定めるのは簡単だっただろう。だから、暁は導線を変える必要があった。最短距離ではなく、周り道。暁にとって効率的ではないが、桐生を見つけてしまうと近くに行きたくなってしまう衝動を抑え込む方が優先度として高い。これ以上、桐生を死に近づけたくない。

 上手く言葉になどできない。だが、暁の本能的な願望と欲求がせめぎ合い、願望の方がぎりぎりのところで欲求を抑え込んでいいた。

 桐生が暁を待つ場所は正門の銀杏並木の前だったから、暁はそこを通らない。裏門から入り、桐生のいない講義棟に向かう。前期教養の講義は桐生の講義とは別の建物にあり、物理学科の上位講義には出なくなっていた。

「暁が出てこなくなったの、気づいてる?」

 群論の講義を共に受けていた学生が廊下ですれ違いざまに離している声を聞いたが、暁は足を止めなかった。

「ねー。桐生君は顔色悪いしさー。どうしたんだろね? あの二人、仲良かったじゃん?」

 背中に聞こえる会話に暁の足が止まりそうになるが、無理矢理前に進んだ。知らない他人の口から桐生のことが聞こえるだけで胸がぎゅっと苦しくなる。

 桐生の隣で受けていたあの教室に、暁の席だけが空いている。暁はその空席を見ていない。見に行かない。あの教室に近づけば桐生がいるかもしれなくて、桐生がいたら暁の身体が桐生の方に歩いていってしまう。暁はもうそのことを知っている。暁の意志では止められないかもしれないと、身体の奥で感じている。だから近づかない。

 学食にも行かなくなった。

 暁は大学の敷地の端にあるベンチで、人通りのない建物の陰になった場所で、カロリーメイトを齧っている。あの箱をまたコンビニで買っていた。施設を出た直後に暁が最初に買った食べ物で、栄養成分が数値で書いてあるから暁に読める食べ物であり、暁にとっての最初の安全圏だったもの。粉っぽい塊を咀嚼しながら水で流し込むと、口の中に残る味がひどく平坦で、暁の喉がかすかに抵抗する。

「……まずい」

 暁は呟いた。カロリーメイトを「まずい」と認識したのは初めてのことだった。

 暁の食事が巻き戻っている。


*****


 次第に暁の部屋から生活感が消えていく。冷蔵庫の中はカロリーメイトと水のペットボトルだけに戻り、桐生と一緒にスーパーで買ったじゃがいもの最後の一個が冷蔵庫の隅で芽を出しかけていた。暁が選んで、桐生がかごに入れてくれた丸いじゃがいも。暁はそれを手袋をはめた手で取り出してゴミ袋に入れたが、入れるときに手袋越しにじゃがいもの表面が触れて、冷たさが指先に伝わった。桐生の手の温度ではない。

 キッチンの引き出しには桐生が使ったまな板と包丁があるけれど、暁はその引き出しを開けない。

 桐生が料理をしていた手順を暁は覚えている。だが自分のために料理をするという発想が暁にはない。桐生が一緒だったから食事がおいしかった。栄養素を補うだけならばカロリーメイトで事足りる。自分のために自分で食事を作っても、カロリーメイトと同じく「まずい」だろう。それは「足りない」からだ。明確なことを試す理由が暁にはない。

 本棚には桐生から借りた本が並んでいる。借りた、と言うよりもおさがりとして桐生が暁にくれた本。桐生の持ち物だった本。科学哲学の入門書、SFの文庫本、エントロピーの解説書。暁はそれらの背表紙を見てしまう。見るつもりはないのに部屋にいると視界に入り、視界に入ると桐生の声が暁の中で再生される。穏やかな声。


「読むなら置いてくよ」

「面白いよ」

「暁の数学だとどう扱う?」


「……止まれ」

 暁は自分の頭に向けて呟いた。止まらない。桐生の声が暁の中で鳴り続けている。暁は本棚に背を向けたが、背中に本棚がある。本棚がそこにあることを暁は知っている。背を向けても消えない存在の重みが、暁の肩甲骨のあたりに張りついている。

 白い壁を見た。何も映っていない壁。施設の色と同じ色。

 施設を出た後の暁は生活の仕方にこそ戸惑ったが、学習することの多さに世界が広がっていくことを体感していた。その出発点が、桐生だった。「暁って呼んでいい?」と言ってくれた。学食で食券の買い方を教えてくれた。食事が温かいことを知った。矛盾したままあることを知った。たくさんの言葉を覚えた。桐生がいたから。

 桐生と一緒にいることをやめたら、暁はもう新しいことを覚えることもなくなるだろうか、とふと考えた。言葉、体験、気持ち。施設にいた時と同じように誰とも話をせず、味のしない栄養素と水の食事をして、既知の問題だけを繰り返すのだろうか。暁はもう一人で行動制限なくどこにでも行けるのに。──それは自主的な世界との断裂だろうか。

 通院は不要と所長は言った。施設は暁を不要とした。そこに暁の感情は動かない。不要と言われれば「はい」と答えるのは変わらない。誰に不要と言われても、暁は同じく答える。ただ、桐生だけが例外なのだ。本当は不要だと言われた方が暁は苦しまなかったかもしれない。桐生が「離れない」と言った。その桐生に中毒症状が現れているのを暁は見てしまった。人に害を成すということを、好きな人との接触という形で現実として突きつけられた。だが、まだ暁の中に「好き」は消えない。

 夜、ベッドに横になる。暁は天井を見ている。白い天井、蛍光灯。施設にいた頃と同じ光景で、同じ姿勢で、同じ孤立。暁は施設にいた頃に戻っているように見えるが、暁の中は全く違っている。施設では暁は何も感じなかった。何も足りないと思わなかったし、何も苦しくなかった。天井を見て何も考えずに眠りに落ちていたのに、いまは違う。

 暁は天井を見ながら桐生のことを考えている。桐生の顔、桐生の手、桐生の声、桐生の肩の温度、桐生の唇の柔らかさ。全部が暁の中に残っているのに桐生がいない。暁は桐生が入れてくれたものを全部持ったまま、桐生のいない部屋に一人でいる。たくさんのものを持ったまま、暁は苦しい。温度がない。触れる先がない。触れてはいけない。

 暁の手袋をはめた右手が、暁の左肩に触れた。桐生が手を置いてくれた場所。暁は自分の肩を自分の手で触っている。桐生の温度はない。暁の手は暁の体温しか持っていない。その体温が、いつもの桐生の温度より低いことを暁の指先が知っている。

「……足りない」

 暁は呟いた。暗い天井に向かって。施設にいた頃、暁は「足りない」を知らなかった。桐生がいない食事が足りないことを知ったのは桐生がいる食事を知ってからであり、桐生がいない部屋が寒いことを知ったのは桐生がいる部屋の温度を知ってからだ。暁はそのすべてを桐生に教えてもらい、教えてもらったものが暁を内側から圧迫している。施設に戻ったのではない。施設では空だった暁の中に、いまは全部がある。全部があるのに桐生がいない。施設よりもずっと苦しい場所に暁はいる。

「眠れないの?」

 暁は自分に問いかけた。自分の声が返事をしないことを、暁はもう知っている。天井を見つめたまま、スマートウォッチの小さな画面が手首の上で光っているのに気づき、時刻を確認する。午前二時。桐生は眠っているだろうか。暁はそう考えて、考えることを止めようとして、止められなかった。

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