#5 再計算の答え
暁は自分から桐生と離れることにした。
桐生が「離れない」と言った。桐生の意志は理解している。暁はその意志を尊重したかった。けれど、暁の頭はそれとは別の結論を出している。桐生が離れないなら暁が離れるしかない。桐生の意志より、生存を暁は優先する。暁にとってそれは計算の結果だった。
──暁の頭の中で再計算が走っている。
蓄積型、不可逆。暁が立てた最悪ケースの仮定がそのまま前提として固定されている。暁には減衰型である証拠がなく、蓄積型でないと証明する手段もない。暁は仮定を検証できないまま仮定の上で結論を出さなければならなかった。
蓄積型が正しいなら、桐生の体内の毒量は接触の総時間に対して単調増加する。減ることがない。不可逆。暁が桐生に触れた全ての時間が桐生の体内に毒として残っている。暁の手袋越しの何気ない接触も、手を繋いだことも、抱きしめられたことも、キスも、隣で眠った夜も、全部が桐生の中に蓄積されている。
その前提から暁が導いた結論は単純だった。離れれば桐生は助かる。蓄積型であれば、追加の接触を断てば毒量はそこで止まる。現在の蓄積量が施設が暁に教えた三十分を大幅に超えていたとしても致死量に達していなければ、暁が離れた時点で桐生の体内の毒は増えなくなる。桐生は死なない。暁がいなければ桐生は死なない。
暁はその結論を見つめた。数式として明快だった。暁の存在を桐生の生活から除去すれば桐生の生存が確保される。変数の除去。暁が変数であり、暁を消せば方程式が解ける。暁はその構造を理解していた。
最初は少しずつ。桐生が手を伸ばす。暁の手を取ろうとすると、暁は一歩下がる。手袋をはめた手をポケットに入れる。桐生の指が空を掴む。暁はそれを見ていた。桐生の指が空を掴む動作を。
「……触れたら、加算される」
暁は唇の中でそう呟いた。暁の手があるべき場所に暁の手がない。暁が自分でそうしている。
「暁?」
「はい」
暁は「はい」と返す。声が普通に出る。普通に出るけれど、暁の身体は桐生から半歩遠い。いつもの距離より半歩。その半歩を暁は意識的に取っている。
キスを避ける。桐生が暁の顔に近づくと暁は首をわずかに引く。桐生の唇が暁の頬に触れる。唇ではなく頬。暁はそれを許容する。頬への接触は唇の接触より暁の計算では僅かに安全だった。接触時間が唇と比較して短い。数秒。暁はもう計算をやめられない。桐生に触れるたびに暁が時間を計測している。接触面積と接触時間。暁の中に計算が常駐している。
「暁。……最近、ちょっと変じゃない?」
桐生が訊いた。抽象的な質問は暁には解析しきれないが、声は穏やかなのに暁は桐生の声の中にわずかな変化を検知した。声の末尾がいつもより短い。桐生の声が疑問の形をしているけれど、声の奥にあるものが疑問だけではない。暁にはそれが何なのか読めなかった。
「……大丈夫です」
暁は答えた。ほかに対応できる言葉を暁は知らない。大丈夫ではない。大丈夫ではないけれど暁はそう答えた。嘘をつこうとしたのではない。暁に嘘をつく回路はない。暁は「大丈夫です」と言った。暁自身の身体の状態についてなら「変」ではない。嘘ではない。暁は大丈夫だ。暁が大丈夫ではないのは暁自身のことではなく桐生のことで、桐生が大丈夫かどうかは暁にはわからない。
外に出ると桐生に会ってしまう。暁は自分の部屋に閉じこもった。
*****
桐生に会わない日が続く。
暁は大学に行かなくなった。朝、スマートウォッチのアラームで目を覚ます。起きる。起きるけれど外に出ない。いつもの時刻にマンションを出るルーティンが停止している。暁のルーティンは施設を出てからずっと崩れたことがなかった。一度だけ崩れたことがある。発熱した日だ。あのときは身体が動かなかったから崩れたという明確な理由がある。今は身体は動く。暁が自分の意志でルーティンを止めている。
ベッドの上に座って手袋をはめた手で膝を抱えている。テーブルの上にカロリーメイトの箱がある。冷蔵庫から出してきた。桐生と食事をするようになってから減らなくなっていた箱だ。暁はその箱を開けてブロックを一本取り出して齧った。
──粉っぽい。味はカロリーメイトの味だ。暁の学習済みの味。暁が感じているのは「味がしない」ではなく「足りない」だった。桐生がいない食事は足りない。暁はそのことをもう知っている。知っていて足りない状態を維持している。暁の食事が閉じた。施設にいた頃と同じ食事だ。同じ場所で同じ箱を開けて同じ粉っぽい塊を咀嚼している。場所が違うだけ。暁の部屋の壁は白い。施設の壁も白かった。
携帯電話がテーブルの上で振動した。桐生からだ。暁は画面を見て、出ない。出ると声が聞こえる。桐生の声が聞こえたら暁は桐生に会いたくなる。会いたくなったら暁は桐生のところに行ってしまう。行けば触れてしまう。触れれば蓄積が進む。不可逆に。暁はそれを止めるためにここにいるのだ。離れれば桐生は助かる。暁の再計算の結論がそう言っている。
携帯電話が三回振動して、止まった。暁は画面を見つめている。着信履歴に桐生の名前が並んでいる。
「……出たら、会いたくなる」
暁は自分に言い聞かせるように呟いた。暁は画面から目を離してカロリーメイトの残りを齧った。
四日目。暁がどうしても必要な水を買いにマンション近くのコンビニに出た帰り道のことだった。暁のマンションから百メートルほどの通りで、ふいに桐生を見かけた。
暁のマンションの近くに桐生がいる。暁の住所を桐生は知っている。何度も部屋に来ているし、泊まってもいる。桐生が暁を探しに来たのだろうか。暁にはわからなかった。
暁は通りの反対側に立ったまま桐生を見ていた。桐生の顔色が悪い。暁の位置からでもわかるほどに。肌が白っぽくて目の下に影がある。それだけではなかった。桐生の手が震えている。通りの反対側からでも暁の目にはそれが見えていた。桐生の右手が身体の横で微かに揺れている。額にうっすらと汗が浮いているのが距離を越えて暁の目に入る。六月だけれど、歩いているだけで額に汗が出る気温ではない。桐生の歩き方がいつもより遅い。いつもの桐生の歩幅より短い。足元が不安定で、一歩ごとにわずかに身体が揺れている。暁の目は桐生の身体の変化を、暁の中にある桐生の正常値のデータと照合しながら捉えている。手の震え、発汗、歩行の不安定。三つの異常が同時に出ている。
暁の頭の中で再計算の結論が揺れた。離れれば桐生は助かる──暁はそう結論したはずだった。蓄積型であれば追加の接触を断てば毒量は増えない。桐生は死なない。暁が離れてから四日。接触はゼロ。なのに桐生の身体に中毒初期症状が出ている。
暁の仮定が正しければ、離れた桐生の体内の毒量は四日前の値で固定されているはずだ。固定されているなら新しい症状は出ない。けれど桐生の手は震えていて、額に汗が浮いていて、歩行が不安定だった。暁が離れてから症状が悪化している。
桐生は暁に気づいていない。道を挟んで反対側に暁がいるのに、気づいていない。通常の桐生であればたった通りの反対側にいる暁の存在を見落とさない。注意力散漫、もしくは意識レベルの低下。暁の中に四つ目の異常が追加された。桐生は通りの先に歩いていく。暁は道の反対側に立ったまま桐生の背中を見ている。近づけない。暁が近づけば桐生に触れたくなるだろう。暁の身体はそう反応する。桐生の近くにいると暁の身体が桐生に向かうと暁はもう知っている。手が伸びる。肩が近づく。呼吸が桐生のリズムに同期する。暁はそれを止められない。だから近づかない。
桐生の背中が通りの角を曲がって消えた。暁は水のペットボトルを握ったまま、道の反対側に立っている。
部屋に戻って、暁はベッドに座った。桐生の手が震えていた。額に汗が浮いていた。歩行が不安定だった。暁に気づかなかった。暁が離れてから四日。離れたのに症状が出ている。暁がいなくなったのだから接触はゼロのはずだ。暁は桐生に触れていない。四日間。一秒も。なのに桐生に症状が出ている。
暁の頭の中で再計算が回り始める。中毒化している。桐生はすでに中毒域に入っている。三十分以上の接触がどこかであった。暁が離れたから中毒症状が出ている。初期症状というフェーズを超えている可能性がある。中毒化した状態で接触が途絶えると離脱症状が出る。施設が教えたことだ。三日以上離れると死ぬ。四日。暁の胸の中で何かが冷たくなった。
暁の再計算の結論が崩壊していく。離れれば桐生は助かる。暁はそう結論した。蓄積型で不可逆だから、追加の接触を止めれば毒量は増えない。それは正しかった。けれど暁の計算にはもう一つの変数が抜けていた。中毒化した身体から毒源を断つと離脱症状が起きる。蓄積は不可逆かもしれないが、蓄積した毒が桐生の身体の恒常性に組み込まれてしまっている。暁の毒が桐生の身体の一部になっている。それを断てば桐生の身体が崩れる。離れても助からない。離れたら死ぬ。
暁は自分の計算を見直した。暁が桐生に触れた時間の累計。頬に触れた時間、手を繋いだ時間、抱きしめている時間、キスの時間。全部足す。暁が自分から桐生に触れた時間の合計。暁は数字を出した。三十分をとっくに超えているのは暁も理解していた。だが、それでも四日前まで桐生に中毒症状は見られなかった。そこには暁が見つけられないままの何かがあることは明確だ。
「……なにかを……見落としている……」
暁の声が部屋に落ちた。暁の手袋をはめた手が頭を抱えている。計算が合わない。三十分の上限を超えていることは間違いない。しかし、それを踏まえても足りない要素がある。四日前までは桐生に症状は出ていなかったのに、いまの桐生には症状が出ている。変数が足りない。暁の計算式に含まれていない変数がある。何だ。何が足りないのか。
暁の頭の中で式が走る。接触時間の合計。暁が桐生に触れた時間。暁が触れた時間。暁が自分から触れた時間だけを暁は計算していた。
暁の手が止まった。
「……触られた、時間……?」
顔を上げた。壁を見ている。白い壁。暁の目が見開かれている。
暁は「自分から触れた時間」しかカウントしていなかった。暁は告白をする前に桐生から触れられた時間を計算に入れていなかった。告白前の暁のルールは「自分から触れてはいけない」であり、暁が触れる方向しかルールに含まれていない。触れられる方向はルールに存在しなかった。存在しないものは暁がカウントしない。施設が暁に渡した前提の中に、穴があったのだ。
暁は触れられた時間を足し始める。
頭を撫でられた時間。桐生が暁の頭を撫でてくれた回数。最初に「撫でていい?」と訊かれてから二ヶ月近くが経っている。四月に入学して五月の末。週に何回。一回あたり十分から十五分。暁はそのひとつひとつを思い出しながら加算していった。桐生の手が暁の頭の上を動いている記憶が暁の中に何十回分もある。全部温かかった。全部力が抜けた。全部、暁が幸せだった時間。その全部が毒の蓄積だった。
暁の手が震え始める。
肩に手を置かれた時間。背中を支えてもらった時間。発熱したときに額に手を当ててもらった時間。金平糖を口に入れてもらった瞬間。桐生の指が暁の唇に触れた。あの二秒も。全部カウントされる。全部が桐生から暁への接触であり、暁が自分からしたのではない接触であり、暁の計算から完全に抜け落ちていた接触だ。
居酒屋でもたれかかった時間。暁が酔って桐生の腕に肩を預けていた時間。三十分以上。あれだけでもう閾値を超えている。
泊まった夜。桐生が暁をベッドに運んでくれた。朝起きたら桐生の腕の中にいた。一晩中。六時間以上。暁の身体全体が桐生の身体に密着していた。暁は「離れた方がいい気がする」と思いながら温かくて離れられなかった。あの一晩だけで閾値の三十分を何十倍も超えている。
全部足した。
暁の頭の中で数字が出る。とっくに超えていた。三十分どころではない。数十時間の接触がある。暁が触れられた時間を計算したただけで桐生はもうとっくに大幅に中毒域を超えている。暁が自分から触れた時間だけで計算していた暁の式は方程式の半分しか見ていなかったが、それでもとうに閾値を超過していた。そこに桐生から触れられた時間を足すと、告白の前から桐生は中毒域にいたことになる。暁の式は不完全だった。不完全ながらも、閾値を超えていることも知っていた。
「……全部、ずっと前から超えていた……」
暁の声がかすれていた。一番幸せだった記憶が一番の毒だった。
桐生の腕の中で暁が「温かい」と思っていた朝。あの朝が初めての一番長い接触だった。暁が一番離れたくなかった時間が一番多くの毒を桐生に蓄積させていた。頭を撫でられて力が抜けた時間、発熱したときに桐生がそばにいてくれた時間、暁が桐生を確認してから目を閉じた夜。全部、暁の幸福であり、全部、桐生への毒だった。暁の存在が桐生を壊している。暁がそばにいたことそのものが。
暁はベッドの上で手袋をはめた両手を顔の前に持ち上げて見つめていた。この手は毒だ。暁はそれを十八年間知っている。けれど暁が見落としていたのは、暁の手だけが毒なのではないということだった。暁の手も、暁の肩も、暁の背中も、暁の頭も、暁の唇も。暁に触れた桐生の手も。暁の全部が桐生を殺す要因だった。暁の存在全体が毒だった。
暁はベッドの上で力なく手を下ろした。膝の上に手袋をはめた手を置いて壁を見ている。白い壁。施設の壁と同じ色の壁を暁は見ている。暁の目は乾いている。涙は出ない。泣くためにはコップが溢れる必要がある。暁のコップはいま空だ。溢れるものがない。暁の中にあった全部の温かいものが計算結果に変換されて温度を失っている。数字だけが残っている。接触時間の累計、桐生が中毒域に入った時点、暁が気づかなかった変数。暁のロジックは全部正しかった。前提が間違っていただけだ。施設が暁に渡した前提の中に穴があった。それだけのことだった。
暁の顔には何の表情も浮かんでいない。施設にいた頃の無表情に戻っている。施設の廊下の磨りガラスに映っていた、あの顔と同じだ。何も浮かんでいない顔。桐生の前で少しずつ動くようになっていた表情が全部止まっている。口元の動きも、眉の歪みも、全部消えている。暁は計算結果を見つめている。それだけだった。




