表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見えない閾値  作者: 灯屋 いと
第5章 不完全な公理系

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/26

#3 事実の申告

 桐生の部屋の床、暁はベッドを背にして桐生の隣に座っていた。

 いつもの場所、いつもの時間。窓から夕方の光が差し込んでいて床が橙色に染まっている。いつもなら暁の右肩と桐生の左肩が触れる位置に座るのに、今日は暁がいつもより端に寄っていた。暁と桐生のあいだに三十センチほどの空間がある。暁が無意識にそうしていた。

 手袋をはめた手が膝の上で握られている。指先に力が入っている。

 ──今日、言う。

 暁の計算が結論を出していた。暁の唇の接触時間の蓄積は暁の計算ではとうに安全圏を超えている。施設が教えた閾値が正確かどうかわからない。暁が黙ったまま桐生のそばにいることは桐生の生存に対するリスクを放置することと同義であり、暁はリスクを放置できなかった。暁はそう判断する。桐生に事実を伝えなければならない。

 桐生が読んでいた本から顔を上げ、暁の方を見る。暁がいつもと違う距離に座っていることに桐生は気づいているだろうか。暁にはわからない。桐生の目が暁を見ている。暁は桐生の目を見返して口を開いた。

「桐生さん」

「ん?」

「……誠、さん」

 暁の口から出た。出てしまった。喉の奥にあったものが今日、暁の口元を超えた。暁は自分の口から出た音を聞いて、すぐに修正した。

「……ではなく、桐生さん」

 距離を取らなければならない。これから言うことの重さを暁は知っている。知っているけれど暁は全部言う。全部を同じ温度で言う。暁に情報の選別回路はない。

 桐生が本を閉じた。暁の声のトーンに何かを感じ取ったのかもしれないが、暁にはわからない。桐生が暁の方に身体を向けた。三十センチの距離を挟んで暁と桐生が向き合っている。

「僕はドラッグです」

 暁は申告した。いつもの声。平坦な声。──無表情の声。暁の中に語彙が少なく、ただ事実を述べている。暁の声の温度は味噌汁が「温かいんですね」と言ったときと同じ温度で、金平糖の味が「違うんです」と言ったときと同じ温度だった。暁にとってはどれも事実の報告だが表情が少しだけ変わるように、暁の声も変質していた。しかし、いまの暁の声は初めて桐生の言葉に返事をした時と同じ温度だ。

 桐生の手が止まる。本の上に置いていた手が空中で静止する。暁はその動作の停止を検知した。何度も見てきた桐生の反応だった。暁の言葉を受け取って桐生の手が止まる。今回の停止は長い。暁の計測では三秒以上で、通常の停止より長い。暁はその差を検知しながら次の事実を述べた。

「触れると中毒になります」

 事実。同じ温度。暁の声は崩れない。

「桐生さんに触れ続けたら、桐生さんは死にます」

 事実。暁の声は平坦だ。暁は「死にます」という言葉を発音しながら桐生の顔を見なかった。暁の視線は自分の膝の上にある手袋をはめた手に落ちている。白い手袋。この手袋の下にある手が毒だ。暁はその手を見ている。

「でも離れたくないんです」

 事実。これが「死にます」の直後に同じ温度で出てくる。暁にとっては「死にます」も「離れたくない」も等しく事実であり、等しく暁の口から出る。暁は事実を選別しない。全部言う。全部同じ温度で。

「どうしたらいいかわかりません」

 暁はそう締めた。方程式を立てたけれど解がない。暁の頭は問題を記述することはできるけれど解を見つけることができなかった。桐生のそばにいると桐生が壊れる。桐生から離れると暁が壊れる。暁はその問題を正直に報告した。

 全部の事実が同列に並んでいる。「僕はドラッグです」と「離れたくないんです」が同じ重さで。「死にます」と「どうしたらいいかわかりません」が同じ声で。暁は事実を申告した。普通の人間であれば「殺すかもしれない」を先に言い、「離れたくない」は自分勝手だと知っているから飲み込むか言い方を変えるだろう。暁にはその回路がない。暁は全部言った。全部同じ温度で。

 桐生が暁を見ていた。暁は自分の膝の上の手袋を見ている。桐生を見ていない。暁の言葉が部屋の中に残っている。「僕はドラッグです」「死にます」「離れたくないんです」「どうしたらいいかわかりません」全部が同じ温度で並んでいて、暁はそのどれにも感情の優先度をつけなかった。

 部屋の空気が変わっている。暁にはそれがわかる。窓からの光は同じで空調の音も同じなのに、何かが変わっている。桐生の呼吸のリズムが変わっている。暁の耳がそれを捉えていて、桐生の呼吸がいつもよりわずかに深い。暁にはその深さが何を意味するのかわからなかった。

 暁は床に座って手袋をはめた手を見つめたまま桐生の反応を待っている。暁の身体がその姿勢を取っていた。背筋が真っ直ぐで、手は膝の上で、顔は俯いている。三十センチの距離を挟んで、暁と桐生が同じ床の上にいる。

 暁は桐生に全部言った。「全部」であることが暁の特徴だった。普通の人間なら言わないことまで暁は言う。暁のコミュニケーションにフィルターがなく、暁の口から出る言葉は全部が事実であり全部が同じ重さであり全部が暁の同じ温度を保っている。暁にとってそれは情報の正直な開示にすぎない。暁に「自分勝手だ」という自覚はない。自分勝手の概念がないからだ。暁は事実を言った。桐生がその事実をどう処理するかは桐生の領域だった。

 暁が全部言い終えた後、桐生はすぐには口を開かなかった。

 床の上に座っている暁と、三十センチ離れた場所に座っている桐生のあいだに沈黙が落ちている。窓からの光が部屋の中を橙色に染めていて、暁の手袋の白が橙色に染まっている。暁の手は膝の上にある。握られている。暁の手袋越しに暁自身の手のひらの汗が滲んでいた。暁の顔には何の表情も出ていないけれど、暁の身体は暁の内面を反映している。手の汗、膝の上の拳、背筋の硬さ。

 桐生が動かない。本を閉じた手が床の上に置かれていて、桐生の目は暁を見ている。暁は桐生を見ていない。暁の視線は自分の手袋の上にある。桐生が暁をどんな目で見ているのか暁にはわからない。暁は顔を上げることができない。顔を上げれば桐生の目が見えるけれど、桐生の目の中に何があるのか暁はそれを見ることが怖い。暁の中に「怖い」がある。失うことの恐怖。

 時間が経っている。暁のスマートウォッチの画面が暗くなってもう一度明るくなった。暁はその光の変化で時間が経過したことを知った。桐生の沈黙が暁の中で大きくなっていく。沈黙は空間を占有する。桐生が何も言わない時間が長くなるほど暁の胸の中の冷たさが深くなっていく。

 暁の手袋をはめた手が膝の上で震え始めた。微かな震え。暁は自分の手が震えていることに気づいているけれど止められない。

「……止まって」

 暁は自分の手に向かって囁いた。暁の手は暁の意志に従わない。桐生の沈黙が暁の手を震わせている。

「……離れる」

 暁の唇がかすかに動いた。声にはなっていない。けれど暁の口の形がその言葉を作っていた。桐生が離れるだろう、きっと離れる。暁はドラッグだ。触れると中毒になる。触れ続けたら死ぬ。まともな人間であればこの情報を受け取って離れるだろう。暁の頭はそう計算している。暁の頭は桐生が離れるべきだと知っている。暁の身体は桐生に「離れないで」と叫びたがっている。暁はその叫びを声にしなかった。暁はすでに「離れたくない」と言った。それ以上は暁にも言えない。全部言った。全部同じ温度で。あとは桐生の判断だ。暁は待つしかない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ