#2 美しい正比例
マンションの部屋でひとりになると、暁の顔が変わる。
桐生の前では暁の身体は緩んでいて、肩の力が抜けて呼吸が深くなって桐生の温度を全身で受け取っている。けれど桐生と別れて自分の部屋に戻ると、暁はベッドの端に座って手袋をはめた両手を顔の前に持ち上げる。白い手袋。暁の手はこの布地の下にある。
暁の手には毒がある。施設がそう教えた。暁の素手は人に害を成すから手袋をしていて、だから素手で触れてはいけない。暁はそれを忘れていない。告白してからもキスをしてからも一日も忘れたことがなかった。暁の手は毒であり、暁はその毒を桐生に向けている。手袋越しではあるけれど、向けている。
暁は手袋の指先を見つめた。この指が桐生の頬に触れている。この指が桐生の手を握り返している。この手が桐生のシャツの背中を掴んでいる。手袋越しだ。素手ではない。施設が禁じたのは素手の接触で、手袋越しは明示されていない。暁はその隙間を使って桐生に触れている。
では唇はどうなのだろうか。
暁の唇には手袋がない。桐生にキスをするとき暁の唇は素肌で桐生の唇に触れている。素肌だ。暁の中で計算が走り始める。キスの時間は一回あたり長くても十秒に届かない。一日に二回か三回、多い日で五回か六回。一日あたり最大でも一分に届かない計算だ。三十日で二十七分。施設が教えた閾値は三十分以上の接触だから、まだ届かない。
暁はその計算結果を何度も反復した。安全圏のはずだ。けれど暁の頭はその「はず」を信用しきれない。施設が教えた閾値が正確であるという保証はどこにもなく、施設はこの条件について詳細を暁に教えていない。「三十分以上」が累積なのか連続なのかすら暁は知らなく、施設に訊く手段もない。暁は検証できない前提の上に立っている。
──暁の頭の中でモデルが動き始めた。施設が暁に与えた情報は「三十分以上の接触で害が生じる」という文言だけだった。暁はその文言から構造を推測しなければならない。
暁に与えられた変数は接触時間と身体への影響のみであり、毒の動態について暁が知る手段はない。まず場合分けをした。毒が蓄積型か減衰型か。蓄積型は接触ごとに暁の毒が桐生の体内に積み上がっていき、離れても消えない。減衰型は接触を止めれば桐生の体内から暁の毒が時間とともに抜けていく。蓄積型であれば暁が桐生に触れた総時間がそのまま桐生の体内の毒量に直結する。減衰型であれば離れている時間が回復として機能する。
暁はどちらなのかを判定しようとしたが、判定できなかった。暁の手元にあるデータは施設の文言だけであり、実験値も観測値もない。毒物の半減期がどのくらいなのか、用量反応曲線がどんな形をしているのか、致死量に到達するまでの接触時間はどのくらいなのか。何もわからない。暁には一つの数値と一つの閾値しかなく、そこから動態を逆算する情報が足りない。
暁は判定を諦めて、最悪ケースを仮定した。
暁には「たぶん大丈夫」という判断の根拠がない。桐生と同年代の人間が「たぶん大丈夫だよ」と言うとき、その「たぶん」は過去の経験と社会的な文脈から来ている。暁にはその経験がない。暁が持っているのは施設の教育と数式だけであり、暁の頭は不明な変数に対して楽観的な仮定を置く回路を持っていない。未知は危険であり、未知に対する暁の応答は最悪ケースの仮定だった。
蓄積型と仮定する。不可逆と仮定する。暁の毒は桐生の体内から消えず、触れるたびに積み上がると仮定する。
その仮定の下で暁は再計算した。キスの累積接触時間。一回あたり長くても十秒に届かない。一日に二回か三回、多い日で五回か六回。一日あたり最大でも一分に届かない。三十日で二十七分。閾値まで三分。
三分しかない。
手袋越しの接触時間。手袋は遮蔽率が不明であり、完全に遮断しているのか減衰させているだけなのか暁にはわからない。完全遮断ならば手袋越しの接触は計算に含まれない。けれど減衰であれば手袋越しの接触もゼロではなく、三分はすぐに埋まる。暁はまた判定できず、また最悪ケースを取った。手袋は減衰であり遮断ではないと仮定する。
暁の頭の中で数字が積み上がっていく。全部の接触を蓄積型で足し上げた数字。閾値の三十分はとうに超えている計算になる。けれど桐生に症状は出ていない。暁の計算が間違っているのか、暁がまだ知らない変数があるのか。暁には判定できなかった。蓄積型の毒は時間の関数であり、接触が続く限り単調増加する。減ることがない。暁が桐生のそばにいる限り、数字は増え続ける。
*****
桐生の部屋で夜を過ごすことが増えている。床に並んで座って壁にもたれて本を読んでいる。桐生が欠伸をした音を暁は耳の端で拾った。
「眠いですか」
「んー、まだ。もうちょい読む」
桐生はそう言ったけれど、五分もしないうちに桐生の頭が暁の肩に乗ってきた。桐生が先に眠くなる。暁がまだ起きていると桐生が暁の肩に頭を乗せて眠ってしまう。暁は桐生の重みを肩で受け止めながら本のページを開いているが、読めていない。桐生の寝息が暁の耳のすぐ近くで聞こえている。規則的な呼吸。桐生の身体の重みが暁の右半身にかかっている。
暁の手袋をはめた手がそっと桐生の髪に触れる。寝ている桐生の頭を暁が撫でている。以前は桐生が暁を撫でるだけだったのに、いまは暁も桐生を撫でている。手袋越しに桐生の髪に指を通してゆっくり動かす。桐生は眠っている。暁の手が桐生の頭の上を動いているのを桐生は知らない。
暁は桐生を撫でながら、計算をしている。
桐生がこのまま暁の肩で二時間眠ったと仮定する。肩と頭の接触面積、身体の密着度。暁の手袋越しの手が桐生の髪に触れている時間。これは暁から桐生への接触だ。暁が自分から触れている。桐生が暁の肩で眠っているのは桐生から暁への接触であり、暁の側からの接触ではないけれど、接触自体は成立している。
暁の頭の中で蓄積モデルが回っている。暁の計算ではとうに閾値を超えている。それでも桐生は壊れていない。暁の計算が正しいなら桐生は既に害を受けているはずで、暁の計算が間違っているならまだ知らない変数がある。どちらにしても暁には判定できない。判定できないまま、二時間の密着が累積加算されていく。暁はその数字を頭の中で走らせながら桐生の髪を撫でている。──手を離すことは身体が拒否している。
桐生の寝息が暁の耳に聞こえている。温かい。離れたくない。けれど、離れた方がいいと暁の頭は判断している。暁の身体は動かない。温かいからだ。桐生の重みが暁の肩にかかっていて、その重みが暁の身体を固定している。
やがて暁も眠くなる。目が閉じかける。いつの間にか二人とも床で眠っていて、暁の身体が桐生の方に傾き、桐生の腕が暁の腰に回っている。朝起きると密着している。六時間。手袋越しだけれど全身が触れている。暁は目を開けて桐生の寝顔を見る。穏やかな顔。暁の計算では、もう何度も閾値を超えている。それでも桐生の顔は穏やかなままだ。暁にはそれが救いなのか猶予なのかわからない。桐生の顔から目を離せない。
大学の帰り道、桐生と並んで歩いている。手を繋いでいる。手袋越し。夕暮れの道。夕日が二人の影を長く伸ばしていて、暁は繋いだ手の影が一つに重なっていることに気づいた。
「桐生さん」
「ん?」
「影が、繋がっています」
暁が指さした先で、二人の手の影が路面の上で溶け合っていた。桐生がそれを見て、暁の手袋をはめた手を少し持ち上げた。影が動く。桐生が笑った。
「ほんとだ。影は手袋してないね」
暁はその言葉を受け取って、暁の中で何かがちくりと刺さった。影には手袋がない。暁の影は素手で桐生の影に触れているように見える。暁にはできないことを暁の影がしている。
「手袋、暑くない?」
桐生がさらりと言って、暁は桐生の横顔を見た。桐生の声に深い意味はなかったのだろう。五月が終わりに近づいて気温が上がっていて、手袋をはめているのは確かに季節に合っていない。桐生はそれを指摘しただけだ。
「……大丈夫です」
暁は答えた。嘘ではない。気温が理由で手袋をしているのではないのだから、暑いかどうかは手袋を外す理由にならない。暁は手袋を外さないし、外せない。この手袋の下にある暁の手は毒であり、暁はその毒を桐生に向けないために手袋をしている。桐生はそれを知らない。暁は桐生にまだ言っていない。
「そっか」
桐生はそう言って、暁の手袋をはめた手を少し強く握った。暁の心臓が動く。桐生の手の力が強くなって暁の手袋越しに桐生の体温が濃く入ってくる。暁はその温度を受け取りながら、暁の頭の中で恐怖が一段階分大きくなった。蓄積モデルが加算している。手を握る圧力が強いほど手袋の繊維が圧縮され、遮蔽率が下がる。強く握られるほど等価接触が増える。暁の頭はそこまで計算していて、桐生の手の力が暁の恐怖を直接押し上げている。
暁の中で幸せと恐怖が同じ場所にいる。分離できない。桐生に触れるのが幸せで桐生に触れるのが怖い。桐生の手が暁の手を握る力が強くなると幸せが大きくなり、幸せが大きくなると恐怖も大きくなる。比例している。幸せと恐怖が正比例で上昇している。暁はその比例関係を頭の中で見つめていた。数式として美しい構造だと暁の頭は認識するけれど、暁の身体はその美しさに吐き気を覚えている。
幸せが大きくなるたびに恐怖が大きくなる。暁はその法則を身体で知り始めていた。
ある夜、桐生の部屋で映画を見ていた。桐生のノートパソコンの画面を二人で覗いている。ベッドを背もたれにして床に座り、暁は桐生の隣にいた。桐生の肩に暁の頭が乗っている。桐生が暁の肩に頭を乗せたことはあるけれど、暁が桐生の肩に頭を乗せるのはこれが初めてだった。暁の身体が自分で動いたのだ。桐生の肩の高さと角度が暁の頭にちょうどよくて、暁はそこに頭を預けている。
画面の中で物語が進んでいるけれど、暁の目は画面を見ていない。暁の目は閉じかけている。桐生の肩の温度が暁の側頭部から入ってきて、暁の意識を沈ませていた。──眠い。桐生の隣にいると暁はよく眠くなる。桐生の体温が暁の覚醒を解除してしまうのだ。施設にいた頃、暁が誰かの隣で眠くなったことは一度もなかった。そもそも、施設で暁はほぼ一人で、隣に誰かがいるときはない。あったとしても数分の処置のための時間だけだ。暁が眠くなるのは桐生の隣だけだった。
「暁、寝てる?」
「……寝ていません」
静かに穏やかに問いかけてくる声に、暁は眠いままの声で反論した。暁の額にキスが落ちた。
「完全に寝てた」
「……寝ていたんですか」
この会話は暁が発熱した日にもあった。暁は同じ構造の返答をしている。桐生がくすりと笑って暁の頭を桐生の手が撫でると、暁の意識が遠のいていく。温かい。桐生の手が暁の頭の上にあって、桐生の肩に暁の頭が乗っていて、暁の全身が桐生に預けられている。
暁は眠りに落ちかけている。暁の意識が薄れていくその境目で、暁の頭の中の計算回路だけがまだ動いている。いまこの瞬間の接触面積。暁の側頭部と桐生の肩。暁の身体の右半身と桐生の身体の左半身。桐生の手と暁の頭。接触面積の合計と接触時間。暁が目を閉じた瞬間が計測開始で、暁の頭はその計算を走らせながら、暁の身体は桐生の温度に沈んでいく。
矛盾している。幸せに沈んでいく暁の身体と恐怖を計算している暁の頭が、同じ暁の中にいる。
*****
暁がひとりで部屋にいるとき、暁は自分の手袋をはめた手を長い時間見つめるようになっていた。
白い手袋。施設の首輪。暁の手はこの布地の下にある。暁はこの手で桐生の頬に触れた。手袋越しに。桐生の手を握った。手袋越しに。桐生のシャツの背中を掴んだ。手袋越しに。全部手袋越しで、暁の素手は一度も桐生に触れていない。暁の唇だけが素肌で桐生に触れている。
暁は手袋の端を摘まんでずらした。手首の肌がわずかに露出する。白い肌。暁の素手の皮膚が空気に触れている。暁はすぐに手袋を戻した。ずらしたのはほんの数ミリで、暁の素手は空気にしか触れていない。何にも触れていない。
外したい、と暁は思った。
暁の中にその衝動がある。手袋を外して素手で桐生に触れたい。桐生の頬の温度を直接感じたい。桐生の手の温度を遮蔽する布地なしで受け取りたい。暁の中で欲求と恐怖が同時に膨張している。外したら桐生にどんな害があるのかわからないし、わからないから外せない。外したいのに外せない。このまま一生手袋をしたまま桐生の隣にいるのだろうか。暁はその問いに答えられない。
暁は手袋を戻して膝の上に手を置いた。暁の中で計算が走り続けている。とうに超えている。幸せと恐怖の比例関係。同じ傾きで上昇し続ける二本の直線。現実には症状が出てない。暁の計算が間違っているか、暁がまだ知らない変数があるか。どちらにしても暁には判定できない。暁が持っているのは「まだ桐生が壊れていない」という観測事実だけで、それが「安全だから」なのか「まだ発症していないだけ」なのか暁には区別がつかない。
*****
桐生と一緒に眠った朝、暁は桐生より先に目が覚めた。
桐生の部屋のベッドの上。暁は仰向けに横たわっていて、桐生は暁の隣で横を向いて眠っている。桐生の右腕が暁の腰のあたりに乗っていて、桐生の呼吸が規則的に暁の髪を揺らしている。
暁は動かなかった。首を傾けて桐生の寝顔を見ている。
「……起きて、ない」
暁は声にならない声で確認した。桐生の呼吸は規則的で、暁の言葉に反応しなかった。暁は安心したように桐生の顔を見つめた。
睫毛が長い。目が閉じていると睫毛の長さが際立って、頬骨の上にうっすらと影を落としている。唇が少しだけ開いていて息が暁の顔に触れている。桐生の髪が枕の上に広がって、暁の手袋をはめた手の近くに指先が触れていた。暁は桐生の髪を手袋をはめたまま、そっと指先で摘まんだ。桐生の髪の感触が手袋の布地を通して伝わる。直接触ったらもっと柔らかいのだろうか、と暁は考えて、考えを振り払った。
桐生の寝顔は穏やかだった。暁を見ているときの桐生の目は穏やかさの中にいつも何かを含んでいるけれど、目を閉じている桐生の顔にはその何かがない。ただ眠っている。暁の隣で暁に腕を回して暁のそばで。暁は桐生の顔を見ていたかったし、見ている時間が暁の中で何かを満たしている。
「……ずっと、こうしていたい」
暁はそう呟いて、すぐに自分の言葉に気づいた。暁が人に対する具体的な欲求を声にしたのは初めてだった。桐生が眠っているから言えたのかもしれなかった。起きている桐生にはまだ言えない言葉だった。
同時に暁の頭の中で計算が走っている。暁の身体と桐生の身体が接触している面積。桐生の腕が暁の腰に乗っている面積。暁の右半身と桐生の左半身が密着している面積。暁が目を覚ましてから桐生がまだ眠っていて、このあいだも接触時間は加算されている。暁はそのことを知っていながら動かない。桐生の寝顔を見ている。
もし暁がいなければ、と思った。暁がこの場所にいなければ。桐生の隣に暁以外の、毒ではない人間がいたら。桐生は安全に眠っていられる。暁の隣で眠ることは桐生にとって危険なことだ。暁はその事実を知っていて桐生の腕の中にいる。桐生の寝顔が穏やかであればあるほど暁の胸の中の冷たさが深くなる。
「……ごめんなさい」
暁はそう囁いて、そっと桐生の腕の下から身体を抜いた。桐生の腕が暁のいた場所に落ちる。暁がいなくなった空間に桐生の腕が沈む。暁はベッドの端に座って桐生の背中を見ていた。離れた。接触が途切れた。暁の計算が止まる。けれど暁の視線は桐生から離れない。視線は接触ではない。視線では桐生を壊さない。暁はそれだけを確認しながら桐生の背中を見ていた。
ふいに、桐生が寝返りを打った。暁の方に腕を伸ばす。暁はもうそこにいないのに。桐生の手が空を掻いて、暁がいた場所を探すように動いて、見つからなくて止まった。暁はその動作を見ていた。胸の中で何かが締まる。暁がいた場所を桐生の手が探している。
「……ここに、います」
暁の唇が動いた。声はほとんど吐息だった。暁はその場所に戻りたかった。桐生の腕の中に戻りたかった。けれど戻れない。暁が戻れば計算が再開される。暁はベッドの端に座ったまま、桐生の手が空を探すのを見ていた。




