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見えない閾値  作者: 灯屋 いと
第5章 不完全な公理系

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#1 好きの実行段階

 告白の後の日々は、暁が想定していなかった形をしている。

 暁にとって「好きです」はゴールだった。自分の中にある感情に名前をつけて桐生に伝える。それで完了するはずだった。桐生が「キスしていい?」と訊いてきて、暁が「いい、です」と答えて、唇が触れて、もう一回キスした。暁のルートマップには「好きですの先」がなかった。告白の先にまだ道が続いていることを暁は知らなかった。道はまだ伸びている。毎日、少しずつ、暁が歩いたことのない方向に。

 変化は一般的に見れば些細だが、暁にとっては大きい。そのひとつとして、桐生と手を繋ぐようになった。

 最初は桐生からだった。並んで歩いているとき桐生がさりげなく暁の左手を取った。暁の手袋をはめた手を桐生の素手が包むように握り、指と指のあいだに桐生の指が入ってくる。暁の手のひらの上で桐生の体温がゆっくりと広がっていった。暁は最初その感触を「温かい」として受け取っただけだったけれど、三度目に暁は自分の手が桐生の手を握り返していることに気づいた。暁の指が桐生の指のあいだで力を入れている。誰に教わったわけでもないのに、暁の身体が勝手にそうしていた。

 五度目、暁は桐生より先に手を出していた。桐生の横を歩いていて、暁の手袋をはめた左手が自分で動いて桐生の右手に触れた。桐生が一瞬こちらを見て、それから暁の手を握り返してくれた。暁は前を向いたまま歩いていたけれど、暁の手は桐生の手を離さなかった。暁が自分から桐生に触れた。手袋越しではあるけれど、暁の意志で。

 銀杏並木の下を歩いている。五月の光が葉のあいだを抜けて、暁と桐生の繋いだ手の上に木漏れ日が落ちていた。暁は自分たちの手元を見た。白い手袋と桐生の素手。布越しに繋がれた二つの手。暁の唇は素肌で桐生に触れているのに手だけが布を挟んでいて、暁はそのことを考えたが、特に何も思わなかった。なにも考えないようにした。手袋は暁の手順の一部であり、外すという選択肢は暁の中にまだ存在しない。

 施設が暁に刷り込んだ暁が素手で触れることは毒であるということに対して、暁は明確な反証を得られていない。例え、施設の定義が不明確だとしても暁が素手で触れたことのある瀕死の様相の虚弱体質の人間は治癒した。そのために暁は施設にいた。毒という表現が暁の中で引っ掛かる。薬というものは元を正せば毒性のものである場合が多い。特別に虚弱体質な人間にとって暁が治癒の役割を果たすのであれば、一般的な人間に対して摂取過多という毒性を捨てきれない。だが、その範囲がまた不明瞭だ。三十分という明確な数字を暁は忘れないが、その定義もいまの暁には不明瞭だ。

「桐生さん」

 暁はぽつりと呟くように桐生を呼んだ。

「ん?」

「……手を繋ぐのは、なぜですか」

 歩きながら訊いた。暁は知らないことがあれば桐生に訊くし、手を繋ぐ理由を暁は知らない。桐生が暁の手を取る動機が暁にはわからない。暁の中には触れていたいという明確な動機があるが、桐生の動機はわからない。

「暁の手、あったかいから」

「手袋をしているからです。体温が逃げにくい構造です」

「……そういうとこだよ」

 桐生が小さく笑った。暁にはその笑いの意味がわからないけれど、桐生が笑っているとき桐生の手の力がほんの少しだけ緩むことに暁は気づいていた。力が緩む。怒っているのではない。何か別のもの。暁にはその名前がまだ特定できない。

 緩く繋いだ手が少しだけ桐生に引き寄せられたかと思うと、暁の頬にキスが落ちた。一瞬だけ柔らかな唇の感触がして離れていく。

「桐生さん」

「ん」

「……桐生さん」

「なに? 二回呼んだよ」

 桐生がくすくすと笑いながら足を止めて暁の方を向いた。暁はぼんやりと前を向いたまま桐生の手を握っている。頬にキスが落ちた。キスとは唇を触れ合わせることではなかったのか。暁の目が桐生の顔を一瞬だけ見て、また前に戻った。キスの要件を暁は桐生に訊こうとは思わない。温かく触れる温度は心地いい。少しだけ、心拍数が上がる。ただ呼びたかっただけだということを暁はまだ説明できない。

「いえ。呼んだだけです」

 用件はない。ただ呼びたかった。呼んで桐生が「ん」と返す。それだけのやり取りが暁の中で何かを満たしている。

「暁。もう一回、キスしていい? ちゃんと唇に」

「はい」

 暁は即答する。大学のキャンパスの銀杏並木の下で、まだ陽が高い。しかし、暁に社会的規範の羞恥が存在しない。頬に触れた唇が、唇に触れる。温かい温度。暁がうなずく理由はそれしかない。

 暁の喉の奥にもうひとつ別の呼び方がある。「誠さん」。その三文字が喉の奥で動いている。暁はその呼び方を出していいのかわからないまま「桐生さん」を繰り返していた。


 キスの頻度が次第に上がっていく。朝、合流したときに桐生がおはようの代わりに暁の唇に触れる。暁は最初それを「挨拶」として分類した。施設では挨拶は言葉だった。「おはようございます」「はい」。桐生の挨拶は唇だった。暁はその新しい挨拶の形を受け取って、毎朝桐生の唇の温度で一日が始まるようになった。

 講義の後に教室を出るときにも。周囲に人がいるときは桐生は暁のこめかみに軽く唇を触れる。暁の手袋をはめた手が桐生の袖を掴む。桐生がキスをしてくれると暁の手が動いて、桐生の服のどこかを掴むのだ。袖、裾、肩。暁はそれを意識的にやっているのではなく、暁の手が勝手に動く。キスの温度が暁に入ってきたとき暁の手が桐生を掴んで固定しようとしている。逃がさないように。暁はその行動の意味をまだ完全には理解していなかった。

 暁にとってキスは毎回が新しい。桐生の唇の温度を暁は毎回受け取って、毎回心臓が動く。馴れない。暁の身体は桐生の唇に馴れない。毎回同じ温度で同じ柔らかさのはずなのに暁の心臓は毎回反応する。

「桐生さん」

「ん?」

「キスのたびに心臓が動くのは、なぜですか。同じ刺激に対して同じ反応が減衰せずに続くのは、身体の法則に反しています」

 真顔で言う暁に桐生がぷっと吹き出した。暁の言い方がおかしかったらしい。桐生が暁の言葉で笑う頻度が高く、暁は桐生を笑わせようとしているわけではないのに暁の言葉は桐生を笑わせる。暁にはその構造がわからなかった。

「馴れないのは悪いことじゃないよ」

「悪いことではないんですか」

「うん。むしろいい」

 桐生は暁の頭を撫でながら、まだ少し笑っている。

「なぜですか」

 暁は首を傾げた。暁の手袋をはめた手が自分の胸に触れている。まだ心臓が動いている。キスの温度が暁の唇に残っていて、暁はその残熱を指先で確認するように唇に触れかけて、やめた。

「毎回新鮮ってことでしょ。俺はそれ、嬉しいよ」

 桐生が笑いながら言った。暁は「嬉しい」の語彙を桐生から受け取る。桐生が嬉しいと言っている。暁のキスへの反応が桐生を嬉しくしている。暁はその因果関係を受け取って、暁の中に名前のつけようのない何かが満ちていった。

「もっとしたいのは、いいことですか。手を繋ぐのも、キスをするのも……甘いものや温かいものを食べる時と似ています。でも、桐生さんは食べ物ではありません」

 少し考えてから暁は素直に申告した。講義の後の教室には誰もいない。するりと伸びてきた桐生の腕が暁をぎゅっと抱き締めた。

「いいよ。でも、食べ物と同じにしないで。それさ、暁。気持ちいいっていうんだよ」

「気持ちいから……もっとしたいです」

 初めて明確に暁の中の感覚に桐生から名前をつけられ、暁は桐生に抱き締められながら繰り返した。桐生の抱き締める腕が緩み、唇に触れた。長い間触れていて、暁はどうやって息をしていいのかわからなくなった。上手く呼吸ができないのに、緩く抱き締められる温度とキスの温度が気持ちいい。暁の思考速度がゆっくりと速度を下げていく。手を繋ぐこと。キスをすること。抱き締められること。それは気持ちいいこと。新しいデータが暁の中に桐生の言葉で書き加えられた。


 桐生が暁を抱きしめることが日常になった。桐生の部屋に着くと桐生が暁を抱きしめる。暁が気持ちいいことが日常の中に増えていく。

 六畳一間の小さな部屋。暁が靴を脱いで短い廊下を抜けて部屋に入ったとき、桐生がデスクの椅子から立ち上がってこちらを向く。暁と目が合い、桐生が手を広げる。暁はその動作の意味を最初はわからなかったけれど、桐生の手が左右に広がって暁に向けられているのを見て、暁は一歩前に出た。桐生の腕の中に入る。暁の胸に桐生の胸が触れて、暁の肩に桐生の腕が回って、暁の身体全体が桐生の体温に包まれる。

 施設では暁の身体に他の人間の身体が密着したことは一度もなかったし、暁がこの行為の名前を知ったのは桐生に訊いたからだった。

「桐生さん。これは何ですか」

 告白の後から暁は何度かこうして桐生に抱き締められているが、行為の名前を知らないままだった。

「ハグ。抱きしめてるの」

「なぜですか」

「暁に会いたかったから」

 桐生の腕が暁の背中に回っている。暁の鼻先に桐生の首筋の匂いがあって、肩から力が抜けていくのを暁は感じていた。けれど暁の頭は別の計算をしている。二時間前に会っているのだ。

「……二時間前に講義で会っています」

 暁は桐生の肩口に顔を埋めたまま言った。声が桐生のシャツの布地に吸い込まれてくぐもっている。

「それとこれとは別」

 暁にはその論理がわからなかった。二時間前に会った人間にもう一度会ったとき抱きしめる理由が暁の中で結合しない。けれど暁は桐生の腕の中にいることを拒否しない。温かいから。気持ちいいから。桐生の首筋の匂いが近くて、桐生の呼吸が暁の耳のすぐ横で聞こえて、暁の身体が桐生の身体の形に沿って馴染んでいく。暁の肩から力が抜ける。呼吸が深くなる。撫でられたときと同じ反応が全身で起きていた。頭だけでなく肩も背中も腕も、暁の身体の全面が桐生に触れているから全面から温度が入ってくる。

 抱き締められると、距離が近く、至近処理で視線が交差すると暁は頭を撫でられるときのように少しだけ顎を上げる。被さるように桐生のキスが落ちてくる。


 ある日、暁はふと自分の腕が桐生の背中に回っていることに気づいた。手袋をはめた手が桐生のシャツの背中をつかんでいる。暁がそうしたのだ。桐生が暁を抱きしめている間に暁の手が自分で動いて桐生の背中に回った。暁はそのことに少し遅れて気づいたが、手を離さなかった。離す理由がない。桐生が暁を抱きしめているなら暁も桐生を抱きしめていい、と暁は判断した。

 暁の口元がわずかに動く。古書街で初めて動いたのと同じ方向に。暁は笑い方を知らなく、笑顔と呼ぶには足りない。けれど桐生の腕の中で暁の表情が動いていることは間違いない。

「桐生さん。検証したいことがあります」

 桐生の胸に頬をつけたまま、暁は思いついたように言った。検証。実験。未知のことに対するときに暁はそう表現する。

「うん。今度はなにを検証するの」

「いつも、桐生さんが僕にキスしてくれます。ですから、僕から桐生さんにキスをしたことがありません。しかし、桐生さんは人間なので合意が必要かと……」

 暁は桐生の腕の中で温かい温度を受け取って身体が緩んでいる。思考速度も普段よりは遅い。それでもまだ受動で受け取る気持ちいいと能動で感じる気持ちいの差異を検証しようとしている。そして、暁が受動で気持ちいいと感じるのであれば桐生はどうなのだろうという疑問も浮かんでいる。

「暁さんは好奇心旺盛で積極的だねえ。いいよ。好きな時に好きなだけ試していいよ」

 くすくすと笑いながら桐生は暁を抱きしめたまま、片手で暁の頭を撫で、許可を下す。暁は桐生の背中に回していた腕を解き、両手で桐生の頬を包み引き寄せた。身長差と体格差が暁からでは桐生に届かない。桐生の体格は標準的だが、暁との身長差は頭ひとつ分あり、施設育ちで運動習慣のなかった暁は成人男性にしては細すぎる。

「……検証はサンプル数が必要です」

「そうだね」

 初めて、暁から桐生にキスをした。能動的にキスをしても、触れた温度は温かく、やはり気持ちいい。けれど受動で受け取るキスと能動で自分で選択してキスをするのでは、暁自身がまだ言葉にできない僅かな差異があった。

「桐生さんは気持ちいいですか?」

「うん。それに、暁がしてくれるのは嬉しい」

「……嬉しい……」

 桐生の頬を両手で包んだまま暁は繰り返したが、暁の中の差異は「嬉しい」ではなさそうだ。

「まだ、サンプル数を増やす必要があります」

 そう言って暁は桐生がしてくれたキスを思い出しながら、唇に、頬に、こめかみに、額にいくつもキスを落としていった。桐生の表情が暁を抱き締めたまま、次第に緩んでいく。暁がキスをするたびに緩んでいく桐生の表情の変化。それは「気持ちいい」が蓄積されているのだろうか。まだ暁はその判断を保留にした。

 キスの嵐が落ち着いて、桐生の部屋でベッドを背に並んで座って本を読んでいる。ベッドにもたれて、暁の右肩と桐生の左肩が密着している。窓からの午後の光が畳の上に落ちて、二人の膝の上の本を照らしていた。暁はページをめくっているけれど、文字が頭に入ってこない。桐生の体温が暁の右半身から入ってきて暁の意識を占有しているのだ。暁はページを開いたまま何行も同じところばかり読んでいる。

「暁」

「……はい」

 ふいに桐生に呼ばれ、暁は返事したが少しだけ上の空だった。

「読んでないでしょ」

「……読んでいます」

「嘘。十分くらいめくってないよ」

 暁が答えた後、桐生が暁の肩に頭を乗せてきた。桐生の髪が暁の首筋に触れて、桐生の体重の一部が暁の肩にかかる。重い。けれど不快ではない。不快ではないどころか暁の身体がさらに緩んでいく。桐生の髪の匂いが鼻に入ってきて、暁はその匂いを言葉にできないまま呼吸のたびに受け取っている。

 暁の手袋をはめた手がそっと動いた。桐生の髪に触れようとして、指先が桐生の毛先に触れかけたところで止まった。暁の手が自分で止まったのだ。触れたい。触れていいのかわからない。暁の手は桐生の髪の数ミリ手前で浮いていて、暁はその手を見ている。

「……桐生さんが肩に頭を乗せるからです」

 髪に触れないまま止まった手を降ろして、暁は答えた。

 手を繋いでいるとき、抱き締められているとき、キスをしているときは暁は欲求のまま桐生に手を伸ばしてしまっている。自戒が意識の外に追いやられてしまっているのだ。だが、密着しない距離になると暁に身に染みついた自戒がまだ行動にブレーキをかけてしまう。

「重い?」

「重いです。でも……離さないでください」

 暁が「離さないでください」と言ったのは初めてだ。「触ってもいいですか」は暁が桐生に許可を求める形だったけれど、「離さないでください」は桐生に留まることを求めている。暁の中で欲求の形が変わりつつある。「触りたい」から「離さないで」へ。暁はその変化に気づいていない。

 桐生の頭が暁の肩の上で少し動いた。暁を見上げるような角度で。暁は桐生を見下ろした。桐生の目が暁を見ている。至近距離で。暁の目と桐生の目のあいだに十センチもない。桐生の目の中に暁の顔が映っていた。穏やかな目。暁に向けられた目。自分が桐生の目に映っていることが、暁の中で名前のない何かを満たしている。

「桐生さん」

「ん」

 暁はまた呼んだ。また用件はない。だが、至近距離で頬にキスが届く位置関係だった。そっとキスを落とした。

 暁は「桐生さん」をたくさん呼んでいる。何度呼んでも桐生は「ん」と返してくれる。暁の喉の奥で「誠さん」が動いている。繰り返すたびに喉の少し上に移動している気がしていた。けれどまだ出てこない。


*****


 講義の合間、暁はひとりで学内のコンビニに入った。暁がコンビニに入ること自体は珍しくない。水やカロリーメイトを買いに入ることはある。けれど今日の暁は別の棚の前で立ち止まっていた。飲み物の棚。暁の目が棚を端から端まで走査している。暁は自分が何を探しているのかを二秒ほど処理してから理解した。桐生が好きなものを探している。

 桐生はカフェラテをよく飲んでいる。暁は桐生が飲んでいるものを覚えていた購入頻度の高い商品名も。講義の前に自販機で買っているのを何度も見ていた。暁はそのデータに基づいて棚の中からカフェラテを一本取り出した。自分の分の水も取って、二本持ってレジに行った。

 暁が誰かのために飲み物を買うのは、これが初めてだ。施設では誰かのために何かを買うという行為自体が必要なかった。施設から出た後の暁のルーティンには「自分の必要なものを調達する」しかなく、「誰かの好きなものを調達する」は存在しなかった。暁の中にその選択肢が生まれたのは桐生がいるからだ。

 講義室に戻ると桐生がいつもの席にいた。暁は桐生の隣に座って、手袋をはめた手でカフェラテを桐生の机の上に置いた。

「桐生さん。これ」

「ん? ……カフェラテ?」

「桐生さんがよく飲んでいるものです」

 桐生が暁を見た。少し長く見ている。暁にはその目の中にあるものの名前がわからなかったが、桐生の唇が動いて小さく笑ったのは見えた。

「暁が買ってきてくれたの?」

「はい」

「ありがとう」

 桐生がカフェラテを受け取り、開けて飲んだ。暁はその様子を横目で見ていた。桐生が暁の買ったものを飲んでいる。桐生のために暁が選んだもの。暁の中で何かが満ちていく。名前はまだつけられないけれど、暁の胸の中が温かかった。暁は自分の水を開けて飲んだ。同じ時間に同じ場所で同じ動作をしている。それだけのことが暁の中で大きな意味を持っている。


*****


 休日に暁と桐生はスーパーに行った。休みの日は暁と桐生、どちらかの部屋で過ごすことが多くなった。もちろん、泊まることもある。

「今日なに作る?」

 桐生が訊いてきて、暁は考えた。暁が「食べたい」を持つようになって久しい。暁の中に食べたいものの引き出しができていて、カレー、卵焼き、味噌汁、おかゆと並んでいる。暁は桐生が作ってくれたものを全部覚えていた。味も温度も。

「……肉じゃが」

 ふと、暁はこれまでに桐生が作ったことのない料理を口にした。学食のカレーと桐生のカレーは違った。ほかの料理も違った。ならば、もっと検証数を増やせば暁の食べたことのある料理と桐生の作った料理の違いに明確な定義が見つけられるかもしれない。

「肉じゃが? 食ったことあんの?」

「学食で出ました。桐生さんが作ったものとは違うと思いますけれど」

「学食の肉じゃがと俺の肉じゃが、違うって言ってくれるんだ」

 桐生が笑った。暁は自分が何かおかしなことを言ったのかと首を傾げたけれど、桐生の笑い方に否定はない。暁は桐生が笑うのを見て、暁の口元がわずかに動いた。少しずつ暁の表情が笑みの形に近付いていることに暁は気づいていない。桐生は暁の表情の変化に気づいているのかもしれなかったし、気づいていないのかもしれなかった。

 スーパーの中を歩きながら、桐生が食材を選んで暁がかごを持つ。以前は桐生だけがかごを持っていたけれど、暁がかごを持つようになったのはいつからだったか暁にも定かではない。桐生が食材を手に取るたびに暁がかごを差し出す。その動作がいつの間にか暁のルーティンに入っている。

「暁、じゃがいも選んで」

 ときどき、桐生は選択権を暁に渡す。なに作る? じゃがいも選んで。食べ物の選択権、食材の選択権。

「……選ぶんですか」

「うん。好きなやつ取って」

 暁はじゃがいもの棚の前に立った。土色の塊が並んでいる。以前の暁にはどれも同じに見えていたが、もう桐生と何度かスーパーに来ている。前に桐生が「丸いやつの方が煮崩れしにくいよ」と教えてくれたことを暁は覚えていて、丸みのあるじゃがいもを三つ選んでかごに入れた。桐生が横でそれを見ていて、暁はそのことを検知する。桐生に見られていることが暁の中の何かを満たしている。


 スーパーでの買い物を終えて、暁の部屋で桐生が料理を始めた。暁はキッチンの横に立って桐生の手元を見ている。いつもの場所。暁は桐生の料理を見るのが好きだった。何度でも見ていたいと思っている。にんじんが切り分けられていき、玉ねぎが刻まれていく。暁のキッチンで、暁のまな板と暁の包丁で、桐生が暁のために料理をしている。

「桐生さん」

「ん?」

「……いま、何がありますか」

「ん? 何って?」

 桐生が包丁を持つ手を止めて暁を見た。暁は部屋全体を見渡すように視線を動かしていた。窓からの夕方の光、鍋から立ち上る湯気、まな板の上のにんじんの断面。暁はそのすべてをまとめて指し示すように手袋をはめた手を小さく動かした。

「この時間に、名前があるか訊いています」

 暁は自分でも何を訊いているのかわかっていなかった。暁の中にある、桐生がキッチンに立っていて、暁がその横で料理の様子を見ていて、部屋の中に料理の匂いが広がっていて、窓から夕方の光が差し込んでいるこの時間。この時間全体が暁の中で何かに満ちている。暁はその何かの名前を探している。

 桐生は包丁の手を止めて暁の方を見た。長い間手を止めてじっと見ている。暁の質問の意味を桐生がどこまで受け取っているのか暁にはわからない。

「……日常、かな」

 再び手を動かしながら、桐生はぽつりと言った。

「日常」

 暁はその二文字を繰り返した。暁の唇が「にちじょう」の形を確かめるように動いている。暁の手袋をはめた手がエプロンの端を掴んでいる。暁はいつの間にかエプロンをつけるようになった。桐生が「つけときな」と渡してくれたものだった。

「うん。一緒にいて、飯作って、食べて。そういうの」

「施設にいた頃も日常はありました」

 暁の声はいつもと同じ平坦さだったが、暁の視線が桐生の手元にあるにんじんから窓の外の夕暮れに移動していた。施設の白い壁の記憶がちらついた。暁の肩がわずかに強張り、すぐに桐生の体温が暁の右肩に届いて緩んだ。

「そうだね」

「でも、あの頃の日常と、いまの日常は……同じ言葉なのに違います」

 暁は事実を述べた。施設の日常とこの日常は構造が違う。施設の日常には桐生がいなかった。この日常には桐生がいる。桐生がいる日常は暁の身体の反応がまるで異なるのだ。施設の日常で暁の肩の力が抜けたことはなく、暁の呼吸が深くなったことはなく、暁の表情は動いたことがない。桐生がいる日常にはそのすべてがある。

 桐生は暁の言葉を聞いて何も言わなかった。包丁を持つ手を動かし、料理を続けた。暁は桐生の横顔を見ている。料理をしている桐生の横顔は真剣な顔で、暁が数式を読んでいるときの顔とは違う。暁はこの顔を、暁の中に蓄積されている桐生の顔のリストに追加していた。笑った顔、考えている顔、暁を見ている顔、料理をしている顔。全部暁の中にある。暁はその全部に名前をつけられないまま、全部を持っている。

「桐生さん」

 料理をする桐生の少し斜め後ろ。危なくない場所で暁は桐生を呼び、腰のエプロンの紐を掴んだ。

「ん」

「桐生さん」

「ん。何回でも返事するよ」

 桐生の声が笑みを含んでいた。暁は桐生の横顔を見ている。桐生がなにをしているときでも、暁の呼びかけに毎回応えてくれる。暁はその反復の中に何かが蓄積されていくのを感じていた。呼ぶたびに暁の胸の中で温度が上がっている。

「……桐生さん」

「うん」

 暁は三回呼んだ。三回とも桐生は返事をした。暁の喉の奥で「誠さん」がまた動いた。もう喉の奥ではなく舌の付け根あたりまで来ている気がした。けれどまだ出てこない。暁は「桐生さん」と呼ぶたびにその距離を計測していて、「誠さん」は一回ごとに少しずつ暁の口元に近づいていた。

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