#4 好きの構造証言
翌日、暁は講義後の教室で桐生に会った。
周囲の学生が退室していく中で暁と桐生が残っている。暁は教室の椅子に座っていて、桐生は隣の席の椅子に腰掛けている。いつもの構図、いつもの席、いつもの距離。なのに暁にとってはすべてが違って見えた。桐生の顔が同じ顔なのに暁の目に入ってくる情報量が変わっており、桐生の目の色、襟足にかかる髪の揺れ方、手の動き、声の温度、暁はそれらを以前も受け取っていたが、名前がついた後のそれらは暁の胸を締めつける。
好き。暁はいまその名前を持っている。桐生を見るたびに暁の胸の中で「好き」が鳴っている。
「桐生さん」
桐生を呼んだ暁の声は少し温度が上昇しているが、震えていない。昨日までの暁の声とは違う。暁は自分の中にあるものの名前を知っていて、名前を知っているということはそれを言葉にできるということだ。暁の語彙に「好き」が加わった。映画が暁に与えた外部データ。暁はそれを自分の経験と照合して名前をつけた。証明はできない。けれど暁の身体は証明がなくても答えを出している。あとは言うだけだ。
「ん?」
桐生が暁の方を向き、首を傾げた。
「桐生さん。僕はあなたが、好きです」
暁は言った。
いつもの声で、真っ直ぐに、飾らずに、桐生の目を見て言った。告白という行為を暁は知識として知っているわけではなく、暁が今やっていることは事実の申告に近い。暁の中にある感情の名前が「好き」で、その感情の対象が桐生で、暁はその事実を桐生に伝えた。暁にとってはそれだけのことだった。緊張もしていない。
桐生は首を傾げたまま暁を見ていた。教科書を閉じようとしていた手が途中で止まっており、暁の言葉を受け取って桐生の全身がわずかに硬直している。暁にはその硬直が何を意味するのか正確には読めなかったが、桐生の目の中に何かが動いたことは検知していた。
「……俺、男だけど?」
間が空いて桐生が訊いてきた。声の温度はいつもと変わらない穏やかな声だったが、暁は桐生の声の中にわずかな揺れを検知した。桐生の声が揺れることは珍しい。暁の知る限り桐生の声はいつも安定していた。いまは揺れている。暁には桐生の声の揺れが何を意味するのか読めなかったが。
「はい。知っています」
暁はすぐに答えた。桐生が男であることを暁は知っているし、暁も男だ。暁はその情報を受け取って桐生の質問の意図を処理しようとしたが、男であることが暁が桐生を好きであることに何の影響を与えるのか、暁の中でその相関を検索しても該当するデータがない。施設は暁に性別の社会規範を教えていなかった。男が男を好きになることが社会的にどう認識されるかという知識を暁は持っていなかったため、暁は純粋に疑問として訊き返した。
「だからなんですか?」
桐生の表情が明確に変わった。暁にはその変化が何と呼ばれるものなのかわからなかったが、桐生の顔の全部が動いた。目が細くなり、口元が上がり、頬の筋肉が動いている。桐生が声を出さずに笑っている。暁がこれまで見た桐生の笑い方の中で、いちばん大きな笑い方だった。桐生の頬骨が持ち上がって、暁が昨日手袋越しに触れた場所の形が変わっている。
「……なんでもない。なんでもないよ」
桐生の声がいつもより少し高い。声の揺れはまだ残っているが、揺れの質が変わっている。暁にはそれが何なのか読めないが、ただ桐生が怒っていないことだけはわかる。桐生が否定していないことだけは。
「暁」
桐生が暁の名前を呼んだ。初対面の日と同じように、暁の名前を。ゆるりと暁の頭を撫でた桐生の手のひらが暁の首の後ろで止まっている。
「キスしていい?」
暁の思考が止まった。
「……きす?」
言葉は知っている。唇を触れ合わせる行為。暁はその定義を知識として持っているが、自分に適用される概念として処理したことがない。暁の唇に誰かの唇が触れるということを暁は想定していなかった。
「唇、触れるやつ」
「……映画で、見ました」
暁はインプットの出処を正直に申告した。昨日の映画。スクリーンの中の二人が唇を触れ合わせていた。暁はそれを見て学習した。自分がそれをすることは想定していなかったけれど、見た。学習した。
「じゃあ知ってるね。暁はどうしたい?」
桐生が確認する。いつもと同じ構造だった。暁に触れる前に桐生は必ず確認する。撫でていい? 触っていい? キスしていい? 暁の意志を確認してから動くという手順は施設では一度もなかったものであり、暁の選択権だった。暁が「いい」と言えばする。「嫌だ」と言えばしない。
「……いい、です」
暁は答えた。あの日、桐生に頭を撫でてもいいかと訊かれて「いい、です」と返したときと同じ言葉であり同じ構造だった。けれどあの日の「いい、です」は拒否する根拠がなかったから消去法で出た返答だったのに対して、いまの「いい、です」は違う。暁は桐生にキスされたい。暁の中にその欲求がある。名前のついた感情と一緒に。
暁の首の後ろで止まっていた桐生の手のひらに僅かな力が入る。そのほんの僅かな力で暁は桐生に引き寄せられ、顔が近づく。暁は教室の椅子に座ったまま桐生を見上げている。無意識のうちに、暁の片手が桐生の空いている手の上に重なっていた。引き寄せられるだけでなく、暁がほんの少し身を乗り出し、距離を詰める。触れる温度。近い距離。キスを体験したことはないが、暁が心地いいことはもう知っている。桐生の近く。そば。
桐生の瞳の中に暁の顔が映っている。至近距離だと桐生の睫毛の一本一本が見えて、頬骨の上の皮膚の質感まで暁の目が捉えていた。
──桐生の唇が暁の唇に触れた。
暁の目は開いたままだった。閉じるべきなのかもしれないが暁には判断基準がない。映画の中の人は目を閉じていた気がするが、暁はいま桐生を見ていたかった。桐生の睫毛が近い。桐生の鼻先が暁の頬のすぐ横にある。桐生の息が暁の唇に触れていて、温かい。唇に桐生の唇の温度がある。柔らかい。手袋越しの接触とは違う。布地がない。暁の唇と桐生の唇のあいだに挟まるものがなく、暁の唇は素肌だ。暁の手は手袋で素肌が隠れているが、唇だけが素肌で桐生に触れている。
暁の中で何かが溢れていた。温かい。温かいだけではなく、暁の身体の中の全部が桐生に向かって開いていくような感覚がある。暁の胸の中で「好き」が鳴っている。名前がある。名前があるから暁はいま自分に何が起きているのかわかっている。好きな人の唇が暁の唇に触れている。
桐生の唇がゆっくり離れていった。
暁の目がまだ開いていて、桐生を見ている。桐生の顔が少しだけ離れて暁を見ている。暁と桐生のあいだに数センチの距離がある。暁の唇に桐生の唇の温度が残っている。
沈黙。長い沈黙。暁の頭の中が空白になっている。数式が走らない。言葉も浮かばない。暁の中に存在しているのは唇に残った温度だけ。
「……もう一回、してもいいですか」
暁の口から無意識に言葉が出た。いつもの口調だが、明確に要求している。「触ってもいいですか」と同じ構造だが今度はキスであり、暁が自分から求めている。自分からキスをしていいという回路がない。キスという行為を知っていても、含まれている性的な意味を暁はまだ理解していない。「してもいいですか」という形で桐生に要求する。暁の自戒のぎりぎりの線で、能動と受動の境界に暁は立っている。
桐生がふと笑った。さっきの大きな笑いとは違う小さな柔らかい笑いだった。暁の目が開いたままだったことに気づいたのか暁の言い方がおかしかったのか、暁にはわからないけれど、桐生の笑いに悪意がないことは暁にもわかる。
「いいよ」
桐生がもう一度、暁の唇に触れた。今度は桐生の両腕に抱き締められた。今度は暁の目が半分だけ閉じた。──全部は閉じられなかった。桐生を見ていたかったから。暁の手袋をはめた手が桐生のシャツの裾を掴んでいた。暁の指が布地を握っている。手袋越しの布地。暁の手だけがまだ布越しで、唇は素肌で触れている。
二回目のキスが終わった後、暁と桐生はしばらくそのままでいた。
桐生の腕の中で暁はじっとしている。暁の手袋をはめた手が桐生のシャツの裾を掴んでいるが、暁は掴んでいる自分の手に気づきながらも離す理由がなかったので離さなかった。桐生もそれを引き剥がそうとしない。暁の手袋の白い布地が桐生のシャツの布地を掴んでいて、布と布のあいだに暁の指がある。
「桐生さん」
「ん」
「キスは……温かいんですね」
暁は事実を述べた。味噌汁を飲んだときと同じ発言だった。暁にとって新しい感覚に触れたとき、暁はまず温度を報告する。暁の語彙の中で温度は最も信頼できる表現であり、暁はいつもそこに戻ってくる。
桐生が小さく笑った。声を出さない、息が漏れるだけの笑い。暁にはその笑いの意味はわからなかったが、桐生の目が細くなっているのは見えた。
「暁、目開けたままだったね」
「……閉じた方がいいんですか」
悪戯気な顔をした桐生が暁を離さないまま、近い距離でいい、暁は訊き返した。暁にはどちらが正解なのかわからなく、桐生を見ていたい方を優先したのだ。
「どっちでもいいよ。暁がしたいようにしな」
「次は……閉じてみます」
暁の手袋をはめた手が桐生のシャツの裾をほんの少し強く握った。暁は「次」という語彙を自分で出していて、次がある前提で喋っていることに暁自身は気づいていない。桐生は気づいている。桐生の唇が弧を描いた。
「次もあるんだ」
桐生の声に笑いが混じっている。暁は桐生の声の温度を聞いていた。笑いの中に含まれている温度。穏やかで、暁に向けられていて、暁を否定していない温度。この温度を暁はたくさん聞いてきた。最初に数式の話をしたときからずっと同じ温度だった。暁はその温度の名前をいま知っている。好き。
「暁、俺も暁が好きだよ。だから一緒にいたいし、撫でたいし、抱き締めたいし、キスしたい」
「……好きだから、触れたいと思う、ということですか」
「ん。少なくとも、俺はね」
好きに今までの桐生の行動が結びついて、暁の中に「好き」が実体化した。キス。唇を触れあわせる行為と「好き」が暁の中で意味を持った。桐生の腕はゆるりと暁を解放して、頭を撫でて離れていく。
暁は桐生のシャツの裾を掴んだまま手を見た。手袋をはめている。唇は素肌で桐生に触れたのに、手だけが布越しだ。暁のすべてのうち、手だけが施設の首輪をしたまま桐生に触れている。
「桐生さん」
ぽつりと暁は呟いた。好きだから触れたいと思うことが桐生の帰結ならば──
「ん?」
「僕の手は、手袋をしています」
「うん。知ってるよ」
桐生の声にはいつもと変わらない温度があった。手袋について初めて暁の方から触れたのに、桐生は驚かない。暁はその反応の不在を確認してから、もう一段深い問いを出した。
「……なぜ、訊かないんですか」
暁は訊いた。ずっと訊きたかったのかもしれないと、ふと暁は思った。桐生は暁の手袋について一度も訊いたことがない。暁がなぜ手袋をしているのか、なぜ外さないのか、なぜ素手で触れないのか。桐生はすべてを見ていて何も訊かない。
桐生の目が暁を見た。──見ている時間が、長い。暁はその「長さ」を検知していた。桐生が暁を見る時間がいつもより長くなるとき、桐生の中で何かが動いている。暁にはその何かの名前がわからなかったが、今日の暁にはひとつだけわかることがある。暁が桐生を見る目と桐生が暁を見る目が、同じものを含んでいるということ。暁はいま「好き」を持っている。桐生も同じ言葉を返してきた。
「暁が話したいと思ったら話して。その時に俺は聞くよ」
桐生はそう返した。訊かない理由を説明しなかった。暁が自分で話す日を待っている。桐生はいつもそうする。手を差し出して暁が来るのを待つ。追わない。押しつけない。暁の速度で暁が辿り着くのを待っている。暁はその構造を受け取った。桐生がずっとそうしてくれていたことを暁はいま、「好き」という名前越しに見ている。
暁はその言葉を受け取った。暁の手袋をはめた手が桐生のシャツの裾をまだ掴んでいる。暁はその手を見ていた。この手袋を外す日が来るのかどうか、暁にはまだわからない。暁の頭は「素手の接触は未検証」と言っている。暁の身体は「外したい」と言っている。頭と身体がまだ合致していない。
けれど暁の手袋をはめた手は桐生のシャツの裾を掴んでいて、離していない。暁は離さなかった。桐生も引き剥がさなかった。暁の口元がわずかに動いている。暁は笑おうとしているのかもしれなかった。口角がほんの少しだけ持ち上がっていて、暁自身はそれに気づいていないけれど、桐生の目にはたぶん見えている。暁の表情が、暁の人生で最も多く動いた日。
教室の窓から夕方の光が差し込んでいる。暁の手袋が橙色に染まっていて、桐生のシャツの白と暁の手袋の白が同じ色の光を受けている。暁の手だけが施設の首輪をしたまま、暁はいま人生で最も高い場所にいた。桐生の隣で、桐生のシャツを掴んで、唇と上半身に桐生の温度を残したまま。




